『異教まみれのキリスト教?』注記:
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55ページ:注記163は、「ユダヤ教のシナゴーグを参考にしたもので」にかかっています。
180ページ:注記7は、「自分の能力に応じて」にかかっています。
184ページ:注記34は、「『貧しい人々への良い知らせ』ではなく」にかかっています。
194ページ:注記3は、1段落後の「初代教会では、信仰を持った人々はすぐにバプテスマを受けました」にかかっています。
196ページ:注記16は、2行上の「広まりました」にかかっています。
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※出典部分については原則として、原書の英文を転記しています。
※これらの注記は、誤解を招きやすい話について確認したり、内容を明確にしたりするためのものでもあります。
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目次<Contents>
- 謝辞
- 著者のノート:2012年版出版に際して追記
- はしがき by フランク・ヴィオラ
- 序説:教会に何が起こったのか? by ジョージ・バーナ
- 第1章:私たちは本当に聖書的だったのか?
- 第2章:教会堂~受け継がれる建築物コンプレックス
- 第3章:礼拝の形式~型にはまった日曜の朝
- 第4章:説教~プロテスタントの最も神聖な偶像
- 第5章:牧師~全てのメンバーが機能することを阻む障害
- 第6章:日曜朝の衣装~問題を隠すための衣
- 第7章:賛美担当牧師~音楽に特化した聖職者
- 第8章:什一献金(十分の一献金)と聖職者の給与~教会のふところ事情
- 第9章:バプテスマと聖餐式~希薄になった礼典
- 第10章:キリスト教教育~膨張しすぎた頭
- 第11章:新約聖書の再考察~聖書をジグソーパズルにしない
- 第12章:救世主の再発見~ 革命家イエス
- 次のステップ
- 最後の考察
謝辞
- 私が見つけられた現代の教会のやり方の起源の一部をたどる唯一の作品は以下のものですが、文献として認識されるものではありません。
Gene Edwards, Beyond Radical (Jacksonville: Seedsowers, 1999), Beyond Radical Uacksonville: Seedsowers, 1999.
著者のノート:2012年版出版に際して追記
- この主張を裏付けるためには、こちらhttps://paganchristianity.org/answers/(※英語のみ)をご覧ください。
- これらの本の詳細はこちら https://www.frankviola.org/reimaginingchurch/(※英語のみ)で紹介されています。
はしがき by フランク・ヴィオラ
- Herbert Lockyer Sr., ed., Nelson’s Illustrated Bible Dictionary (Nashville: Thomas Nelson Publishers, 1986), 830-831, 957-958.
マタイ23:23-24も参照。
- モーセの律法とは、旧約聖書の最初の5冊、すなわち創世記から申命記までのことを指します。これはまた、トーラ(律法)や五書とも呼ばれます。五書とは、ギリシア語で「五巻の書」という意味の言葉です。
- I. Howard Marshall, New Bible Dictionary, 2nd ed. (Wheaton, IL: InterVarsity Fellowship, 1982), 1055.
- 第一コリント12:12以降で、パウロは教会をキリストの体と呼んでいます。パウロによれば、教会は集合的なキリストです。頭は天にあり、体は地上にあります(使徒9:4-5、エペソ5:23、コロサイ1:18、2:19)。正しく考えるなら、教会は制度的な組織ではなく、霊的な有機体ということになります。
- 興味深いことに、オーガニック・チャーチは、初代教会と同じような問題に直面します。一方、制度化された教会は、その構造が新約聖書の教会とは大きく異なるため、聖書には解決策のない全く別の問題に直面します。例えば、制度化された教会では、信徒たちが牧師のことを気に入らなければ、彼を解雇することがあります。これは初代教会では決して起こらなかったことです。なぜなら、雇われた牧師など存在しなかったからです。
- この原則に関するより深い議論については、フランク・ヴィオラの本『Reimagining Church』(Colorado Springs: David C. Cook, 2008)(※翻訳予定)をご覧ください。また、「What Is an Organic Church?」(http://www.ptmin.org/organic.htm[※英語のみ])も参照してください。
- この本は学者向けのものではありませんが、多くの学者から推薦されています。こちら http://www.PaganChristianity.org(※ ENDORSEMENTSのページ。日本語版はhttps://rac-network.com/endorse_pagan)をご覧ください。
- この本はプロテスタントのキリスト教の慣習に焦点を当てています。そして、その主な範囲は、国教会・聖公会・東方正教会、ルター派の一部などの「ハイ・チャーチ」の教派ではなく、「ロウ・チャーチ」のプロテスタントです。ハイ・チャーチとは、正統キリスト教の司祭・聖餐・礼拝形式によるカトリック的要素を強調する教会のことを意味します。この本はハイ・チャーチの慣習については、少し触れる程度にしか述べていません。
- イギリスの哲学者フランシス・ベーコンがかつて言ったように、「聖アウグスティヌスや聖アンブロシウスの著作ではなく、教会史を徹底的に読み、観察することが、賢い神学者を作るのだ」ということです。
- 教父たちの引用については、可能な限り彼らの原著を引用することにしました。原著を引用しない場合には、次の本を引用しました。これは、彼らの原著の編集と翻訳です。
Early Christians Speak, 3rd ed., by Everett Ferguson (Abilene, TX: ACU Press, 1999).
序説:教会に何が起こったのか? by ジョージ・バーナ
- Frank C. Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting (Philadelphia: Fortress Press, 1983), 51.
第1章:私たちは本当に聖書的だったのか?
- 歴史上の人物(特に教会の発展に大きな影響を与えた人物)については、最初に言及するときには、一般的にその生没年を記載しています。これらの年代やその人物の影響の簡単な要約については、別頁の付録「教会史上の重要人物」(※ https://rac-network.com/pagan_kfch[日本語版])を参照してください。
- ソクラテスの生涯と教えについての簡潔な論考としては以下を参照。
Samuel Enoch Stumpf, Socrates to Sartre (New York: McGraw-Hill, 1993), 29-45. - Ken Connolly, The Indestructible Book (Grand Rapids: Baker Books, 1996);
John Foxe, Foxe’s Book of Martyrs (Old Tappan, NJ: Spire Books, 1968). - Edwin Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages upon the Christian Church (Peabody, MA: Hendrickson, 1895), 18.
ハッチは、文化に影響を与える教会ではなく、文化に影響される教会の有害な影響をたどっています。 - キリスト教哲学者のセーレン・キェルケゴール(1813-1855年)は、現代のキリスト教は本質的に偽物であると言いました。
Søren Kierkegaard, “Attack on Christendom,” in A Kierkegaard Anthology, ed. Robert Bretall (Princeton, NJ: Princeton University Press, 1946), 59~, 117, 150~, 209~.
- Will Durant, Caesar and Christ (New York: Simon & Schuster, 1950), 577.
Shirley J. Case, The Social Origins of Christianity (New York: Cooper Square Publishers, 1975), 27-28.
E.グレン・ヒンソンは、「初期のキリスト教会では、異邦人がユダヤ人を数で上回るようになった。彼らは、ギリシアやローマの文化の考え方や態度・習慣を巧みに取り入れた」と付け加えています
E. Glenn Hinson, “Worshiping Like Pagans?” Christian History 12, no. 1 [1993]: 17. - Paul F. Bradshaw, The Search for the Origins of Christian Worship (New York: Oxford University Press, 1992), 65;
Durant, Caesar and Christ, 575, 599-600, 610-619, 650-651,671-672. - 異教徒という用語は、初期のキリスト教弁証家たちが非キリスト教徒を便利なパッケージにまとめるために使ったものです。その根底には、「異教徒」とはpagus(田舎地区)やrural district(農村地区)の住人、という意味があります。キリスト教は主に都市で広まったので、田舎者や異教徒は、古い神々を信じていると見なされました。
Joan E. Taylor, Christians and the Holy Places: The Myth of Jewish-Christian Origins (Oxford: Clarendon Press, 1993), 301. - レッドピルという考え方は、ヒット映画『The Matrix(邦題:マトリックス)』から来ています。映画では、モーフィアスがネオに、欺瞞的な夢の世界で生きるか、現実を理解するかの選択を与えます。彼の言葉は、この話題にも当てはまります。「これからは引き返せない。青い錠剤を飲めば、物語は終わり、ベッドで目覚めて、信じたいことを信じる。赤い錠剤を飲めば…ウサギの穴がどこまで深いかを見せてやる」。私たちは、神の民がみな、レッドピルを飲む勇気があることを願っています!
第2章:教会堂~受け継がれる建築物コンプレックス
- キリストは神殿であるということについて(ヨハネ1:14)。そこで使われているギリシア語の言葉は文字通り「幕屋に住んだ」という意味(ヨハネ2:19-21)。キリストは生ける石で造られた新しい家(マルコ14:58、使徒7:48、第二コリント5:1、6:16、エペソ2:21-22、ヘブル3:6、9:24、第一テモテ3:15)。
キリストが祭司であるということについて(ヘブル4:14、5:5-6、10、8:1-2)。私たちに与えられる新しい祭司職について(第一ペテロ2:9、黙示録1:6)。
キリストが最後の犠牲であるということについて(ヘブル7:27、9:14、25-28、10:12、第一ペテロ3:18)。ヘブル人への手紙は、イエスが自分自身を「一度きりの永遠の犠牲」としてささげたことと、再び犠牲にされる必要はないという事実を強調しています。 - 使徒7章でのステパノのメッセージは、「神殿はソロモンが始めた人間の造った家にすぎず、神の啓示による型に従ってモーセが建てるように命じられダビデの時代まで続いた会見の幕屋とは、何の関係もない」と示しています(使徒7:44-50)。
Harold W. Turner, From Temple to Meeting House:The Phenomenology and Theology of Places of Worship (The Hague: Mouton Publishers, 1979), 116-117.
また、マルコ14:58でイエスは、ソロモン(とヘロデ)の神殿は「手で造られた」が、自分が建てる神殿は「手で造られない」と言っています。ステパノも使徒7:48で同じ言葉を使っています。神は「手で造られた」神殿には住みません。私たちの天の父は神殿に住む方ではないのです! - コロサイ2:16-17を参照。キリストが来たるべきものの影であるユダヤ人の律法を成就したことは、ヘブル書の中心的なテーマです。新約聖書の著者たちはみな、神は聖なる犠牲や仲介する祭司職を必要としないと断言しています。すべてのものは(いけにえであり仲介する祭司である)イエスによって成就されました。
- アーネスト H. ショート、ギリシアの神殿の建築について詳しく説明しています。
Ernest H. Short, History of Religious Architecture (London: Philip Allan & Co., 1936), ch. 2.
デビッド・ノリントンは「それにもかかわらず、宗教的な建物は、ギリシア・ローマの宗教の不可欠な部分であった」と述べています。
David Norrington, To Preach or Not to Preach? The Church’s Urgent Question (Carlisle, UK: Paternoster Press, 1996), 27.
異教徒たちは「聖なる」神殿も持っていました。
Michael Grant, The Founders of the Western World: A History of Greece and Rome (New York: Charles Scribner’s Sons, 1991), 232-234.
異教徒の儀式についての詳細は以下を参照。
Robin Lane Fox, Pagans and Christians (New York: Alfred Knopf, 1987), 39, 41-43, 71-76, 206. - John O. Gooch, “Did You Know? Little-Known or Remarkable Facts about Worship in the Early Church,” Christian History 12, no. 1 (1993): 3.
- 第一コリント3:16、ガラテヤ6:10、エペソ2:20-22、ヘブル3:5-6、第一テモテ3:15、第一ペテロ2:5、4:17を参照。これらの箇所はすべて、神の民について言及しており、建物についてではありません。アーサー・ウォリスは、「旧約では、神は自分の民のために聖所を持っていたが、新約では、神は自分の民を聖所として持っている」と書いています。
Arthur Wallis, The Radical Christian (Columbia, MO: Cityhill Publishing, 1987), 83. - 新約聖書によれば、教会はキリストの花嫁であり、世界で最も美しい女性です。ヨハネ3:29、第二コリント11:2、エペソ5:25-32、黙示録21:9を参照してください。
- Clement of Alexandria, The Instructor, Book 3, ch. 11.
- 19世紀の教会史学者アドルフ・フォン・ハルナックは、1世紀と2世紀のクリスチャンについて、「一つ明確なことは、特別な礼拝の場所という考えはまだ生まれていなかったということである。キリスト教の神と神聖な奉仕の考え方は、これを推進するどころか排除した。また、実際の状況がその発展を遅らせた。」と言っています。
Adolf von Harnack, The Mission and Expansion of Christianity in the First Three Centuries, vol. 2 (New York: G. P. Putnam’s Sons, 1908), 86. - Robert L. Saucy, The Church in God’s Program (Chicago: Moody Publishers, 1972), 11, 12, 16;
A. T. Robertson, A Grammar of the Greek New Testament in the Light of Historical Research (Nashville: Broadman & Holman, 1934), 174.
ウィリアム・ティンダル/William Tyndaleが新約聖書を翻訳するとき、彼はekklesiaを「教会(church)」と翻訳することを拒否し、より正確に「集会(congregation)」と翻訳しました。残念ながら、キング・ジェームズ訳の翻訳者たちは、ekklesiaの翻訳として「教会」を使いました。彼らは、集会という正しい翻訳を、清教徒の用語だったからという理由で拒否したのです。1611年の翻訳の序文にある「読者への翻訳者たちからの言葉」を見てください。
Gerald Bray, Documents of the English Reformation (Cambridge: James Clarke, 1994), 435. - Clement, The Instructor, Book 3, ch. 11.
クレメンスは、「女性も男性も、教会に行くときはきちんとした服装をしなければならない」と書いています(※第6章注2参照)。 - Graydon F. Snyder, Ante Pacem: Archaeological Evidence of Church Life Before Constantine (Macon, GA: Mercer University Press, 1985), 67;
Graydon F. Snyder, First Corinthians: A Faith Community Commentary (Macon, GA: Mercer University Press, 1991), 3. - 「教会法によれば、『教会とは、すべての信者と宗教の公的行為のために神への礼拝にささげられた聖なる建物』である」
Peter F. Anson, Churches: Their Plan and Furnishing (Milwaukee: Bruce Publishing Co., 1948), 3. - Fox, Pagans and Christians, 71, 207, 27, 347, 355.
「現代のキリスト教では、160万人以上の成人が童貞を誓っている」(p.355)。彼らは修道女や司祭と呼ばれています。 - ステパノも神殿について否定的に語りました。興味深いことに、イエスとステパノは、同じ罪で告発されました。神殿に対して批判したという罪です(マルコ14:58、使徒6:13-14)。
- ヨハネ2:13-22、マルコ2:22。
Oscar Cullmann, Early Christian Worship (London: SCM Press, 1969), 72-73, 117. - ヨハネ4:23。聖書は、教会すなわち信者の共同体が本当の神殿であると教えています(第一コリント3:16、エペソ2:22)。それは地上における神の生きた住まいです。したがって、礼拝は空間的に位置づけられるものでも、生活の全体から切り離されるものでもありません。聖書的に言えば、キリスト者の「聖なる場所」は、彼らの昇天した主と同じくらい遍在的です。礼拝は、ある場所である時間に行うものではありません。それは生き方そのものです。礼拝は、神の民の内部、すなわち今日神が住んでいるところで、霊と真理のうちに起こります。
J. G. Davies, The Secular Use of Church Buildings (New York: The Seabury Press, 1968), 3-4. - James D. G. Dunn, “The Responsible Congregation, 1 Corinthians 14:26-40,” in Charisma und Agape (Rome: Abbey of St. Paul before the Wall, 1983), 235-236.
