特別対談:教会を生み出す教会:各論2
リーダーシップは触媒の機能
福田
権限分散型の意義について書かれた『ヒトデはクモよりなぜ強いー21世紀はリーダーなき組織が勝つ』(オリ・ブラフマン/ロッド・A・ベックストローム著 糸井恵訳 日経BP社)という本では、ヒトデ型組織の特徴の一つとして、リーダーが「触媒」として機能することを挙げています。
キリスト教の視点で解釈すると、リーダーは、自分の夢の実現ではなく、「神が人々のために見ておられる夢」の実現を目指して、犠牲を払って仕えるために立てられた、という考え方です。
人々をいかにエンパワー(empower)するか、いかに権能委譲して、自分の能力を発揮する環境を備え、自立的に行動することを助けることができるか、ということに取り組みます。
このような触媒的なリーダーシップのあり方は、多くの組織にとって、普遍的な課題なのかな、って思っています。
大橋
逆に言えば、それが今の教会のネックですよね。
私の持論かもしれないけれども、究極的な問題の一つは権限委譲です。
それがされないままの教会形成を連綿と受け継いで、建て上げてきてしまった。
カトリック教会のようなヒエラルキーまでは無いにしても、それに近いものはプロテスタント教会の中でも現存している。
私がなぜそんなことを感じるかというと、自分が正規の神学校を卒業しているわけではなく、これまでずっと信徒としてやってきたからです。
福音自由教会だからこそ信徒だった者を教職に認めたわけですけど、これは私は福音自由教会の素晴らしいところだと思う。
福田
ただ牧師になられただけではなく、教師会の議長までなさったわけですよね(笑)。
大橋
そうですよね。神学校出身の牧師たちが居るのにね(笑)。
そういう視点から見てきたときに、恐らく神学校に行って卒業してそのまま教会に入ってきた牧師では気づかないものを、じつは私が気が付けるということがあるんですね。
そして、自分が牧師になったときに、そういう牧師たちと自分との間に何か壁というか、乗り越えられない段差というか、そのようのがあるように感じましたね。
言うなれば、目に見えないけれども、あるいは組織の中に明文化されてはいないけれども、厳然と存在する壁に「あぁやっぱり」と感じてしまうわけです。
福田
先生が感じられた違和感というのは、たぶん教会の隔絶された文化に、どれだけ親和性があったかという問題だと思います。
イエス様は娼婦のところに行かれて、ともに時間を過ごされました。
また、取税人たちと一緒に食事をされました。イエス様は世に出ていって、人々の土俵で、神の国の素晴らしさを証しなさいました。
ところが、教会は世の影響を排除しようとするあまり、安全なカプセルから出て行こうとしない。
「行って、伝えよ」という大宣教命令を、どれだけ日常生活の中で実行しているかという方向性の問題が大きいんじゃないかと思います。
大橋
「平信徒」なんていう言い方が昔はされましたね。
まぁ今はそういう言い方はあまりしないけれども。
やっぱり教職と信徒との間にはそういう開きがあるというのかな。
それは人格に対する尊敬というものとは違う意味で、立場上の区別ですよね。
やっぱりあるんだろうなと私は思いましたね。
福田
ハウスチャーチ系のムーブメントの中にいる人は、フラットな関係が普通なんですよ。
だから通常、改めて「壁を取り払おう」という意識はないですね。
大橋
そうですね。
役割の違いとでも言うか、それくらいユニークに受け止めているわけなんですよね。
話が戻るかもしれないけれども、触媒的なリーダーシップというものをおっしゃったように、いわゆるリーダーシップスタイルというものを支えている一面はコーチングとかメンタリングとかの技能であるわけです。
牧師がその辺でリーダーとして—触媒的リーダーを前提にしてですけれど—そういう技能がやはりこれからの時代では要求されていると思うんですね。
福田
リーダー自身がまずメンタリングやコーチングを受けていないと、なぜそれが大切か、どうすれば良いのか、ということが分からないと思います。自分が受けないでやろうとすると難しい。
大橋
実際に自分がやって、「あぁ、こういうことをやっちゃいけないんだな」ということを、初めて気づく。
理論だけではいかないなと思います。
イエス様のリーダーシップスタイルというのは、ある見方からすれば、触媒型だったんじゃないかなと私は思います。
その中にメンタリング、コーチングというか、厳密に言えばこの二つは違うわけだけれども、それぞれをそれぞれの違ったシチュエーションの中でイエス様はなさっているわけで。
福田
そうですね。
大橋
そういった面での研究がもう少し必要じゃないかなと思うんですね。
そして牧師は正規の課程の中で、そういったことを教えていかないとならないと思うんですよね。
福田
リーダー育成には、知識 (knowing)と、行為(doing)と、人格 (being)の三つの次元があります。
知識を伝えるためには、教室型が一番効率が良いのですが、知っていることを実行できるかというと、それはまた別の次元の課題になってきます。
大宣教命令の中でも、「命じておいたすべてのことを守るように、彼らに教えなさい」とあるわけですから、知っているだけでは使命を果たしたことにはなりません。
学んだことを実行に移すためには、受容的な関係の中で、よく話を聞いてもらったり、よい質問を投げ掛けられて、自分で考えたり、決断したりすることが不可欠です。
失敗をしても許されるところで、繰り返し練習することも必要でしょう。
神以外には頼ることができない環境の中で、はらはらどきどきしながら、導かれたと思うことをやってみるという「信仰の冒険」も成長を助けます。
知識があること自体は良いことなのですが、問題は「知っているか」ではなく、「従っているか」です。
また、実行しないと、本当の知識にはなっていきません。
それなのに、「たくさん教えれば、教えた相手はその通りに実行するはずだ」という神話があるようです。
大橋
神話というか信仰というか(笑)。
これはそもそも日本の学校教育に端を発している問題でもあると思います。
教えると言うことは、知識を経験に置き換えることであるはずなのに、知識が知識で終わっているのですね。
それが教会の中でも行われているわけです。
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