その3 天内外ではなく天外内

外よりも先に内?

飛行機に乗っているときに、上空で機内の気圧が下がると、自動的に天井から酸素マスクが落ちてきます。そのときには、同乗している子どもよりも、まず自分が酸素を吸うようにしなければなりません。急減圧により、20秒ぐらいで気を失うこともあるからです。自分が倒れてしまっては、周囲の人を助けることができません。

以前は、このような例を挙げて、だからまず、働き人自身が養いを受けなければならない、と教えていました。イエス様も、「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、 その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:38)とおっしゃいました。

つまり、自分が神から恵みを受けるなら、その恵みが周囲に流れていくという考え方です。自分が渇いているのに他者を潤すことなどできないというわけです。

私も「外よりも先に内でしょ」と考えていたので、最初は、天内外トレーニングという名前にしていました。

しかし、イエス様を信じたばかりの人に、「あなたはまず癒され、 清められ、成熟し、聖霊に満たされなければなりません」と教えると、内面ばかりを気にして閉じこもる「心の癖」をつけてしまうことにもなりかねません。

癒しや清めや成熟は、一朝一夕で完成するものではありません。終生続く取り扱いを経て、植物が実を結ぶように自分の内側に形成されていくものです。だから、区切りがつくのを待っていると、 出て行くタイミングを逸してしまいます。サマリヤの女は、少しイエス様と会話した後、すぐに町の人たちに伝えに行きました(ヨハネ4:3-42参照)。

また、「満たされた」という感じは、主観的な感覚なので、どのように満たされたら十分なのか、という基準がはっきりせず、いつまでも不全感に悩まされる可能性があります。

私たちがイエス様を信じたとき、この土の器に「測り知れない力」(第2コリント4:7)が宿りました。「力と愛と慎みとの霊」(第2テモテ1:7)は、これからいただくものではなく、すでに与えられています。心の奥底から生ける水の川が流れ出ている状態が、霊的な幼子をも含むすべての信者のリアリティなのです。

その事実を認めることが信仰です。キリストに結びつけられた者はみな、「キリストをその身に着た」 (ガラテヤ3:27)のです。その確信に立って、「行って、あらゆる国の人々を弟子と」(マタイ28:19)する「外向き」の働きに就くとき、苦難を通して私たちの「内側」がキリストに似たものへと変えられていきます。

トレーニングの基本構造

それでは、天、外、内という順番でトレーニングの基本構造を説明していきましょう。

まず、人は3種類の愛の関係に生きる存在です。それは、神との関係、世界との関係、自分及び信者仲間との関係です。それぞれを「天」「外」「内」という3つの漢字で表現します。

 

人という漢字を図形として見ると、上と左下と右下に合計3ヶ所の出入口があります。イラストのように、上に「天」、左下に「外」、右下に「内」という漢字を書いてみましょう。

人の字を書こうとすると、まず天のところに筆を下ろします。人間にとって、3種類の関係の中でもっとも重要なのは、神との愛の関係です。

人は神への愛を二つの方法で表現します。

一つは、変わらない神の愛を喜ぶことです。神は、イエス様という最高の賜物をくださいました。贈り主であられる神に日々最高の喜びと感謝を表現することが、愛の表現となります。

「私たちの国籍は、天にあります。」(ピリピ3:20)

戸籍謄本の名前は、交通違反を犯しても、消えたり薄くなったりすることはありません。神は、私たちの状態にかかわらず、私たちを覚えて「おまえは私のものだ」とおっしゃってくださいます。だから、どんな時にも神の変わらぬ愛を喜ぶことができるのです。

 

二つ目の愛の表現は、従うことです。イエス様はおっしゃいました。

「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」(ヨハネ14:23)

イエス様は良い羊飼いで、羊である私たちに日々語ってくださっています。その声を聞いて従うことが、神を愛することなのです。そして神を喜び、神に従うときに、神の御思いを知るようになるのです。

神は言われます。

「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」(エレミヤ31:20)

あわれみ深い神は、すべての民をご自身の懐に抱きしめようとしておられます。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(第1テモテ2:4)

そのために、弟子たちは出て行って、「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」(マタイ9:36)人々に羊飼いを紹介します。しもべとして人々に仕え、大胆に福音を証しするのです。人の字は「天」の位置から左下に下り、「外」に向かってはねます。

「ひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)神の心を自分の心として世界に出ていくときに、「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ」(第2コリント12:10)ることがあります。

しかし、苦しみの中で、変わらぬ神の愛を喜び、神の声に従う生活を続けるときに、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」(ローマ5:4)ようになります。

 

外に向かってはねた筆が、「天」に向かって空中を進み、中央で着地した後、右下の「内」に向かって進むのは、苦難の中で神と親しく交わり、神に服従し続けるときに、キリストの柔和で謙遜な品性が「内」に宿っていくことを表わしています。

私が変えられると、周囲の人間関係も変わっていきます。神的品性への変革が、主にある兄弟姉妹を愛する前提となります。

 

「内」は、信者個人の内面の充実と、それに伴って共同体の「内」の人たちに示される愛の両方を表現しています。

また人の字には、右下に向かってはねてしまわないで、そこで止めて、 最後に左に向かってはねる書き方があります。その「外」に向かうはねは、「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35)という、内から宣教に向かうモーションを表わしています。

次へ

その3 天内外ではなく天外内” に対して1件のコメントがあります。

コメントは受け付けていません。