- 3世紀のキリスト教弁証論学者ミヌキウス・フェリクスは、「私たちは神殿も祭壇も持っていない」と記しています。
Minucius Felix, The Octavius of Minucius Felix, ch. 32.
Robert Banks, Paul’s Idea of Community (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 1994), 8-14, 26-46. - 使徒2:46、8:3、20:20、ローマ16:5、第一コリント16:19、コロサイ4:15、ピレモン1:1-2、第二ヨハネ10。当時のクリスチャンたちは時々、特別な目的や一時的な目的のために、すでに存在する建物を使うことがありました。ソロモンの回廊やツラノの講堂がその例です(使徒5:12、19:9)。しかし、彼らの通常の教会の集会は、常に個人の家の中で行われました。
- Snyder, Ante Pacem, 166.
ジョン A.T. ロビンソン は「最初の300年間、教会は建物を持たなかった」と書いています。
John A. T. Robinson, The New Reformation (Philadelphia: Westminster Press, 1965), 89. - Robert Banks and Julia Banks, The Church Comes Home (Peabody, MA: Hendrickson Publishers, 1998), 49-50.
後述するドゥラ・エウロポスの家が破壊されたのはAD256年です。フランク・センによると、「最初の数世紀のキリスト教徒たちは、異教徒の信仰とは対照的に、公的な宣伝を欠いていた。彼らは神殿や祭壇、像や犠牲を持たなかった。彼らは公的な祭りや踊り、音楽演奏や巡礼を行わなかった。彼らの中心的な儀式は、ユダヤ教から受け継いだ家庭的な起源と設定を持つ食事であった。実際、最初の3世紀のキリスト教徒たちは、キリスト教共同体のために適した集会場に改造された個人の住居で通常集まっていた。これは、初期キリスト教の礼拝の儀式的な貧しさは、原始的なものとして捉えるべきではなく、むしろキリスト教の礼拝の霊的な性格を強調する方法であったことを示している。」
Frank Senn, Christian Liturgy: Catholic and Evangelical (Minneapolis: Fortress Press, 1997), 53. - コンスタンティヌス以前のキリスト教徒たちは貧しくて財産を持てなかったと主張する人もいますが、これは間違いです。例えば、ヴァレリアヌス皇帝(253-260年)の迫害の下では、キリスト教徒が所有するすべての財産が没収されました。Philip Schaff, History of the Christian Church (Grand Rapids: Eerdmans, 1910), 2:62.
L. マイケル・ホワイトは、初期キリスト教徒たちは高い社会経済的階層にアクセスできたことを指摘しています。また、2世紀と3世紀のギリシア・ローマ文化の環境は、多くの集団が私的な建物を共同体的で宗教的な用途に適応させることに対して非常に開かれていました。
L. Michael White, Building God’s House in the Roman World (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1990), 142-143.
Steve Atkerson, Toward a House Church Theology (Atlanta: New Testament Restoration Foundation, 1998), 29-42. - Snyder, Ante Pacem, 67.
これらの改造された家は、「家の集会(domus ecclesiae)」と呼ばれています。 - Everett Ferguson, Early Christians Speak: Faith and Life in the First Three Centuries, 3rd ed. (Abilene, TX: A.C.U. Press, 1999), 46, 74. White, Building God’s House, 16-25.
- James F. White, Protestant Worship and Church Architecture (New York: Oxford University Press, 1964), 54-55.
- “Converting a House into a Church,” Christian History 12, no. 1 (1993): 33.
- Norrington, To Preach or Not, 25.
個人の家を改造することに加えて、アラン・クライダーはこう言っています。「3世紀半ばまでに、集会は数と富において成長していた。そこで、インスラ(島)と呼ばれる、店や住宅を含む多層の街角で会っていたキリスト教徒たちは、目立たないように、私的な空間を集会のニーズに合わせて家庭的な複合施設に変え始めた。彼らは壁を取り壊してアパートを統合し、彼らの成長する共同体の生活に必要なさまざまな空間を、大きいものも小さいものも作り出した。」
Alan Kreider, Worship and Evangelism in Pre-Christendom (Oxford: Alain/GROW Liturgical Study, 1995), 5. - Turner, From Temple to Meeting House, 195.
ルネサンスの理論家アルベルティとパッラーディオは、古代ローマの神殿を研究し、キリスト教の教会建築を指す言葉として神殿という用語を使い始めました。後に、カルヴァンはキリスト教の建物を「神殿」と呼び、それを宗教改革の語彙に加えました(p.207)。教会堂の世俗的な使用についての考え方については以下を参照。
Davies, Secular Use of Church Buildings, 220-222. - Snyder, Ante Pacem, 83, 143-144, 167.
- “Praying to the ‘Dead,” Christian History 12, no. 1 (1993): 2, 31.
- Snyder, Ante Pacem, 65;
Johannes Quasten, Music and Worship in Pagan and Christian Antiquity (Washington DC: National Association of Pastoral Musicians, 1983), 153-154, 168-169. - Quasten, Music and Worship, 162-168.
テルトゥリアヌスは、クリスチャンたちが異教徒の葬列の風習を廃止しようと必死に努力したことを記しています。しかし、最終的に彼らはそれに屈しました。異教の形式から大きく影響を受けたキリスト教の葬儀儀式は、3世紀に現れ始めました。
David W. Bercot, ed., A Dictionary of Early Christian Beliefs (Peabody, MA: Hendrickson, 1998), 80;
Everett Ferguson, ed., Encyclopedia of Early Christianity (New York: Garland Publishing, 1990), 163.
クリスチャンたちが死者のために祈るという慣習は、2世紀頃に始まったようです。テルトゥリアヌスは、それが彼の時代には一般的だったと言っています。
Tertullian, de cor. 4.1,
F. L. Cross and E. A. Livingstone, eds., The Oxford Dictionary of the Christian Church, 3rd ed. (New York: Oxford University Press, 1997), 456. - Snyder, Ante Pacem, 83.
- Haas, “Where Did Christians Worship?” Christian History 12, no. 1 (1993): 35;
Turner, From Temple to Meeting House, 168-172. - Haas, “Where Did Christians Worship?” 35;
Josef A. Jungmann, The Early Liturgy: To the Time of Gregory the Great (Notre Dame: Notre Dame Press, 1959), 141. - White, Protestant Worship and Church Architecture, 60.
これらの記念碑は後に壮麗な教会堂に変えられました。 - Jungmann, Early Liturgy, 178;
Turner, From Temple to Meeting House, 164-167. - Schaff, History of the Christian Church, 2:292.
「カタコンベの使用は、2世紀の終わりから5世紀の終わりまで、約3世紀続きました。」
Snyder, Ante Pacem, 84.
一般的に言われていることと反して、ローマのキリスト教徒が迫害から逃れるためにカタコンベに隠れていたという歴史的証拠は一片もありません。彼らは死んだ聖人たちに近づくためにそこで会っていたのです。
Hass “Where Did Christians Worship?” 35;
David F. Wright “Early Glimpses,” Christian History 12, no.1 (1993): 30. - Snyder, Ante Pacem, 27.
「イエスはコンスタンティヌス以前の芸術では苦しみも死にもしません。十字架の象徴も、それに相当するものもありません」(p. 56)。フィリップ・シャフは、コンスタンティヌスがAD312年にマクセンティウスに勝利した後、十字架が兜(かぶと)・バックラー・王冠などに見られたと言っています。
Schaff, History of the Christian Church, 2:270. - Snyder, Ante Pacem, 165.
- Schaff, History of the Christian Church, 2:269-70.
- 遺物とは、聖人の死後の物質的な遺体や、その体に触れたあらゆる聖なる物のことです。relic(遺物)という英語は、ラテン語のreliquereという言葉から来ており、「残す」という意味です。遺物の崇敬の最初の証拠は、AD156年頃の『Martyrium Polycarpi(ポリュカルポスの殉教)』に現れます。この文書では、ポリュカルポスの遺物は貴重な石や金よりも価値があるとされています。
Cross and Livingstone, Oxford Dictionary of the Christian Church, 1379; Michael Collins and Matthew A. Price, The Story of Christianity (New York: DK Publishing, 1999), 91;
Jungmann, Early Liturgy, 184-187. - Snyder, Ante Pacem, 91;
Turner, From Temple to Meeting House, 168-172. - これは聖餐が置かれたテーブルです。祭壇テーブルは、神にささげられるもの(祭壇)と人に与えられるもの(テーブル)を表しています。
White, Protestant Worship and Church Architecture, 40, 42, 63
側面の祭壇はグレゴリウス大帝の頃まで使われていませんでした。Schaff, History of the Christian Church, 3:550. - 4世紀には、一般信徒は祭壇に近づくことが禁じられました。
Edwin Hatch, The Growth of Church Institutions (London: Hodder and Stoughton, 1895), 214-215. - Norman Towar Boggs, The Christian Saga (New York: The Macmillan Company, 1931), 209.
- Ilion T. Jones, A Historical Approach to Evangelical Worship (New York: Abingdon Press, 1954), 103;
シャフの冒頭の言葉は示唆に富んでいます。「キリスト教が国家に認められ、財産を持つ権利を与えられると、ローマ帝国のあらゆる地域に礼拝堂を建てました。このような建築は、おそらく4世紀には、アメリカ合衆国の19世紀を除いてどの時代よりも多く行われました。」
Schaff, History of the Christian Church, 3:542.
ノリントンは、4世紀と5世紀の司教たちが富を増やすにつれて、それを精巧な教会堂建築計画に注ぎ込んだと指摘しています。
Norrington, To Preach or Not, 29.
ファーガソンは、「コンスタンティヌス時代以前、特別に建てられた建物は見つかりません。最初は簡素なホールで、その後コンスタンティヌスのバシリカになりました。」コンスタンティヌス以前は、教会の集会に使われたすべての建造物は、「教会の用途に改造された家や商業ビルでした」と記しています。
Ferguson, Early Christians Speak, 74. - その年、コンスタンティヌスはミルウィウス橋の戦いで西方皇帝マクセンティウスを破りました。コンスタンティヌスは、戦闘の前夜に天に十字架のしるし(※キリストを表すXとPを掛け合わせたしるしと言われます)を見て、キリスト教に改宗したと主張しました。
Connolly, The Indestructible Book, 39-40. - これには、神殿・祭司職・神祇官団、ヴェスタの処女たち、そして自分のために留保された称号(Pontifex Maximus)が含まれていました。
Louis Duchesne, Early History of the Christian Church (London: John Murray, 1912), 49-50;
Μ. Α. Smith, From Christ to Constantine (Downers Grove, IL: Inter Varsity, 1973), 172. - Paul Johnson, A History of Christianity (New York: Simon & Schuster, 1976), 68.
- 彼はまた、自分の2番目の妻の死に関与したと告発されていますが、一部の歴史家はこれは虚偽の噂だと考えています。
Taylor, Christians and Holy Places, 297;
Schaff, History of the Christian Church, 3:16-17;
Ramsay MacMullen, Christianizing the Roman Empire: AD 100-400 (London: Yale University Press, 1984), 44-58. - Kim Tan, Lost Heritage: The Heroic Story of Radical Christianity (Godalming, UK: Highland Books, 1996), 84.
- コンスタンティヌスは、征服されない太陽(異教の神)とキリストが何らかの形で両立できると考えていたようです。
Justo L. Gonzalez, The Story of Christianity (Peabody, MA: Prince Press, 1999), 1:122-123. - Hinson, “Worshiping Like Pagans?” 20;
Jungmann, Early Liturgy, 136. - Gonzalez, The Story of Christianity, 123.
- Fox, Pagans and Christians, 666;
Durant, Caesar and Christ, 63, 656. - Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 1307.
- Robert M. Grant, Early Christianity and Society (San Francisco: Harper & Row Publishers, 1977), 155.
- Durant, Caesar and Christ, 656.
- Johnson, A History of Christianity, 69;
Duchesne, Early History of the Christian Church, 69.
東方教会では、コンスタンティヌスは実際に第13の使徒と呼ばれ、聖人として崇敬されています。
Cross and Livingstone, Oxford Dictionary of the Christian Church, 405;
Taylor, Christians Holy Places, 303, 316;
Snyder, Ante Pacem, 93. - Taylor, Christians and the Holy Places, 308;
Davies, Secular Use of Church Buildings, 222-237. - 遺物には霊力があるという考えは、ユダヤ人のルーツであるとは考えられません。彼らは死体に触れることは汚れであると信じていたからです。この考えは完全に異教的なものでした。
Boggs, Christian Saga, 210. - Johnson, A History of Christianity, 106.
これはヴィジランティウス/Vigilantiusの言葉の引用です。 - Taylor, Christians and Holy Places, 317, 339-341.
- Boggs, Christian Saga, 202.
- Gonzalez, The Story of Christianity, 123.
- Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 1379.
ヘレナは、コンスタンティヌスの息子の処刑と妻の「自殺」の直後に、聖地への巡礼をしました。
Fox, Pagans and Christians, 670-671,674. - Oscar Hardman, A History of Christian Worship (Nashville: Parthenon Press, 1937).
ヘレナはコンスタンティヌスにこの釘を2本与えました。一つは彼の王冠のためで、もう一つは彼の馬の口輪のためでした。
Johnson, A History of Christianity, 106;
Duchesne, Early History of the Christian Church, 64-65.
「十字架には奇跡的な力があると言われており、それから来たと主張される木のかけらが帝国中に見つかりました」
Gonzalez, The Story of Christianity, 126.
ヘレナが十字架を発見したという伝説は、4世紀後半にエルサレムで生まれ、全帝国に急速に広まりました。 - Taylor, Christians and Holy Places, 308;
Boggs, Christian Saga, 206-207. - Fox, Pagans and Christians, 667-668.
- Taylor, Christians and Holy Places, 309.
- Snyder, Ante Pacem, 65.
これらの場所は殉教地と呼ばれています。 - Snyder, Ante Pacem, 92;
Haas, “Where Did Christians Worship?” Christian History, 35. - Taylor, Christians and Holy Places, 340-341.
デイヴィスはこう言っています。「最初のクリスチャンたちは聖なる神殿を持っていなかったので、献堂式の必要性は生じませんでした。教会の平和がもたらされた4世紀になって初めて、建物を聖別するという慣習が始まりました」
Davies, Secular Use of Church Buildings, 9, 250. - Short, History of Religious Architecture, 62.
- Johnson, A History of Christianity, 209.
- Snyder, Ante Pacem, 109.
ハースによると、聖ペテロ大聖堂は255メートルの長さがあったということです。
Haas, “Where Did Christians Worship?” Christian History, 35.
サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂の詳細は:
Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 1442.
聖墳墓教会の詳細は:
Edward Norman, The House of God: Church Architecture, Style, and History (London: Thames and Hudson, 1990), 3839;
降誕教会の詳細は:
Edward Norman, The House of God, 31.
