■恵みは一方的、結実は条件付き

ヨハネの福音書15章1-5節の「ぶどうの木のたとえ」から、実を結ぶ生き方をするために、恵みと祝福がどう関係するのか、ということについて考察します。

まず、「実を結ぶ」とはどういうことでしょうか。農夫がぶどうの木を植えたのは実を刈り取るためでした。だから、実を結ぶというのは、農園の主人が定めた「ぶどうの木の存在理由であり目的」だと考えられます。神の国の地上における確立にかかわる使命を遂行して父を喜ばせることが、実を結ぶことなのです。

では、3節の「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」という言葉の「きよい」という用語は何を意味するのでしょうか。ギリシャ語では、当該節は清潔や純粋を表わす「カタロス」が使われていますが、より一般的に新約聖書で使われている、聖め別たれたという意味の「ハギオス」(cf. ヨハネ17:17)と意味が重なった一連の概念と考えてよいと思います。

つまり、神によって世界から選び別たれた状態を「聖さ(ハギオス)」と定義することができます。神の目的のために世界から召し出され、神に属するものにされたという意味です。その結果、道徳的・倫理的に清潔かつ純粋なもの、つまり「きよい(カタロス)」者とされました。

パウロは同じ意味のことを、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」(第1コリント6:20)という言葉で表現しています。キリストの血という代価で買われた私たちは、自分勝手な目標を遂行するために自分の身体を使うことはできません。信者はすでに、「自分のからだをもって神の栄光を現わす」という目的を与えられた神の奴隷なのです。