他の9つの教会の詳細は:
James White, Protestant Worship and Church Architecture, 56;
White, Building God’s House, 150;
Grant, Early Christianity and Society, 152-155. - Turner, From Temple to Meeting House, 185.
- Davies, Secular Use of Church Buildings, 8.
これは反キリスト教の作家ポルフィリウス/Porphyryからの引用です。
ポルフィリウスは、キリスト教徒は一貫性がないと言いました。なぜなら、彼らは異教の礼拝を批判しながらも、異教の神殿をまねた建物を建てたからです。
White, Building God’s House, 129.
- Gonzalez, The Story of Christianity, 122.
ハーヴェイ・ヨーダー/Harvey Yode教授によると、コンスタンティヌスは最初のハギア・ソフィア教会(聖なる知恵の教会)を異教の神殿の跡地に建て、帝国中から427体の異教の像を輸入して飾りました(1993年10月、バージニア州ハリスバーグで行われた講演「From House Churches to Holy Cathedrals(家の教会から聖なる大聖堂へ)」より)。 - Grant, Founders of the Western World, 209.
最初のバシリカは、AD314年に寄贈された皇帝の宮殿から建てられた聖ヨハネ・ラテラン教会でした。
White, Building God’s House, 18.
「コンスタンティヌスは、先駆的な聖ヨハネ・ラテラン教会のあるべき姿を決めるとき、バシリカをモデルに選び、それをローマのキリスト教の礼拝の場の標準としました。」
Lionel Casson, Everyday Life in Ancient Rome (Baltimore: Johns Hopkins University Press, 1998), 133. - Hinson, “Worshiping Like Pagans?” 19;
Norman, House of God, 24;
Jungmann, Early Liturgy, 123.
バシリカという言葉は、ギリシア語のbasileusという言葉から来ており、「王」という意味です。「キリスト教の建築家たちは、異教の計画を改良し、建物の一端にある大きく丸いくぼみ、またはアプス(※聖堂などの建物・部屋から突出した半円形の内部空間)の近くに祭壇を設置した。そこには王や裁判官が座っていたが、今では司教が異教の権威者の代わりをとっている。」
Collins and Price, Story of Christianity, 64. - White, Protestant Worship and Church Architecture, 56.
あるカトリックの学者はこう述べています。「キリスト教の時代よりもずっと前から、さまざまな異教の教派や組織が、バシリカ型の建物を礼拝に用いていました。」
Jungmann, Early Liturgy, 123;
Turner, From Temple to Meeting House, 162-163.
さらに、AD320年から330年の間に建てられたコンスタンティヌスのエルサレムとベツレヘムの教会は、シリアの異教の聖域を模したものでした。
Gregory Dix, The Shape of the Liturgy (London: Continuum International Publishing Group, 2000), 26.
- Michael Gough, The Early Christians (London: Thames and Hudson, 1961), 134.
- Michael Gough, The Early Christians, 134.
- Jungmann, Early Liturgy, 137.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 57, 73-74.
「したがって、教会堂はもはや神の民が共同体として礼拝するための家ではなく、うやうやしく入ることを許された神の家でした。彼らは身廊(※教会堂中央の細長い広間の部分)にとどまり、聖歌隊や司祭のために予約された聖域である聖堂(聖職者の台)に入ることは許されませんでした。」
Turner, From Temple to Meeting House, 244;
Hatch, Growth of Church Institutions, 219-220. - 最初の祭壇は木で作られていました。そして、6世紀からは、大理石・石・銀または金で作られるようになりました。
Johnson, A History of Christianity, 3: 550. - Snyder, Ante Pacem, 93;
White, Protestant Worship and Church Architecture, 58;
William D. Maxwell, An Outline of Christian Worship: Its Developments and Forms (New York: Oxford University Press, 1936), 59. - Kenneth Scott Latourette, A History of Christianity (New York: Harper and Brothers, 1953), 204.
- Johnson, A History of Christianity, 3:549-550, 551.
プロテスタントの教会堂では、説教壇が前景にあり、祭壇台が背景にあります。 - Short, History of Religious Architecture, 64.
- Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 302.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 57.
- Davies, Secular Use of Church Buildings, 11;
Dix, Shape of the Liturgy, 28. - White, Protestant Worship and Church Architecture, 59.
- Dix, Shape of the Liturgy, 28.
- Grant, Early Christianity and Society, 155.
- Norman, House of God, 23-24.
- Hinson, “Worshiping Like Pagans?” 19.
グレゴリウス1世(540-604年)は、異教の神殿をキリスト教に用いることができるようきよめるために、聖水とキリスト教の聖遺物の使用を定めた最初の人物でした。
Bede, A History of the Christian Church and People, trans. Leo Sherley-Price (New York: Dorset Press, 1985), 86-87 (bk. 1, chapter 30).
上記の書籍には、グレゴリウス1世が異教の神殿をキリスト教に用いるために聖別する方法についての指示が含まれています。
John Mark Terry, Evangelism: A Concise History (Nashville: Broadman and Holman, 1994), 48-50;
Davies, Secular Use of Church Buildings, 251. - Hinson, “Worshiping Like Pagans?” 20;
White, Protestant Worship and Church Architecture, 56. - Jungmann, Early Liturgy, 132.
- Richard Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture (London: Penguin Books, 1986), 40-41.
クラウトハイマー/Krautheimerは、コンスタンティヌスの下でのローマ帝国の儀式とキリスト教の典礼との類似点について生き生きと描写しています。 - Jungmann, Early Liturgy, 129-133.
- Gonzalez, The Story of Christianity, 125.
- ラトゥレットは、著書でギリシア・ローマ時代の異教がキリスト教信仰に強く影響を与えたことを記しています。
Kenneth Scott Latourette, A History of Christianity, 201-218. - White, Protestant Worship and Church Architecture, 56.
- Jungmann, Early Liturgy, 130, 133.
- 歴史家たちは、コンスタンティヌス帝の治世の時代を「ローマの平和」と呼びます。ローマの平和は実際には、AD311年のガレリウス勅令(寛容令とも呼ばれる)によってもたらされました。それから2年後のAD313年には、ミラノ勅令によって広まりました。これらの勅令は、AD303年に始まったディオクレティアヌス帝によるキリスト教徒への残酷な迫害を止めました。ミラノ勅令からわずか11年後、最初のキリスト教皇帝であるコンスタンティヌス帝がローマ帝国の単独の支配者となりました。
Gonzalez, The Story of Christianity, 106-107;
Durant, Caesar and Christ, 655.
- アドルフ・フォン・ハルナックは、コンスタンティヌス帝の治世の始まりには、帝国内に300万から400万人のキリスト教徒がいたと推定しています。
Adolf von Harnack, Mission and Expansion of Christianity, 325.
他に帝国の人口のわずか4〜5%だったと見積もっている人々もいます。
Taylor, Christians and Holy Places, 298. - Johnson, A History of Christianity, 126;
Hinson, “Worshiping Like Pagans?” 19. - Jungmann, Early Liturgy, 123.
- Will Durant, The Age of Faith (New York: Simon and Schuster, 1950), 8.
- Bradshaw, Search for the Origins of Christian Worship, 65.
- Grant, Early Christianity and Society, 163.
- Durant, Caesar and Christ, 656.
- Michael Walsh, “Inside Pagan Worship” Christian History 12, no. 1 (1993): 20.
- Turner, From Temple to Meeting House, 167, 180.
コンスタンティヌス帝は、聖書の歴史的な場所にキリスト教の聖堂を建てました。
Fox, Pagans and Christians, 674.
- これと対照的な例として、マルコ14:58、使徒7:48、第二コリント5:1、ヘブル9:11、9:24。
- Norrington, To Preach or Not, 29.
J. G. デイヴィスは次のように書いています。「キリスト教徒が大きなバシリカを建て始めたとき、彼らは聖書に導きを求め、すぐにエルサレムの神殿について語られていたことを、彼らの新しい建物に適用し始めました。それによって、彼らは新約聖書の見解に反する行動をしているという事実を無視しているようでした。」デイヴィスはさらに、聖人崇拝(死んだ聖人を崇敬すること)と教会建築の着実な浸透によって、聖なる場所としての教会観を決定し、「キリスト教徒は、ユダヤ人がエルサレム神殿に対して、異教徒が自分たちの聖域に対して持っているのと同じ態度を取るべきである」と述べています。
J. D. Davies, Secular Use of Church Buildings, 16-17.
オスカー・ハードマンは次のように書いています。「ローマの行政制度とその大きな家屋や公会堂の建築は、教会の階級的序列とその後の管轄範囲の定義、および礼拝の場所の建設に対して示唆的な指導を与えたのである。」
Oscar Hardman, History of Christian Worship, 13-14. - Boggs, Christian Saga, 209.
- マルコ14:58、使徒7:48、17:24、ガラテヤ4.9、コロサイ2:14-19、ヘブル3-11章、第一ペテロ2:4-9。
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 51, 57.
- Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture.
- Norman, House of God, 51-71.
聖ソフィア大聖堂(聖なる知恵の教会)は、AD360年に開かれ、AD415年に再建されたもので、東方教会によって教会建築の完全な具現化として称賛されています。 - Short, History of Religious Architecture, ch. 10.
- Norman, House of God, 104-135.
- Short, History of Religious Architecture, ch. 11-14,
Otto von Simson, The Gothic Cathedral: Origins of Gothic Architecture and the Medieval Concept of Order (Princeton: Princeton University Press, 1988).
- Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture, 43.
- Durant, Age of Faith, 856.
- von Simson, Gothic Cathedral, 122.
フランク・センは次のように書いています。「柱の間により大きな空間ができ、より大きな窓が入れられることによって、古いロマネスク建築にはなかった軽やかさと明るさを新しい建物に与えることができた。窓にはめ込まれたステンドグラスを通して、それまでは壁に描かれていた聖書の物語や神学的な象徴を、伝えることができるようになった。」
Frank Senn, Christian Liturgy, 214.
- Durant, Age of Faith, 856.
- Norman, House of God, 153-154;
Paul Clowney and Teresa Clowney, Exploring Churches (Grand Rapids: Eerdmans, 1982), 66-67. - von Simson, Gothic Cathedral, 22-42, 50-55, 58, 188-191, 234-235.
フォン・シムソンは、プラトンの形而上学がゴシック建築にどのように影響を与えたかを記しています。光と輝きは、ゴシックのステンドグラスの窓で完全になり、数字の完璧な比率は、建物のすべての要素を調和させます。光と調和は天国のイメージであり、創造の秩序原理です。プラトンは、光は自然現象の中で最も顕著なものであり、純粋な形に最も近いものであると教えました。新プラトン主義者は、光を我々の知性を照らして真理を把握する超越的な現実と考えました。ゴシックのデザインは、本質的にプラトン、アウグスティヌス、偽ディオニシウス・アレオパゴス(著名な新プラトン主義者)のビジョンの融合でした。 - White, Protestant Worship and Church Architecture, 6.
- Neil Carter, “The Story of the Steeple” (未出版の原稿、2001年)。文献が記載された全文は、http:// www.christinyall.com/steeple.html に掲載されていました(※現在リンク切れのため閲覧できません)。
- Turner, From Temple to Meeting House, 190.
- 17世紀と18世紀のバロック建築はゴシック建築の道をたどり、調和のとれた豊かさと装飾で感覚を刺激しました。
Clowney and Clowney, Exploring Churches, 75-77.
J. G. デイヴィスは、中世の西洋では、大聖堂は宇宙のモデルと見なされていたと述べています。
J. G. Davies, Secular Use of Church Buildings, 220
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 131.
- ゴシック建築の歴史的な特徴に関する詳細な議論については、以下を参照。
Durant, Age of Faith, ch. 32.
時代遅れになったゴシック建築は、19世紀半ばのゴシック復興によってプロテスタントの教会で再び見られるようになりました。しかし、第二次世界大戦後にはゴシック建築は終わりを迎えました。
White, Protestant Worship and Church Architecture, 130-142;
Norman, House of God, 252-278
- Senn, Christian Liturgy, 604.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 64.
最初のプロテスタントの教会建築は、1544年にルター派の礼拝のために建てられたトルガウ/Torgau(※ドイツ東部ザクセン州の都市)の城でした。そこには聖歌隊席はなく、祭壇は単純なテーブルになっていました。
Turner, From Temple to Meeting House, 206 - White, Protestant Worship and Church Architecture, 78.
- Jones, Historical Approach to Evangelical Worship, 142-143, 225.
興味深いことに、19世紀と20世紀は、すべてのプロテスタントの教派において中世の建築の大きな復興を見ました。
White, Protestant Worship and Church Architecture, 64 - White, Protestant Worship and Church Architecture, 79.
- キリスト教の偉大な教師の中で、マルティン・ルターは、新約聖書のエクレシアと制度化された教会との違いを最も明確に認識し、それらを同一視することに対して最も鋭く反対しました。それゆえ、彼は「教会」という言葉を受け入れることを拒否し、それを曖昧で不明瞭な用語だと呼びました。
彼は聖書の翻訳で、エクレシアを「集会」と訳しました。新約聖書のエクレシアは、「それ」でも「物」でも「制度」でもなく、むしろ人々の一体性・人々そのもの・交わりであることに気づいたのです。
ルターの「教会」という言葉への嫌悪感は強かったのですが、歴史の流れはもっと強いものでした。宗教改革とその後の時代の言語的な使用法は、「教会」という強力に発展した概念と折り合う必要があり、その結果、この「曖昧で不明瞭な言葉」の使用に依存するすべての混乱が宗教改革の神学に浸透しました。1500年という歴史的過程によって不可逆的に形成された「教会」という概念を、1500年前に戻すことは不可能だったのです。
Emil Brunner, The Misunderstanding of the Church (London: Lutterworth Press, 1952), 15-16.
- Martin Luther, Luther’s Works (Philadelphia: Fortress Press, 1965), 53-54.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 82.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 72-73.
祭壇台は「祭壇」という高い位置から移動され、聖歌隊席(聖職者の台)の階段を下りて、目立たない位置に置かれました。説教壇は、人々が座る身廊に近づけられ、説教を礼拝の固定された部分で行いました。 - 創世記11:3-9参照。
Carter, “The Story of the Steeple.”(※注137参照。)
- Zahi Havass, The Pyramids of Ancient Egypt (Pittsburgh: Carnegie Museum of Natural History, 1990), 1;
Short, History of Religious Architecture, 13, 167. - Norman, House of God, 160.
- Charles Wickes, Illustrations of Spires and Towers of the Medieval Churches of England (New York: Hessling & Spielmeyer, 1900), 18.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 13.
- Durant, Age of Faith, 865.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 13.
- Gerald Cobb, London City Churches (London: Batsford, 1977), 15~.
- Viktor Furst, The Architecture of Sir Christopher Wren (London: Lund Humphries, 1956), 16.
ロンドンの教会は他の建物に挟まれていたため、尖塔以外の部分を強調する余地はほとんどありませんでした。その結果としてレンは、片端に不釣り合いなほど高く装飾的な尖塔を持つ、比較的平凡な側面の教会を建設する傾向を確立しました。
Paul Jeffery, The City Churches of Sir Christopher Wren (London: The Hambledon Press, 1996), 88.
- Peter Williams, Houses of God (Chicago: University of Illinois Press, 1997), 7-9;
Colin Cunningham, Stones of Witness (Gloucestershire, UK: Sutton Publishing, 1999), 60. - Arthur Pierce Middleton, New Wine in Old Wineskins (Wilton, Connecticut: Morehouse-Barlow Publishing, 1988), 76.
- アンボは、ラテン文化における「説教壇」です。「丘の頂上」を意味するアンボンから派生した言葉です。ほとんどのアンボは高くなっており、階段で上がることができました。
Ferguson, Encyclopedia of Early Christianity, 29;
Peter F. Anson, Churches: Their Plan and Furnishing, 154;
Middleton, New Wine in Old Wineskins, 76
- Gough, The Early Christians, 172;
Ferguson, Encyclopedia of Early Christianity, 29.
アンボの前身は、シナゴーグのミグダルです。ミグダルはヘブライ語で「見張り塔」を意味します。 - Ferguson, Encyclopedia of Early Christianity, 29.
- 「説教壇」をラテン語で表した言葉です。
White, Building God’s House, 124.
- Christian Smith, Going to the Root (Scottdale, PA: Herald Press, 1992), 83.
- White, Building God’s House, 124.
- White, Building God’s House, 124.
- Middleton, New Wine in Old Wineskins, 76.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 26.
- Frank C. Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting (Philadelphia: Fortress Press, 1983), 45.
- Owen Chadwick, The Reformation (London: Penguin Books, 1964), 422.
16世紀には、説教壇と読書台(または講壇)が一体化して「二段式」と呼ばれる構造になりました。読書台は説教壇の下段の部分でした。
Middleton, New Wine in Old Wineskins, 77 - Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 45.
- Scott Gabrielson, “All Eyes to the Front: A Look at Pulpits Past and Present,” Your Church, January/February 2002, 44.
- James F. White, The Worldliness of Worship (New York: Oxford University Press, 1967), 43.
- Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 1271;
Smith, Going to the Root, 81. - Davies, Secular Use of Church Buildings, 138.
時々、年老いた人や病人のために木製や石製のベンチが用意されていました。 - Middleton, New Wine in Old Wineskins, 73.
- Middleton, New Wine in Old Wineskins, 74.
中世の終わりまで、これらの座席は聖人や空想的な動物の絵で飾り立てられていました。
Norrington, To Preach or Not, 31;
J. G. Davies, The Westminster Dictionary of Worship (Philadelphia: Westminster Press, 1972), 312.
- Doug Adams, Meeting House to Camp Meeting (Austin: The Sharing Company, 1981), 14.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 28.
- Senn, Christian Liturgy, 215;
Clowney and Clowney, Exploring Churches, 28. - Davies, Secular Use of Church Buildings, 138.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 101.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 28.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 28.
Davies, Secular Use of Church Buildings, 139.
一部の聖職者は、列席者のマナー違反を非難しました。ある説教者は、信徒が望んでいるのは 「神の言葉を聞くためのベッドだけだ 」と言って、会衆席を嘆く説教をしたことで知られています。
- Middleton, New Wine in Old Wineskins, 74.
- Adams, Meeting House to Camp Meeting, 14.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 85, 107.
Clowney and Clowney, Exploring Churches, 74. - White, Protestant Worship and Church Architecture, 118.
- Clowney and Clowney, Exploring Churches, 17.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 121~.
- Turner, From Temple to Meeting House, 237, 241.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 140.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 129, 133, 134.
教会の中には、説教壇と聖歌隊の後ろに洗礼槽を備えたものもあります。カトリックの伝統では、11世紀まで祭壇台にろうそくを置くことは一般的ではありませんでした。
Jungmann, Early Liturgy, 133
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 120, 125, 129, 141.
- J. G. デイヴィスは、「教会建築の問題は、教会とその現代世界での機能の問題と切り離すことができない」と言っています。
J. G. Davies, Secular Use of Church Buildings, 208.
- Leonard Sweet, “Church Architecture for the 21st Century,” Your Church, March/April 1999, 10.
この記事でスウィートは、受動性を促進する古い型の建築から脱却する、ポストモダンな教会堂を構想しようとしています。皮肉なことにスウィートは、教会堂を聖なる空間と見なす古いパラダイムを持っており、こう書いています。「もちろん、教会を建てるときには、ただ建物を建てるだけではありません。あなたは聖なる空間を構築しているのです。」このような考え方はかなり深く根付いています。 - Senn, Christian Liturgy, 212, 604.
劇場型の教会堂は、信徒を受動的な聴衆に変えてしまいますが、ゴシック型は、彼らを長く狭い身廊や隅々に散らばらせてしまいます。 - ゴットホルト・レッシングの言葉です。
Gotthold Lessing, Lessing’s Theological Writings. - White, Protestant Worship and Church Architecture, 5.
- White, Worldliness of Worship, 79-83.
- プラトンは、若者たちにある種の音楽に触れさせることを恐れていました。なぜなら、それは間違った感情を刺激するかもしれないからです。
Plato, The Republic (邦題:国家), 3:398
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 19.
- これらの洞察は、フランクの友人ハル・ミラーの助けによって得られました。
- ロバート・ソマーは、「社会的排斥空間」という言葉を使って、人々が互いに個人的な接触を避ける傾向がある場所を示しています。現代の教会堂は、ソマーの説明にかなりよく合っています。
Robert Sommer, “Sociofugal Space,” American Journal of Sociology 72 (1967): 655. - Davies, Secular Use of Church Buildings, 206.
- Smith, Going to the Root, 95.
ジョージ・バーナの研究によると、クリスチャンは年間500億から600億ドルを教会に寄付しているといいます。 - ハワード・スナイダーは、「教会堂が必要だ」という最も一般的な議論をことごとく論破しています。
Howard Snyder, Radical Renewal: The Problem of Wineskins Today (Houston: Touch Publications, 1996), 62-74. - 初期のクリスチャンがなぜ家で集まったのか、そして大人数の会衆がどのようにしてハウスチャーチで集まれるのかについては、次の本を参考にしてください。
Frank Viola, Reimagining Church. - エルサレムの神殿は、イエス・キリストの教会の型であり影であり、それに伴う犠牲のシステムでした。そのため、神殿を教会が建物を所有することの正当性の根拠とすることはできません。それは、かつて小羊をほふっていたという慣習が、現在もいけにえを捧げるべきであるということの根拠にならないのと同じです。エルサレムの教会では、神殿の中庭やソロモンの回廊の屋根の下で集会が行われました(使徒2:46、5:12)。パウロはエペソ滞在中、使徒活動の拠点として一時的にツラノの講堂を借りました(使徒19:1-10)。ですから、建物は本質的に悪いものだということではありません。神の栄光のために用いることもできます。しかし、この章で描かれている「教会の建物」は、ここで述べられている理由から、聖書の原則に反していると言うことができます。
- ある英国のカトリックの作家は、こう言っています。「教会の使命を救うための一つの簡単な方法は、おそらく教会建築を放棄するという決断でしょう。なぜなら、それは基本的に不自然な場所であり、日常生活では普通である物事に全く対応していないからです。」
Turner, From Temple to Meeting House, 323 - Richard Bushman, The Refinement of America (New York: Knopf, 1992), 338.
1820年から1840年の間、アメリカの教会には、ギリシアの古典主義を思わせるドーリア式の柱や古代ローマを思わせるアーチを備えたものが現れました。
Williams, Houses of God, 12. - Robert Banks, Paul’s Idea of Community (Peabody, MA: Hendrickson, 1994), 35.
- Rodney Stark, For the Glory of God: How Monotheism Led to Reformations, Science, Witch-Hunts, and the End of Slavery (Princeton, NJ: Princeton University Press, 2003), 33-34.
第3章:礼拝の形式~型にはまった日曜の朝
- この法則には3つの例外があります。プリマス・ブレザレン(オープンもエクスクルーシブもともに)は、礼拝の最初に信者間で分かち合いがされるところもありますが、それでも毎週の礼拝の形式は同じです。保守的なクエーカー教徒は、オープンな集会が持たれ、誰かが「啓示」を受けるまで信者が沈黙を守り、その後に分かち合いをします。3つ目の例外は「ハイ・チャーチ」のプロテスタント教会で、礼拝の定められた順序とともに、豪華なカトリックのミサの「香炉と教会堂の鐘」が保持されています。
- 「典礼」を意味する「liturgy」という英語は、ギリシア語の「leitourgia」から派生しており、これは古代アテネの市民が果たすべき公共の仕事の遂行、つまり市民の義務の遂行を指していました。クリスチャンはこれを神への公的な奉仕を指す言葉として取り入れました。したがって「liturgy」は、単に礼拝や礼拝の定められた形式を指しています。
White, Protestant Worship and Church Architecture, 22;
Ferguson, The Early Christians Speak, 83.
J. D. Davies, The New Westminster Dictionary of Liturgy and Worship (Philadelphia: Westminster Press, 1986), 314.
- 説教の起源に関する詳細な議論については第4章。
- 世界には推定で3億4585万5000人のプロテスタントの人々がいるとされています。そのうち、北米には7016万4000人、ヨーロッパには7749万7000人がいます。
The World Almanac and Book of Facts 2003 (New York: World Almanac Education Group, 2003), 638.
- ある学者は、「伝統」を「世代から世代へと継続性を示す、受け継がれた礼拝の慣行と信念」と定義しています。
White, Protestant Worship and Church Architecture, 21
- 中世のミサは、ローマ、ガリア、フランクの各地の文化的要素が混ざり合ったものです。詳細は以下を参照。
Edmund Bishop’s essay “The Genius of the Roman Rite” , Studies in Ceremonial: Essays Illustrative of English Ceremonial, ed. Vernon Staley (Oxford: A. R. Mowbray, 1901) .
Louis Duchesne, Christian Worship: Its Origin and Evolution (New York: Society for Promoting Christian Knowledge, 1912), 86-227.
例えば、香を焚くこと、キャンドルを灯すことなどのようなミサの儀式的な側面や、会堂内の物の配置などは、すべてローマ皇帝が儀式を執り行った宮廷から採用したものです。
Jungmann, Early Liturgy, 132-133, 291-292;
Smith, From Christ to Constantine, 173. - 新約聖書的な集会は、今日、ますます広範囲に拡大しています。このような集会は、主流のキリスト教によってしばしば急進的で革命的と見られますが、それは聖書の実践に戻ろうとしているだけで、新約聖書の時代ほど急進的で革命的なわけではありません。初期の教会の集会に関する学術的な議論については以下の書籍を参照。
Banks, Paul’s Idea of Community, ch. 911;
Banks and Banks, Church Comes Home, ch. 2;
Eduard Schweizer, Church Order in the New Testament (Chatham, UK: W. & J. Mackay, 1961), 1-136.
- Banks, Paul’s Idea of Community, 106-108, 112-117;
Bradshaw, The Search for the Origins of Christian Worship, 13-15, 27-29, 159-160, 186.
ブラッドショウは、1世紀のキリスト教がその礼拝の慣行をユダヤ教から受け継いだという考えに反論し、この考えが17世紀頃に始まったと主張しています。
ノリントンは、「初期のクリスチャンたちがシナゴーグのスタイルを継続しようとしたと示す証拠はほとんどありません」と述べています。
David Norrington, To Preach or Not, 48.
さらに、ユダヤ教のシナゴーグは人間が作り出したものでした。一部の学者は、それがバビロン捕囚(紀元前6世紀)の時代に、エルサレムの神殿での礼拝が不可能だったときに作られたと信じています。他の人々は、パリサイ派の台頭とともに紀元前3世紀または2世紀に現れたと信じています。エルサレムの神殿がAD70年に破壊された後、シナゴーグはユダヤ人の生活の中心となりましたが、そのような制度や組織は旧約聖書(または神ご自身)に由来するものではありません。
Joel B. Green, ed., Dictionary of Jesus and the Gospels (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1992), 781-782;
Alfred Edersheim, The Life and Times of Jesus the Messiah (Mclean, VA: MacDonald Publishing Company, 1883), 431.
さらに、シナゴーグを建設するという考え方も異教的なものでした。
Norrington, To Preach or Not, 28. - 「ミサ」という言葉の語源は「会衆を去らせる(dismissal of congregation)」で、派遣すること(mission, dismissio)を意味しましたが、4世紀の終わりには、聖餐を祝う礼拝を指す言葉になりました。
Schaff, History of the Christian Church 3:505.
- ミサの起源の話は、この本のテーマの範囲を超えるものです。ここで言えることは、ミサは基本的に、シナゴーグの礼拝に対する異邦人の関心が再び高まったことと、4世紀に遡る異教の影響の融合だったということです。
Senn, Christian Liturgy, 54;
Jungmann, Early Liturgy, 123, 130-144. - Durant, Caesar and Christ, 599.
- グレゴリウスの大改革によって、中世から宗教改革に至るまで、カトリックのミサが形作られました。
Schaff, History of the Christian Church, 4:387-388. - Durant, Age of Faith, 521-524.
- フィリップ・シャフは、グレゴリウスの典礼を頂点とするさまざまなカトリックの典礼を概説しています。グレゴリウスの典礼は何世紀にもわたってラテン教会を支配し、トレント公会議によって認可されました。
Schaff, History of the Christian Church, 3:531-535
グレゴリウスはまた、「煉獄」というカトリックの教義を発展させ、普及させた人物でもありますが、彼はそれをアウグスティヌスのいくつかの憶測から引き出しました。
Gonzalez, The Story of Christianity, 247
事実上、グレゴリウスはアウグスティヌスの教えを西洋教会の基礎的な神学にしました。「アウグスティヌスは、帝国キリスト教の闇の天才であり、信教一体主義者であり、中世の精神を形成した人物であった。基本的な神学を提供したパウロの次に、彼は他のどの人物よりもキリスト教を形成するのに多大な影響を与えた」と、ジョンソンは述べています。
Paul Johnson, A History of Christianity, 112
デュラントは、アウグスティヌスの神学が13世紀までカトリックの哲学を支配していたと述べています。また、アウグスティヌスはそれにネオプラトニズムの色合いを加えました。
Durant, Age of Faith, 74. - Durant, Caesar and Christ, 599-600, 618-619, 671-672;
Durant, Age of Faith, 1027. - Durant, Caesar and Christ, 595.
- Durant, Caesar and Christ, 618-619.
- 現代のミサは、1500年代以降ほとんど変化していません。
James F. White, Protestant Worship: Traditions in Transition (Louisville: Westminster/John Knox Press, 1989), 17.
今日使用されている形式は、1970年のローマ典礼書・祭儀書および聖書朗読書に記され発行されました。
Senn, Christian Liturgy, 639.
にもかかわらず、現代のミサは6世紀のものと酷似しているのです。
Jungmann, Early Liturgy, 298. - このムーブメントは、ルターの急進的な論考『The Babylonian Captivity of the Church(教会のバビロニア捕囚)』で明確にされました。この本は、カトリックのミサの背後にある中核的な神学に挑戦するローマ・カトリックの体制に投下された爆弾のようなものでした。ルターは『The Babylonian Captivity of the Church』の中で、ミサの3つの特徴、すなわち、(1)信徒に杯を与えないこと、(2)聖変化(パンとぶどう酒がキリストの実際の体と血に変わるという信仰)、(3)ミサはキリストのいけにえとして神にささげられた人間のわざであるという概念を攻撃しました。ルターは聖変化を否定しましたが、それでもキリストのからだと血の「真の臨在」はパンとぶどう酒の要素の中にあり、共にあり、そしてその下にあると信じていました。この信仰は 「聖体拝領 」と呼ばれています。『The Babylonian Captivity of the Church』の中で、ルターは7つの秘跡も否定し、洗礼・懺悔・パンの3つだけを認めました。
Senn, Christian Liturgy, 268.
後にルターは告解を秘跡から除外しました。 - 「Eucharist」という言葉は、ギリシア語の「eucharistro」から派生しており、本来は「感謝する」という意味でした。それは、第一コリント11:23-24に記されています。そこでは、イエスがパンを取り、感謝し、それを割いたと語られています。使徒時代後のクリスチャンは、聖餐を「ユーカリスト」と呼びました。
- ルターは彼の礼拝の改革を『Form of the Mass(フォーミュラ・ミサ:ミサと聖餐の原則)』という論文に記述しました。
Gonzalez, The Story of Christianity, 247.
過去70年間、ほとんどのカトリック神学者は、中世のカトリック教会がそうであったように、ミサは新しいいけにえではなく一つのいけにえの「表象」であると述べてきたことに留意してください。
- 司教冠(ミトラ)と錫杖は、司教が身につける象徴的なものであり、それらは彼らの権威を表し、一般信徒と彼らを区別しました。
- 「ユーカリスト(聖体拝領・聖餐)」は、3世紀から5世紀にかけてしばしば「ささげもの(oblation)」または「犠牲(sacrifice)」と呼ばれていました。
James Hastings Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition (Philadelphia: Westminster Press, 1968), 25.
Senn, Christian Liturgy, 270-275.
ローレン・ベットナーは、以下の著書の第8章で、中世のカトリックのミサを批判しています。
Loraine Boettner, Roman Catholicism (Phillipsburg, NJ: The Presbyterian and Reformed Publishing Company, 1962). - ラテン語名は「Formula Missae」です。
- White, Protestant Worship, 36-37.
- White, Protestant Worship, 41-42.
ルターは「ユーカリスト(聖体拝領・聖餐)」を非常に高く評価しており、ミサからすべての犠牲の言葉を取り除き、「ユーカリスト」だけを保持しました。彼は言葉と秘跡の両方を強く信じていました。そのため、彼のドイツ語のミサは聖餐と説教の両方を前提としたものでした。 - プロテスタントの伝統におけるいくつかの「儀式的な」教会は、まだ祭壇のテーブルを説教壇の近くに置いています。
- 中世以前には、説教と「ユーカリスト(聖体拝領・聖餐)」の両方がキリスト教の礼拝で重要な位置を占めていました。しかし、説教は中世期に深刻な衰退を見せました。多くの司祭が無学であったため説教ができず、聖書の説教から他の要素まで失われてしまったのです。
Maxwell, An Outline of Christian Worship, 72.
グレゴリウス1世は、ミサでの説教の地位を回復しようとしましたが、彼の努力は失敗に終わりました。説教が礼拝の中心的な位置に戻されたのは、宗教改革が起こった後でした。
Schaff, History of the Christian Church, 4:227, 399402 - 次の著書からの引用です。
“Concerning the Order of Public Worship,” Luther’s Works, LIII, 11 .
“The German Mass,” Luther’s Works, LIII, 68.
ルターは日曜の朝に3つの礼拝を設け、それらすべてに説教が伴いました。
Schaff, History of the Christian Church, 7:488.
ローランド・べイントンは、ルターが生涯で説教した数は2,300はあったと記録しています。
Roland Bainton, Here I Stand: A Life of Martin Luther (Nashville: Abingdon Press, 1950), 348-349. - 使徒2:42(NLTからの翻訳)は、「信徒たち一同はひたすら、使徒たちの教えを守り、交わりをなし、共にパンをさき、祈りをしていた」と私たちに教えています。この節では、ルカは使徒の集会を描写しています。これらの集会は4年間にわたって行われ、エルサレムの教会の基礎を築くために設けられました。教会が非常に大きかったため、集会は神殿の庭で開催されました。しかし信徒たちはまた、開放的な参加型の礼拝を持つために定期的に家で集まりました(使徒2:46)。
- Schaff, History of the Christian Church, 7:490.
- White, Protestant Worship, 20.
- ルターは、依然として歴史的な西欧の礼拝形式に従っていました。主な違いは、献金について語られるサンクトゥス賛美の後に行われていた献金の祈りとカノンの祈りを排除したことでした。つまり、ルターはミサから「犠牲」を連想させるすべてのものを取り除いたということです。彼は他の改革者たちとともに、ミサの中で行われていた中世後期の退廃した要素の多くを取り除きました。彼らは、普段使われる言葉で礼拝を行い、会衆の歌(ルター派のための詠唱とコラール[会衆賛美]、改革派のためのメトリカル詩篇)、説教の中心性、そして会衆が聖餐に参加することを許すことによって、それを実現したのです。
Senn, Christian Worship, 84, 102. - Schaff, History of the Christian Church, 7:486-487.
ドイツの改革者カールシュタット(1480-1541年)は、ルターよりも急進的でした。ルター不在の間、カールシュタットはミサを全廃し、祭壇を絵画とともに破壊しました。 - センはその著書の中で、初期のカトリック典礼を紹介しています。
Frank Senn, Christian Liturgy, 139.
ルターはミサという言葉さえ残し、それが礼拝そのものを意味するようになりました (p. 486)。 - ルターは王の宮廷における儀式を指摘し、これを神への礼拝に適用すべきだと考えました。
Senn, Christian Worship, 15.
4世紀、コンスタンティヌスの治世において、皇帝の儀式がキリスト教の典礼にどのように取り入れられたかについては、本書の第2章を参照。
- Senn, Christian Worship, 18-19.
- カトリックの司祭が聖体(パンと杯)を掲げるのは、犠牲の儀式を始めるためです。
- White, Protestant Worship, 41-42;
Maxwell, An Outline of Christian Worship, 75. - ルターは、中世のミサの基本的な秩序を、ろうそく・香・法衣といった儀式的な側面とともに保持しました。
Maxwell, An Outline of Christian Worship, 77. - Luther, Luther’s Works, LIII, 20.
- 皮肉なことに、ルターは、彼のドイツ語ミサは律法主義的に採用されるべきではなく、時代遅れになれば廃棄されるべきだと主張していました。
Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 17.
しかし、これは実現されませんでした。 - 音楽を愛したルターは、音楽を礼拝の重要な一部としました。
White, Protestant Worship, 41;
Hinson, “Worshiping Like Pagans?” Christian History 12, no. 1 (1993): 16-19.
ルターは音楽の天才でした。イエズス会が、ルターの歌は 「彼の著作や演説よりも多くの魂を破壊した」と言ったほど、彼の音楽における才能は強力でした。教会史上最も偉大な音楽家の一人が、偶然にもルーテル派であったことは驚くべきことではないでしょう。彼の名はヨハン・セバスティアン・バッハ。ルターのプロテスタント典礼への音楽的貢献については、以下を参照。
Senn, Christian Liturgy, 284-287;
White, Protestant Worship, 41, 47-48;
Will Durant, The Reformation (New York: Simon and Schuster, 1957), 778-779. - White, Protestant Worship, 41.
- “Concerning the Ministry,” Luther’s Works, XL, 11.
- カトリックの司祭は7つの秘跡を保持し、プロテスタントの牧師は2つの秘跡(洗礼と聖餐)を保持するのみでした。ルターにとって、聖職衣の使用、祭壇のろうそく、祈るときの牧師の態度などは関心のない問題でした。
Schaff, History of the Christian Church, 7:489.
しかし、彼はそれらに無関心であったにもかかわらず、それらを保持するよう助言しました。
Senn, Christian Liturgy, 282.
これらの慣習が今日も存在するのはそのためです。 - ルターが策定したこの典礼は、1526年に彼の自著『German Mass and Order of Service(ドイツミサと礼拝の順序)』に掲載されました。
- Senn, Christian Liturgy, 282-283.
- 説教の前にも後にも歌と祈りがあったことに注目してください。ルターは、説教を歌で挟むことで説教が強化され、それに対する献身的な応答が得られると考えました。
Senn, Christian Liturgy, 306
ルターのドイツ語ミサで歌われた歌のほとんどは、ラテン語の典礼聖歌や使徒信条を詩化したものでした(「詩化(versification)」とは、散文を詩にすること)。ルターの功績は、彼自身が約36の賛美歌を書いたことでした(Euther’s Works, LIII)。そして彼は、現代の歌の歌詞を変えてキリスト教化する天才でした。「なぜ悪魔にばかり良い曲を持たせるのか?」というのが彼の感覚だったのです。
Marva J. Dawn, Reaching Out without Dumbing Down: A Theology of Worship for the Turn–of–the–Century Culture (Grand Rapids: Eerdmans, 1995), 189.
(なお、この引用には他の人物もクレジットされており、救世軍のウィリアム・ブースもその一人でした。) - Senn, Christian Liturgy, 300.
- Hardman, A History of Christian Worship, 161.
この点について、フランク・センは次のように書いています。「改革派の教会では、説教壇が祭壇を完全に支配していたので、やがて祭壇は姿を消し、年に数回だけ聖餐式に使われるテーブルに取って代わられた。神の言葉の説教が、礼拝を支配した。これは、いわゆる聖書の再発見の結果であると考えられている。しかし聖書の再発見は、印刷機の発明がもたらした文化的な現象であった。」
Frank Senn, Christian Worship, 45. - Senn, Christian Liturgy, 362;
White, Protestant Worship, 62 - Jungmann, Early Liturgy, 132-133, 291-292;
Smith, From Christ to Constantine, 173. - Senn, Christian Liturgy, 363.
- White, Protestant Worship, 60.
- ツヴィングリの見解はこれよりも複雑でした。しかし、彼の聖体観はカルヴァンやルターほど「高尚」なものではありませんでした。
Maxwell, An Outline of Christian Worship, 81.
ツヴィングリは、現代のプロテスタントにおける聖餐観の父なのです。もちろん、彼の見解は、毎週みことばと聖餐の両方を祝う「典礼的」プロテスタント教会を代表するものではありません。 - ツヴィングリの礼拝形式は以下の本に掲載されています。
Senn, Christian Liturgy, 362-364.
- White, Protestant Worship, 61.
- これらの典礼は、ドイツのストラスブール(1537年)、スイスのジュネーヴ(1542年)、スコットランド(1562年)で用いられました。
- 徴収は貧しい人々のための施し。
Senn, Christian Liturgy, 365-366.
カルヴァンは「みことばが宣べ伝えられ、祈りがささげられ、聖餐が行われ、施しがなされなければ、教会の集会は開かれるべきではない」と記しています。
Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 29.
カルヴァンは聖餐を毎週行うことを望みましたが、彼の改革派諸教会はツヴィングリの慣行に従い、四半期ごとに行いました。
White, Protestant Worship, 65, 67
- Stanley M. Burgess and Gary B. McGee, eds., Dictionary of Pentecostal and Charismatic Movement (Grand Rapids: Zondervan, 1988), 904.
改革派の用法における「みことば」とは、受肉したみことばを伝える、聖書と説教の言葉のことです。説教と聖書朗読の両方が結びつき、「みことば」と見なされたのです。
Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 30.
聖書の説教がまさに「神の言葉」であるという考え方は、1566年の『Confessio Helvetica Posterior』に現れています。 - ルネサンス期の荒々しい個人主義は、改革者たちのメッセージに影響を与えました。彼らは時代の産物でした。彼らが宣べ伝えた福音は、個人のニーズと個人の成長が中心でした。それは1世紀のクリスチャンのメッセージのような共同体主義的なものではありませんでした。この個人主義的強調は、ピューリタン・敬虔主義者・リバイバル主義者に引き継がれ、アメリカ人の生活と思想のあらゆる分野に浸透していきました。
Senn, Christian Worship, 100, 104;
Terry, Evangelism, 125. - White, Protestant Worship, 65.
- White, Protestant Worship, 66.
自身も音楽家であったツヴィングリは、音楽と聖歌隊は教会礼拝の一部であってはならないというカルヴァンの信念を共有していました(P.62)。 - White, Protestant Worship, 76.
カルヴァンにとって、すべての歌には旧約聖書の言葉が含まれていなければならず、賛美歌は除外されていました(P.66)。 - White, Protestant Worship, 126.
- White, Protestant Worship, 67.
これはカルヴァンと同時代のマルティン・ブッカーも行っていたことでした。
White, Protestant Worship and Church Architecture, 83. - 新約聖書は私たちにさまざまな種類の集会を提示していることに注意してください。ある集会では、使徒や伝道者のような中心的な話し手が聴衆に説教しています。しかし、この種の集会は散発的で一時的なものでした。それらは、1世紀の信徒たちの普通の、規範的な集会ではありませんでした。一方「教会の集会」とは、キリストの体として相互に機能し、すべてのメンバーがオープンに参加でき、イエス・キリストの主権の下で自由と自発性を発揮することを特徴とする、クリスチャンの定期的な集まりのことです。
- Horton Davies, Christian Worship: Its History and Meaning (New York: Abingdon Press, 1957), 56.
- White, Protestant Worship, 74.
- Alice Morse Earle, “Sketches of Life in Puritan New England,” Searching Together 11, no. 4 (1982): 38-39.
- 中世の人々は、「生真面目で地味」であることを「聖潔」であることと同一視し、「陰気で不機嫌な様」を「信仰深さ」と同一視していました。これとは対照的に、初期のクリスチャンは、喜びと歓喜の態度が特徴的でした。使徒2:46、8:8、13:52、15:3、第一ペテロ1:8。
- 対照的に詩篇は、神の民が喜びと賛美と感謝をもって神の門に入るように手招きしています(詩篇100篇)。
- Senn, Christian Worship, 26-27.
このいわゆる「入場の儀式」には、詩編(Introit)・連祷(Kyrie)・賛美の歌(Gloria)が含まれていました。これは皇帝の宮廷儀式から借用したものです。
Jungmann, Early Liturgy, 292, 296.
コンスタンティヌスが自らを地上における神の代理人とみなしたように、神は天の皇帝だと考えられていました。こうして、ミサは神と神の代理人である司教の前で行われる儀式となりました。司教は、高官としての衣を身にまとい、ろうそくに先導された厳粛な行列で教会堂に入ります。その後、司教は特別な玉座、すなわちローマの役人のセラ・クルリス/sella curulis(※古代ローマのインペリウム [命令権] を有する高級政務官がすわる象牙製の椅子) に座りました。4世紀の教会は、ローマの官吏の儀式と趣向の両方を礼拝に取り入れていたのです。
Krautheimer, Early Christian and Byzantine Architecture, 184.
- ジュネーブ典礼は、「聖餐式の祝典だけでなく、通常の主日礼拝にも、変化や例外なく用いられた改革派の固定典礼」。
White, Protestant Worship, 69. - James Mackinnon, Calvin and the Reformation (New York: Russell and Russell, 1962), 83-84.
ジュネーブ典礼の詳細については以下を参照。
Senn, Christian Liturgy, 365-366.
- Hughes Oliphant Old, The Patristic Roots of Reformed Worship (Zurich: Theologischer Veriag, 1970), 141-155.
カルヴァンはまた、使徒時代後の教父たちを教会管理の模範としました。それゆえ、彼は一人の牧師が教会を牧会するスタイルを受け入れたのです。
Mackinnon, Calvin and the Reformation, 81.
- Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 14.
- 教父たちはギリシア・ローマ文化の影響を大きく受けていました。実際、彼らの多くはクリスチャンになる前は異教の哲学者や演説家でした。すでに述べたようにこれが、彼らの教会礼拝が異教文化とユダヤ教の会堂形式の融合を反映していた理由です。さらに最近の研究では、キリスト教の礼拝に関する教父たちの著作は、想定されていたよりも後に書かれたものであり、さまざまな層の伝統によって形を変えてきたことが示されています。
Bradshaw, The Search for the Origins of Christian Worship, ch. 3.
- 教父たちは異教と新プラトン主義の影響を強く受けています。
Will Durant, Caesar and Christ, 610-619, 650-651.
Durant, Age of Faith, 63, 74, 521-524. - 本研究は改革者たちの聖書に基づかない変革に焦点を当てているので、彼らのポジティブな貢献を列挙することは本書の扱う範囲を超えています。とはいえ、ルター、ツヴィングリ、カルヴァンらがキリスト教信仰に多くのポジティブな実践と信仰をもたらしたことは、著者たちもよく知っていることです。同時に、彼らは私たちを完全な改革に導くことができなかったのです。
- プロテスタント宗教改革は主に知的運動でした。
White, Protestant Worship, 37.
その神学はローマ・カトリックのそれに比べて急進的でしたが、教会生活にはほとんど触れませんでした。急進的改革者たちについては以下を参照。
E. H. Broadbent, The Pilgrim Church (Grand Rapids: Gospel Folio Press, 1999);
Leonard Verduin, The Reformers and Their Stepchildren (Grand Rapids: Eerdmans, 1964);
George H. Williams, The Radical Reformation (Philadelphia: Westminster Press, 1962);
John Kennedy, The Torch of the Testimony (Bombay: Gospel Literature Service, 1965). - Old, The Patristic Roots of Reformed Worship, 12.
- Senn, Christian Liturgy, 510.
- White, Protestant Worship, 118.
- White, Protestant Worship, 119, 125.
Senn, Christian Liturgy, 512.
ピューリタンたちはまた、牧師が説教を終えたとき、会衆が牧師の聖書本文の扱いについて質問することを許しました。
White, Protestant Worship, 129. - Cassandra Niemczyk, “Did You Know? Little-Known Facts about the American Puritans,” Christian History 13, no. 1 (1994): 2.
- あるピューリタンの指導者は、「みことばの宣教は、キリストの王国の杖であり、国家の栄光であり、生命と救いが乗ってくる戦車である」と書いています。ピューリタンは生涯に15,000時間の説教を聴いていたかもしれません。
- Niemczyk, “Did You Know?” 2;
Allen C. Guelzo, “When the Sermon Reigned,” Christian History 13, no. 1 (1994): 23. - White, Protestant Worship, 126, 130.
Adams, Meeting House to Camp Meeting, 13, 14. - White, Protestant Worship, 120, 127.
- Senn, Christian Liturgy, 514-515.
ピューリタンの基本典礼は、1644年に書かれた『A Directory of the Public Worship of God』という著作に収められています。
White, Protestant Worship, 127.
これは、1549年に最初に起草された英国国教会の『Book of Common Prayer(共通祈祷書)』を改訂したものです。『A Directory of the Public Worship of God』は、英国(スコットランドではない)の長老派と会衆派が使用しました。 - ピューリタニズムの子孫は、バプテスト・長老派・会衆派です。
White, Protestant Worship, 129.
- いわゆる「自由教会」の伝統には、ピューリタン、分離派、バプテスト、17世紀と18世紀のクエーカー教徒、18世紀後半のメソジスト、19世紀初頭のディサイプルス派が含まれます。
Adams, Meeting House to Camp Meeting, 10. - White, Protestant Worship, 133.
- White, Protestant Worship, 153、164.
- White, Protestant Worship, 183.
「説教の前の司牧の祈り」は、ウェストミンスター礼拝要綱に詳しく規定されています。 - Horton Davies, Worship and Theology in England: 1690-1850 (Princeton: Princeton University Press, 1961), 108.
カトリック教会では4世紀以来、夕べの祈りの礼拝が一般的でした。また、日曜日の夕べの礼拝は、何世紀にもわたって大聖堂や小教区の典礼生活の安定した一部でした。しかし、メソジスト派はプロテスタントの教会に日曜日の夕方の礼拝を始めたことで知られています。 - White, Protestant Worship, 91, 171;
Iain H. Murray, Revival and Revivalism: The Making and Marring of American Evangelicalism (Carlisle, PA: Banner of Truth Trust, 1994). - アメリカのリバイバリズムは18世紀末に「宣教協会(missionary society)」を誕生させました。これには、バプテスト宣教協会(1792年)・ロンドン宣教協会(1795年)・一般メソジスト宣教協会(1796年)・教会宣教協会(1799年)が含まれます。
Tan, Lost Heritage, 195. - ホワイトフィールドは「アメリカのリバイバルの父」と呼ばれています。ホワイトフィールドの中心的メッセージは、個々のクリスチャンの「新生」でした。彼はこのメッセージによって、1740年代初頭にピークに達したニューイングランドにおける第一次大覚醒を導きました。ホワイトフィールドは、45日間で175の説教を行いました。卓越した演説家であった彼の声は、1回の集会で3万人の聴衆に届くほどでした。彼の説教を聞きに来る人は5万人にも上りました。驚くべきことに、ホワイトフィールドの声は増幅なしで1マイルの距離でも聞こえたと言われています。ホワイトフィールドは、失われた巡回伝道を回復させたと評価されています。彼はまた、即興の祈りと説教を復活させたことでも、ピューリタンと功績を分かち合っています。
Yngve Brilioth, A Brief History of Preaching (Philadelphia: Fortress Press, 1965), 165.
“George Whitefield” Christian History 12, no. 2 (1993),
“The Great Awakening,” Christian History 9, no. 4 (1990): 46;
J. D. Douglas, Who’s Who in Christian History (Carol Stream, IL: Tyndale House, 1992), 716-717;
Terry, Evangelism, 100, 110, 124-125. - Davies, Worship and Theology in England, 146;
“The Great Awakening,” Christian History 9, no. 4 (1990): 46;
“George Whitefield” Christian History 8, no.3 (1989): 17. - Mark A. Noll, “Father of Modern Evangelicals?” Interview in Christian History 12, no. 2 (1993): 44;
“The Second Vatican Council,” Christian History 9, no. 4 (1990): 47.
ホワイトフィールドのもとでの大覚醒は、アメリカのプロテスタンティズムに個人主義的なリバイバルの性格を刻印しました。そして、アメリカの教会は、今もそこから回復することができていません。 - Senn, Christian Liturgy, 562-565;
White, Protestant Worship and Church Architecture, 8, 19. - フィニーはトーマス・ヘイスティングスを起用。ムーディはアイラ・D・サンキーを用いました。ビリー・グラハムはクリフ・バロウズとジョージ・ビバリー・シェーを起用し、その伝統を継承しました。
Senn, Christian Liturgy, 600.
音楽は、リバイバリズムの目標を推進する上で極めて重要な役割を果たしました。ジョージ・ホワイトフィールドとジョン・ウェスレーは、確信と福音を聞く用意を誘発するために音楽を最初に用いたとされています。
Terry, Evangelism, 110.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 11.
- 神の永遠の目的については次の本を参照。
Viola, From Eternity to Here (Colorado Springs: David C. Cook, 2009).
- White, Protestant Worship, 164-165, 184-185.
- R. Alan Streett, The Effective Invitation (Old Tappan, NJ: Fleming H. Revell Co., 1984), 190.
チャールズ・ウェスレーは6,000以上の賛美歌を書きました。チャールズは、個々のクリスチャンの感情や考えを表現する会衆の歌唱スタイルを導入した最初の賛美歌作者でした。 - バプテスト派は、失われた人々を勝ち取ることを日曜朝の礼拝の目標としたことで最も有名です。チャールズ・フィニーのもとでの「新しい方法」がアメリカの実用主義を反映しアピールしたように、キリストのために「個人的な決断」をするようにというリバイバリズムの呼びかけは、アメリカの個人主義という文化的イデオロギーを反映しアピールしました。
Terry, Evangelism, 170-171. - Murray, Revival and Revivalism, 185-190.
- Streett, The Effective Invitation, 94-95.
ジェームズ・テイラー牧師は、1785年にテネシー州で決心者を教会の前に招いた最初の一人です。公の招きに関連して「救いの招き(altar call)」が使用された最初の記録は、1799年、ケンタッキー州のメソジストのキャンプ集会でのことです。
White, Protestant Worship, 174.
- フィニーは、魂の獲得とリバイバルの開始という事業において革新的な人物でした。彼はいわゆる「新しい方法」を用いて、新約聖書には礼拝の規範となる形式は存在しないと主張しました。しかし、罪人をキリストに導くのに成功したものであれば、どのような方法でも認められたのです。
Senn, Christian Liturgy, 564;
White, Protestant Worship, 176-177.
- Streett, The Effective Invitation, 95.
フィニーは、1830年の有名なニューヨーク州ロチェスターの十字軍の後、もっぱらこの方法を使い始めました。歴史的な起源をたどることができる「悔い改めの椅子」という言葉が最初に使われたのは、チャールズ・ウェスレーによるものです。「あぁ、悔い改めの椅子に祝福あれ(Oh, that blessed anxious seat)。」
「悔い改めの椅子」に関する批評については次の本を参照。
J. W. Nevin, The Anxious Bench (Chambersburg, PA: German Reformed Church, 1843).
- White, Protestant Worship, 181;
James E. Johnson, “Charles Grandison Finney: Father of American Revivalism,” Christian History 7, no. 4 (1988): 7;
“Glossary of Terms,” Christian History 7, no. 4 (1988): 19. - “The Return of the Spirit: The Second Great Awakening,” Christian History 8, no. 3 (1989): 30;
Johnson, “Charles Grandison Finney,” 7;
Senn, Christian Liturgy, 566. - Murray, Revival and Revivalism, 226, 241-243,277.
- Streett, The Effective Invitation, 96.
- Burgess and McGee, Dictionary of Pentecostal and Charismatic Movementss, 904.
さらに詳しい研究については以下を参照。
Gordon L. Hall, The Sawdust Trail: The Story of American Evangelism (Philadelphia: Macrae Smith Company, 1964).
「おがくずだらけの道(the sawdust trail)」は、後に伝道者のテントの埃に覆われた通路と同一視されるようになりました。この用法(”hit the sawdust trail”)は、ビリー・サンデー(1862-1935年)の伝道活動によって広まりました。
Terry, Evangelism, 161. - White, Protestant Worship, 177.
- Pastor’s Notes: A Companion Publication to Glimpses 4, no. 2 (Worcester, PA Christian History Institute, 1992), 6.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 7.
- この違いをよく説明している2冊の本があります:
Watchman Nee, The Normal Christian Life (Carol Stream, IL: Tyndale House, 1977).
The Release of the Spirit (Indianapolis: Sure Foundation, 1965).
「実用主義」の非キリスト教的性質については以下を参照。
Ronald Rolheiser, The Shattered Lantern: Rediscovering God’s Presence in Everyday Life (London: Hodder & Stoughton, 1994), 31-35. - White, Protestant Worship, 176;
Pastor’s Notes 4, no. 2: 6.
イアン・マーレイは、メソジストのもとでのキャンプ集会が、フィニーの手順通りの伝道手法の先駆けであったと指摘しています。
Iain Murray, Revival and Revivalism, 184-185.
- 正しく考えれば、説教の目的は魂の救済ではありません。それは教会を生み出すことです。ある学者が言うように、「改宗は手段でしかなく、目標は目に見える教会の拡大である」。 Karl Muller, ed., Dictionary of Mission: Theology, History, Perspectives (Maryknoll, NY: Orbis Books, 1997), 431.
神学者D. J. ティドボールも同じ考えで、「パウロの第一の関心は個人の改宗ではなく、クリスチャンの共同体の形成にあった 」と言っています。
D. J. Tidball, Downers Grove, IL: InterVarsity, 1993), 885.
フロンティア・リバイバル派にはエクレシアの概念はありませんでした。 - White, Protestant Worship and Church Architecture, 121-124.
- 第一コリント12-14章、エペソ1-3章参照。
- John Wesley, “Sermon on the Mount IV,” Sermons on Several Occasions (London: Epworth Press, 1956), 237.
- John Wesley, “Sermon on the Mount IV,” Sermons on Several Occasions (London: Epworth Press, 1956), 132.
ディックの謄写版印刷機の発明の詳細については http://www.officemuseum.com/copy_machines.htm を参照。 - Ferguson, The Early Christians Speak, 84.
典礼が文字で書かれるようになったのは4世紀のことです。しかし、週報化されたのは19世紀になってからでした。 - “Unconventional Dwight L. Moody” Christian History 9, no. 1 (1990);
Douglas, Who’s Who in Christian History, 483-485;
Terry, Evangelism, 151-152;
H. Richard Niebuhr and Daniel D. Williams, The Ministry in Historical Perspectives (San Francisco: Harper & Row Publishers, 1956), 256.
確かに神は魂がキリストによって贖われることを望んでおられますが、それは神が最終的に目指しておられることの第一歩に過ぎません。私たちは伝道に反対しているわけではありませんが、伝道に全力を注ぐと、伝道は義務になり、クリスチャンがキリストに心を奪われたときに自然に起こるものではなくなります。初代教会の信徒たちは完全にキリストに焦点を合わせていたので、私たちの伝道方法と展望は彼らとは大きく異なっているのです。神の永遠の目的についての徹底的な考察は、フランク・ヴィオラ『From Eternity to Here』を参照してください。 - Streett, The Effective Invitation, 193-194, 197.
- Terry, Evangelism, 153-154, 185.
- David P. Appleby, History of Church Music (Chicago: Moody Press, 1965), 142.
- Streett, The Effective Invitation, 97.
「前に進み出ることを望む人々は、クリスチャン生活を送ることを誓い、教会を優先することを表明するカードに署名した。このカードは、決心者をフォローアップできるように奉仕者によって保管された。カードの他の部分は、クリスチャン生活のガイドとして、新しいクリスチャンに渡された。」(p.97-98) - Streett, The Effective Invitation, 98.
「信仰告白の祈り(罪人の祈り)」については、第9章参照。 - Streett, The Effective Invitation, 112-113.
グラハムは宣教活動の45年間に、85カ国で1億人に説教しました。
Pastor’s Notes 4, no. 2: 7. - Iain H. Murray, The Invitation System (Edinburgh: Banner of Truth Trust, 1967).
マレーは、神の霊による本物の自発的な働きである「リバイバル」と、確信・悔い改め・再生のしるしを(少なくとも外見上は)得るための人間的な方法である「リバイバリズム」を区別しています。改宗者をもたらすために心理的・社会的圧力を用いるのは「リバイバリズム」の一部です(pp.xvi-xix)。
Jim Ehrhard, “The Dangers of the Invitation System” (Parkville, MO: Christian Communicators Worldwide, 1999), http://www.gracesermons.com/hisbygrace/invitation.html も参照。 - Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 256.
- Sandra Sizer, Gospel Hymns and Social Religion (Philadelphia: Temple University Press, 1978), 134.
- ムーディは、ジョージ・ホワイトフィールドのような大覚醒派の説教者たちとともに、感情に強く訴えかけました。彼らはロマン主義の哲学、すなわち意志と感情を強調する思想の影響を受けていました。これは、啓蒙主義によって形成された以前のキリスト教的思考を特徴づけていた、理性を強調することへの反動でした。
David W. Bebbington, “How Moody Changed Revivalism,” Christian History 9, no. 1 (1990): 23.
覚醒派の説教者たちが強調したのは、神に対する個人の心からの応答でした。改宗は神の活動の最も重要な目標と見なされるようになりました。J. スティーブン・ラングとマーク A.ノールがこう指摘するように。「目覚めの説教のおかげで、宗教的自己意識が強まった。個人の選択という原則は、アメリカのプロテスタンティズムに永遠に刻み込まれることになり、福音派をはじめとする多くの人々の間で今日もなお顕著である。」
J. Stephen Lang and Mark A. Noll, “Colonial New England: An Old Order, A New Awakening,” Christian History 4, no. 4 (1985):9-10. - ジョン・ネルスン・ダービはこの教えを生み出しました。ダービの患難前携挙の教理を生み出した経緯は、興味深いです。
Dave MacPherson, The Incredible Cover-Up (Medford, OR: Omega Publications, 1975). - Bebbington, “How Moody Changed Revivalism,” 23-24.
- Daniel G. Reid, Concise Dictionary of Christianity in America (Downers Grove, IL: InterVarsity, 1995), 330.
- 例: AD 2000運動(※世界伝道と教会植立の共通目標を持つ既存の教会・運動・組織を結びつけることを目指すムーブメント。アメリカを含む第一世界と第三世界の宣教活動を、「2000年までに各民族に教会を、全ての人に福音を」というスローガンのもとに結びつけている)など。
- 使徒たちは、イエスが預言されたように 「地の果てまで」行く前に、何年もエルサレムに留まりました。彼らは世界に伝道することを急ぎませんでした。同様に、エルサレムの教会も最初の4年間は誰にも伝道しませんでした。彼らもまた、世界への伝道を急いでいなかったのです。最後に、新約聖書のどの書簡にも、使徒が「時は遅く、日は少ない」から伝道せよと教会に言うようなことは微塵もありませんでした。クリスチャンが特定の時間内にできるだけ多くの魂を救わなければならないという重荷を持つことは悪いことではありません。しかし、神の民すべてにそのような特別な重荷を負わせることは、聖書的には正当化されませんし、神がそのように導いた先例もありません。
- 「そんなわずかな」というのは、非常に制限されているという意味です。ペンテコステ派やカリスマ派の教会では、信徒が何の制限もなく自由に宣教し分かち合うことができるような集会として完全に開かれた礼拝を持っていますが、今日では全く典型的ではありません。
- White, Protestant Worship, 204.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 129.
- 18世紀の大覚醒は、個人主義的な信仰の基調を築きました。これは1世紀の教会にとっては異質なものでした。アメリカは急速に頑強な個人主義者の国になりつつあり、この新たな強調点は国によく受け入れられました。
Terry, Evangelism, 122-123.
- フランク・センの著書『Christian Liturgy』は、時代を超えてさまざまな典礼を比較しています。これらの典礼を比較すれば、誰でもその共通点を容易に見出すことができるでしょう。
- センは5つの現代の典礼を並べて比較しています: ローマ・カトリックのミサ典礼書、ルター派の礼拝書、共通祈祷書、メソジスト派の礼拝形式、長老派の礼典書。これらは驚くほど似通っています。
Frank Senn, Christian Liturgy, 646-647.
- ある学者は、教父たちの著作から、すべての教会が守っている統一された一枚岩の典礼を導き出そうとしてきました。しかし、最近の研究によれば、教父たちの著作のどれ一つをとってみても、その時代にすべての教会で行われていたことを見出すのは不可能であることが示されています。
Bradshaw, The Search for the Origins of Christian Worship, 67-73, 158-183.
さらに、考古学的な発見は、神学者であった教父たちの著作が、当時の多様なクリスチャンの信仰や実践について正確な見解を示していないことを証明しています。新約聖書の教授グレイドン F. スナイダーの『Ante Pacem』は、コンスタンティヌス以前の教会生活について教父たちが描いた姿と矛盾する考古学的証拠についての研究書です。ある神学校の著述家によれば、「スナイダーは、初期キリスト教の知識人の著作は、その時代の教会について適切に描写しているのだろうか、という疑問を提起しています。この疑問は、『ノー』という明白な答えが私たちの口から聞かれるために投げかけられたに過ぎません。どの時代の知識人も、その時代の教会をありのままに語っていると言えるでしょうか? バルトやティリッヒ、あるいはニーバー夫妻は、20世紀アメリカの一般的なキリスト教がどのようなものであったかを何らかの形で描写しているでしょうか? そうではないのに私たちは、新約聖書といわゆる『教父的』神学者たちが、最初の3世紀の間のキリスト教を正確に描写してくれていると思い込んでいます。もちろんそう思い込んでいるのは、それが唯一の資料だと考えているからですし、文書に関する限り、そのことはおおかた真実です」。
Robin Scroggs, Chicago Theological Seminary Register 75, no. 3 (Fall 1985): 26. - Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 13.
- Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 13.
「伝統的な(すなわちカトリックの)神学用語や概念の多くは、ローマ・カトリックの取り組みの一部であったのと同様に、ルーテル派の取り組みの一部でもあります。
Kenan B. Osborne, Priesthood: A History of the Ordained Ministry in the Roman Catholic Church (New York: Paulist Press, 1988), 223. - Banks, Paul’s Idea of Community, 108;
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 308-309. - 第2章では、4世紀の教会建築が与えた影響が、能動的な聖職者と受動的な信徒を生み出したことについて論じています。この点について、ホートン・デイヴィスはこのように記しています。「3、4世紀の時の経過は、キリスト教礼拝の性格に大きな変化を示しています…。4世紀には礼拝は、個人の家ではなく荘厳な大聖堂や壮麗な教会で、自由で単純な礼拝形式ではなく固定された秩序ある礼拝で、祝われるようになったのです。」
Horton Davies, Christian Worship: History and Meaning, 26.
- Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 155.
- 聖公会のグレゴリー・ディックスのような典礼学者の中には、新約聖書にミサの原始的なモデルが含まれていると主張しようとする者もいます。しかし、彼らの議論を注意深く検討すると、彼らは自分たちの現在の伝統を聖書本文に読み込んでいるに過ぎないことがわかります。
Bradshaw, The Search for the Origins of Christian Worship, ch. 2.
- 最古の椅子はエジプトで作られました。何千年もの間、椅子は王族や貴族、司祭、裕福な人々だけが使っていました。一般庶民の間で椅子が使われるようになったのは、16世紀になってからです。
Encarta Encyclopedia, 1999 ed., s.v. “Chairs.”
パイル絨毯は11世紀にインドで開発され、他の東洋諸国に広まりました。
Encarta Encyclopedia, 1998 ed., s.v. “Floor and Floor Coverings.” - 週7日制は古代メソポタミアで生まれ、AD321年にローマ暦の一部となりました。1月はローマ神ヤヌス(Janus)、3月はローマ神マルス(Mars)、4月はヴィーナスの聖月アプリリス(Aprilis)、5月は女神マイア(Maia)、6月は女神ユノー(Juno)にちなんだ名前です。日曜日は太陽神、月曜日は月の女神、火曜日は戦士の神ティウ(Tiw)、水曜日はチュートンの神オーディン(ヴォータン[Wotan])、木曜日はスカンディナヴィアの神トール(Thor)、金曜日はスカンディナヴィアの女神フリッグ(Frigg)、土曜日はローマ神話の農耕神サトゥルヌス(Saturn)にちなんで名付けられました。
- なぜクリスマスやイースター、日曜日に集うクリスチャンが本書で扱われていないのか不思議に思っている方は、「FAQ」(※日本語版。Q2
6. 異教から来た慣習はすべて捨て去るべき? Q27. クリスマスやイースターに関して) でのフランクのコメント全文をご覧ください。 - デビッド・ノリントンは、教会が周囲の文化から思想を取り入れることは本質的には悪いことではないが、それらは異教的なものであるため、聖書の信仰に反することが多いという指摘をしています。このように、混合主義(シンクレティズム)や文化変容(アカルチュレーション)は教会にとって有害であることが多いのです。
※混合主義(シンクレティズム[syncretism]):異なる複数の文化や宗教が接触して混交している状態や現象。
※文化変容(アカルチュレーション[acculturation]):異なった文化を持った人々の集団どうしが互いに持続的な直接的接触をした結果、その一方または両方の集団のもともとの文化型に変化を起こす現象。
David Norrington, To Preach or Not, 23.
- 第一コリント14:26。新約聖書は、すべてのクリスチャンが、祭司として機能する賜物を用いて、 集まった時に互いに啓発し合うように教えています(ローマ12:3-8、第一コリント12:7、エペソ4:7、ヘブル10:24-25, 13:15-16、第一ペテロ2:5, 9)。
- アーサー・ウォリスの言葉を借りれば、「典礼は、古代であれ現代であれ、書かれたものであれ書かれていないものであれ、聖霊の即時的な臨在と働きに対する信仰を行使するのではなく、慣習的なことを行うことによって宗教的な歯車を回し続けるための人間的な装置である」ということです。
- Gary Gilley, This Little Church Went to Market: The Church in the Age of Entertainment (Webster, NY: Evangelical Press, 2005).
- このトピックについては、フランクの著書『Reimagining Church』を参照。
- 初代教会の集会の目的は、伝道・説教・礼拝・交わりのためではありませんでした。むしろ、キリストを体の一部として現すことによって、互いを磨き合うためでした。
Viola, Reimagining Church, ch. 2.
- Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 38, 40.
- マルコ 7:9, WEB(※World English Bible )からの翻訳。マタイ 15:2-6、マルコ 7:9-13、コロサイ 2:8も参照。
- John McNeil, “‘Denatured’ Church Facing Extinction,” ASSIST News Service, February 19, 2006.
- Stanley Grenz, Created for Community (Grand Rapids: Baker Books, 1998).
- F. F. Bruce, The Epistles to the Colossians, to Philemon, and to the Ephesians (Grand Rapids: Eerdmans, 1984), 68-69, 274-275;
Francis Foulkes, Ephesians (Grand Rapids: Eerdmans, 1989), 73-74.
第4章:説教~プロテスタントの最も神聖な偶像
- 「プロテスタントの最たる特徴は、説教の重要性である。」
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 110. - フランスでは、プロテスタントの教会の礼拝は「aller à sermon(説教に行く)」と呼ばれています。
White, Protestant Worship, 20.
- Norrington, To Preach or Not, 3.
- 預言者たちは、特定の出来事に応じて語りました(申命記1:1、5:1、27:1、9、ヨシュア記23:1-24:15、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、アモス書、ハガイ書、ゼカリヤ書など)。
- 会堂説教の唯一の違いは、聖書のテキストに基づいたメッセージが定期的に行われたことです。それでも、ほとんどの会堂では、希望する会員が人々に説教することが許されていました。これはもちろん、宗教の 「専門家」だけが会衆に語りかけることを許される現代の説教とは正反対です。
- アウグスティヌスは、その著書『主の山上の説教』(AD392年から396年の間に書かれた)の中で、マタイによる福音書5章から7章についてこのタイトルを最初につけました。しかし、この箇所が一般に「山上の説教」と呼ばれるようになったのは、16世紀になってからです。
Green, Dictionary of Jesus and the Gospels, 736;
Douglas, Who’s Who in Christian History, 48.
山上の説教は、その名前とは裏腹に、スタイルもレトリックも現代の説教とはかなり異なっています。 - Norrington, To Preach or Not, 7-12.
ノリントンは新約聖書における説教を分析し、現代の説教と対比しました。 - 使徒2:14-35、15:13-21、32、20:7-12、17-35、26:24-29。
Norrington, To Preach or Not, 5-7. - 使徒行伝の中で語られている使徒的メッセージが、自然発生的で、修辞的でないことは、よく見れば明らかです。例えば、使徒2:14-35、7:1-53、17:22-34参照。
- Jeremy Thomson, Preaching As Dialogue: Is the Sermon a Sacred Cow? (Cambridge: Grove Books, 1996), 3-8.
1世紀の説教と教えを説明するためによく使われるギリシア語は「dialegomai」です(使徒17:2, 17、18:4, 19、19:8-9、20:7, 9、24:25)。この言葉は双方向のコミュニケーションを意味します。英語の「dialogue(対話)」はこの言葉に由来しています。要するに、使徒的な宣教は、モノローグ(独白)的な説教よりも対話に重きを置いていたのです。
William Barclay, Communicating the Gospel (Sterling: The Drummond Press, 1968), 34-35. - 第一コリント14:26、31、ローマ12:4~、エペソ4.11~、ヘブル10:25 。
- Kreider, Worship and Evangelism in Pre-Christendom, 37.
- Norrington, To Preach or Not, 12.
- Norrington, To Preach or Not, 13.
記録された最初のキリスト教説教は、AD100年からAD150年の間に書かれた、いわゆるクレメンスの第二の手紙に収められています。
Brilioth, Brief History of Preaching, 19-20. - Norrington, To Preach or Not, 13.
- Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 109.
- Douglas J. Soccio, Archetypes of Wisdom: An Introduction to Philosophy (Belmont, CA: Wadsworth/ITP Publishing, 1998), 56-57.
- Douglas J. Soccio, Archetypes of Wisdom, 56-57.
- 詭弁・屁理屈(sophistry)や詭弁的な(sophistical)という言葉は、ソフィストに由来します。詭弁とは、説得のために用いられる、まやかしや誤り(インチキ)の推論を指します。
Soccio, Archetypes of Wisdom, 57.
ギリシア人は、説教の内容の正確さよりも、弁論家のスタイルや形式を賞賛しました。そのため、優れた弁論家は説教を利用して、自分が間違っていると知っていることさえ聴衆に信じさせることができたのです。ギリシア人にとって、議論に勝つことは真実を明らかにすることよりも大きな美徳だったのです。残念ながら、詭弁の要素はキリスト教徒から離れることはありませんでした。
Norrington, To Preach or Not, 21-22;
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 113. - Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 113.
- Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 54, 56, 91-92, 96, 97-98, 112.
- アリストテレスは「戯曲」や「寓話」を書くことについて述べていたのですが、彼の原則はスピーチをするときにも適用されました。
- ギリシア人にとって演説好きは第二の天性。「彼らはおしゃべりな国民だった」のです。
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 27.
- Norrington, To Preach or Not, 21.
- Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 40.
- Brilioth, Brief History of Preaching, 26.
- Robert A. Krupp, “Golden Tongue and Iron Will,” Christian History 13, no. 4 (1994): 7.
- Norrington, To Preach or Not, 24.
- Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 106-107, 109.
- Norrington, To Preach or Not, 24-25.
- Norrington, To Preach or Not, 24-25.
本書第5章も参照。 - Norrington, To Preach or Not, 25.
- Norrington, To Preach or Not, 22;
Smith, From Christ to Constantine, 115. - 異教の弁論家からキリスト教徒になったのは、テルトゥリアヌス、キプリアヌス、アルノビウス、ラクタンティウス、アウグスティヌス。
Norrington, To Preach or Not, 22.
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 7-9, 109;
Richard Hanson, Christian Priesthood Examined (Guildford, UK: Lutterworth Press, 1979), 53. - F.F. Bruce, Paul Apostle of the Heart Set Free (Grand Rapids: Eerdmans, 1977), 220.
著名なユダヤ教徒のラビ・ヒルレル(Hillel)は、「トーラーを世俗的な冠とする者は、朽ち果てる」(p.107-108)と言いました。 - Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 110.
- Norrington, To Preach or Not, 22.
釈義とは、聖書のテキストの解釈と説明のこと。 - Hatch, Influence of Greek Ideas and Usage, 110.
- 修辞学を学んだ学生は、提示されたどんな主題についても即興で話すことができるようになると、その学問を修了しました。修辞学の学習では、討論の形式である議論が一般的でした。学生は皆、議論の仕方や上手な論じ方を学びました。ギリシア人にとって論理は自然なものでした。しかし、それは実践から切り離され、理論的な議論の上に成り立つ論理でした。このような考え方全体が、早くからキリスト教信仰に浸透していたのです。
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 32-33. - Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 108.
ハッチはこう書いています。「組織の成長とともに、教えと励ましが融合するだけでなく、共同体に演説する自由が徐々に公的な階級に限定されるようになった。」
- Wayne E. Oates, Protestant Pastoral Counseling (Philadelphia: Westminster Press, 1962), 162.
- Wayne E. Oates, Protestant Pastoral Counseling, 107。
- Brilioth, Brief History of Preaching, 26, 27.
- Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 109;
Brilioth, Brief History of Preaching, 18. - J. D. Douglas, New Twentieth Century Encyclopedia of Religious Knowledge (Grand Rapids: Baker Book House, 1991), 405.
- クリュソストモスの異教徒の家庭教師であったリバニウスは、クリュソストモスの死の床で、「キリスト教徒が彼を盗まなければ」彼は自分の最も価値ある後継者であっただろうと述べています。
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 109. - Tony Castle, Lives of Famous Christians (Ann Arbor, MI: Servant Books, 1988), 69;
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 6.
ヨハネスは雄弁で妥協のない説教をしたため、黄金の口(クリュソストモス)とあだ名されました。
Krupp, “Golden Tongue and Iron Will” Christian History, 7.
- Durant, Age of Faith, 63.
- Kevin Dale Miller, “Did You Know? Little-Known Facts about John Chrysostom,” Christian History 13, no. 4 (1994): 3.
クリュソストモスが説いた説教のうち、600以上が現存します。 - Krupp, “Golden Tongue and Iron Will,” 7;
Schaff, History of the Christian Church, 3:933-941;
Durant, Age of Faith, 9.
クリュソストモスはリバニウスから修辞学を学んだが、異教の哲学や文学も学んでいた。
Durant, Age of Faith, 63. - ソフィストの説教に聴衆が熱狂的な拍手を送るのは、ギリシアの習慣でした。
- Schaff, History of the Christian Church, 3:938.
- Durant, Age of Faith, 65.
- Norrington, To Preach or Not, 23.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 71.
- Brilioth, Brief History of Preaching, 31, 42.
- Senn, Christian Liturgy, 366.
ルター派も改革派も、説教は節ごとの解説になりがちでした。これは、クリュソストモスやアウグスティヌスのような教父たちの特徴でもありました。 - ユニオン神学校の初期教会史の教授ジョン・マクガッキンからフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2002年9月29日。
- Norrington, To Preach or Not, 23.
- White, Protestant Worship, 46-47.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 114.
- Thomson, Preaching as Dialogue, 9-10.
- Old, The Patristic Roots of Reformed Worship, 79~.
- 宗教改革から今日までの説教内容の変遷をたどることは、本書の範囲を超えています。啓蒙時代の説教は、人間社会を改善するための不毛な道徳的説教に堕しました。ピューリタンたちは、教父たちから始まった節ごとの説明的説教を復活させました。19世紀のメソジズムでは、社会正義のテーマが目立つようになりました。そしてフロンティア・リバイバリズムの到来により、福音主義教会の説教は救いの呼びかけが主流となりました。ピューリタンたちはまた、現代の説教レトリックにも貢献しました。彼らの説教は、4部構成のアウトライン(聖句の朗読、神学的説明、教義の証明と実例、適用)で事前に書き出され、詳細な組織構造を持っていました。
White, Protestant Worship, 53, 121, 126, 166, 183;
Allen C. Guelzo, “When the Sermon Reigned,” Christian History 13, no.1 (1994): 24-25.
- Meic Pearse and Chris Matthews, We Must Stop Meeting Like This (E. Sussex, UK: Kingsway Publications, 1999), 92-95.
- White, Protestant Worship, 53, 121, 126, 166, 183;
Guelzo, “When the Sermon Reigned,” 24-25.
ピューリタンの説教の亡霊は、現在も私たちのそばにいます。プロテスタントの牧師が説教するのを聞くたびに、その根底に異教の修辞法を起源とするピューリタンの説教スタイルを発見することでしょう。
- Pearse and Matthews, We Must Stop Meeting Like This, 95.
- Brilioth, Brief History of Preaching, 22.
- 19世紀の歴史家エドウィン・ハッチは、説教に最初に異議を唱えた一人でした。
- 説教は、クリスチャンの成長を促進する主要なものとなっています。しかし、この考えは人々を惑わし、誤った方向へ導くものです。
- このトピックについては、フランク・ヴィオラ『Reimagining Church』を参照。
- この箇所(エペソ4:11-16)も、霊的成熟のためには機能することが必要であることを指摘しています。
- この箇所(第一コリント12-14章)で描写されている集会は、明らかに教会の集まりです。
- 牧師の中には、「羊がするのは『メェー』と鳴いて草を食べることだけだ」という心ない考えを口にする人がいます。
- Reuel L. Howe, Partners in Preaching: Clergy and Laity in Dialogue (New York: Seabury Press, 1967), 36.
- George W. Swank, Dialogical Style in Preaching (Valley Forge: Hudson Press, 1981), 24.
- Kevin Craig, “Is the Sermon Concept Biblical?” Searching Together 15, no. 1-2 (1986), 22.
- 多くの牧師が「聖徒を整える」「信徒を解放する」と語りつつも、弱った信徒を解放し、教会をミニストリーのために整えるという約束は、事実上いつも空虚なものであることがわかります。牧師が説教で教会の礼拝を支配している限り、神の民は集まりの中で自由に機能することができないのです。ですから、「聖徒を整える」という言葉は、典型的な虚しいキレイごとなのです。
- 私たちの中には、説教が異様に退屈だと感じる人もいます。それはまさに「死ぬほど説教される」という感覚です。19世紀の英国の作家で聖職者でもあったシドニー・スミスの引用が、その感情を捉えています。「彼は野生のカレート(助任司祭)によって死ぬほど説教されるに値する奴だ!」
- パウロができて間もない教会に説教した後、その教会を長期間放置した方法を考えてみましょう。詳しくは、次の本を参照。
Frank Viola, Finding Organic Church (Colorado Springs: David C. Cook, 2009). - Craig, “Is the Sermon Concept Biblical?” 25.
- Norrington, To Preach or Not, 23.
- Clyde H. Reid, The Empty Pulpit (New York: Harper & Row Publishers, 1967), 47-49.
- Alexander R. Hay, The New Testament Order for Church and Missionary (Audubon, NJ: New Testament Missionary Union, 1947), 292-293, 414.
- 人は栄光の中でも苦しみの中でもキリストに出会うことができます(第二コリント3:18、ヘブル12:1~)。
- 使徒 3:20、5:42、8:5、9:20、ガラテヤ1:16、コロサイ1:27-28。未信者に宣教する説教(ケリュグマ/kerygma)であれ、信徒を教える説教(ディダケー/didache[※十二使徒の遺訓])であれ、説教は対象者にとってイエス・キリストなのです。
C. H. Dodd, The Apostolic Preaching and Its Developments (London: Hodder and Stoughton, 1963), 7~.
初代教会について、マイケル・グリーンはこう書いています。「彼らの説教は、率直に言ってキリスト中心であった。実際、福音のことをそのままイエスまたはキリストと呼んでいた。彼らはイエスを告げ知らせたのである。人であるイエス、十字架につけられたイエス、よみがえられたイエス、宇宙の王座に高められたイエス…。イエスは、御霊のうちに御自分の民の中におられた。復活したキリストが彼らのメッセージの中心であることは明らかなことだった。」
Green, Evangelism in the Early Church (London: Hodder and Stoughton, 1970), 150. - このトピックについては、フランク・ヴィオラ『Reimagining Church』を参照。
- ヘブル3:12-13、10:24-26。これらの箇所で「互いに」が強調されていることに注目してください。著者が考えているのは、相互の励ましなのです。
- Craig A. Evans, “Preacher and Preaching: Some Lexical Observations,” Journal of the Evangelical Theological Society 24, no. 4 (December 1981), 315-322.
- Norrington, To Preach or Not, 69.
- Norrington, To Preach or Not, 69.
- George T. Purves, “The Influence of Paganism on Post-Apostolic Christianity,” The Presbyterian Review 36 (October 1888): 529-554.
- 第5章も参照。
- Norrington, To Preach or Not, 102, 104.
第5章:牧師~全てのメンバーが機能することを阻む障害
- 今日、地域教会の働きに召されていると感じている人たちは、一般的に牧師や賛美リーダーとして奉仕することに選択肢が限られていると考えています。主の働きに召されることは確かに現実の経験ではありますが、1世紀にはこのような役職は存在しませんでした。にもかかわらず、その職責には聖書的根拠がないのに、牧師はしばしば人々を助けます。しかし彼らは、その職責であるかどうかにかかわらず、牧師だからなのでもなく、そうするのです。
- 使徒 20:28 と第一ペテロ 5:2-3 には、ポイメン/poimenという言葉の派生形が使われています。
- 黙示録1:6、5:10、20:6。
Paul Stevens, The Other Six Days: The Other Six Days: Vocation, Work, and Ministry in Biblical Perspective (Grand Rapids: Eerdmans, 1999), 173-181.
- Banks, Paul’s Idea of Community, 131-135.
新約聖書では、キリストの体における働き人を表すために、市民的権威や宗教的な権威を表す世俗的なギリシア語の語彙は一度も使われていません。さらに、新約聖書の著者のほとんどが旧約聖書のユダヤ教の祭司制度に精通しているにもかかわらず、彼らはクリスチャンの奉仕を指すために 「hiereus(祭司)」という言葉を一度も使っていません。現代の教会で行われる役職への按手式は、固定化され明確に定義できる教会のリーダーの役割を前提としており、それは使徒たちの教会には存在しませんでした。
Marjorie Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View (Grand Rapids: Eerdmans, 1982), 160-161, 166.
- ヨブ記の中にあるエリフの言葉が思い浮かびます: 「わたしはだれをもかたより見ることなく、また何人にもへつらうことをしない。」(ヨブ記 32:21)
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 34-35.
- 「長老 (elders)」を表す英語の「presbyter」は、ギリシア語の「長老(presbuteros)」を英語表記にしたものです。
- 監督者(overseers)としもべ(servants)という言葉は教会用語化され、司祭(bishops)および執事(deacons)となりました。
Smith, From Christ to Constantine, 32.
- Christian Smith, Going to the Root, ch. 2-3;
Jon Zens, The Pastor (St. Croix Falls, WI: Searching Together, 1981);
Jon Zens, “The ‘Clergy/Laity’ Distinction: A Help or a Hindrance to the Body of Christ?” Searching Together 23, no. 4 (1995). - 「キリスト教は、異教から次のことを学びました。それは、多くの人々にとって、ある意味で神を表し象徴し、この代表的な務めに自分自身をささげるように召されている人の助けなしに、神を理解したり神に近づいたりするのは難しいということです。」
Hanson, Christian Priesthood Examined, 100.
- Walter Klassen, “New Presbyter Is Old Priest Writ Large,” Concern 17 (1969): 5.
W. Klassen, J. L. Burkholder, and John Yoder, The Relation of Elders to the Priesthood of Believers (Washington, DC: Sojourners Book Service, 1969). - F. W. Grant, Nicolaitanism or the Rise and Growth of Clerisy (Bedford, PA: MWTB, n.d.), 3-6.
ギリシア語の「nicolaitane」は 「民衆を征服する」ことを意味し、「ニコス/Nikos」は「征服する」、「ラオス/laos」は「民衆」を意味します。グラントは、ニコライ派とは神の民を支配する「聖職者」を育てることによって、神の民から「一般信徒」を作り出す者たちのことだと信じています。
Alexander Hay, What Is Wrong in the Church? (Audubon, NJ: New Testament Missionary Union, n.d.), 54. - Banks, Paul’s Idea of Community, 131-135.
ギリシア語新約聖書では、キリスト教指導者を指すための「役職(office)」という言葉は出てきません。私たちは、このような人間の社会にある制度や組織の慣習を新約聖書に投影しているのです。 - James D. G. Dunn, New Testament Theology in Dialogue (Philadelphia: Westminster Press, 1987), 123, 127-129.
- 初代教父の著作では、新約聖書の場合と同様に、羊飼い・監督・長老という言葉は常に同じ意味で使われています。F.F.ブルースは「新約聖書の言葉は、『監督(エピスコポス)』および『長老(プレスビテロース)』と訳されている二つのギリシア語を区別することを私たちに許さない。パウロは、エペソ教会から集まった『長老』たちを、聖霊が『監督』とされた者、と呼ぶことができた。その後、牧会書簡(テモテとテトスへの手紙)では、この二つの用語は今でも同じように使われているようである。」と述べています。
F.F.Bruce, The Spreading Flame (Grand Rapids: Eerdmans, 1958)65.
実際、監督・長老・牧者(常に複数形)は、『クレメンスの第一の手紙』『ディダケー(※十二使徒の遺訓)』『ヘルマスの牧者』の中で同一視され続けています。2世紀初頭まで、これらは同一視されていました。
Mackinnon, Calvin and the Reformation, 80-81;
Ferguson, The Early Christians Speak, 169-173. - 詳しくはフランク・ヴィオラ『Reimagining Church』を参照。
- 第一コリント11:1、第二テサロニケ3:9、第一テモテ 4:12、第一ペテロ 5:3 。
- Ferguson, The Early Christians Speak, 172.
- デイビッド・ノリントンは著書の中で、教会にどのような序列構造と教会の専門家が出現し始めたかについて詳しく論じています。
David Norrington, To Preach or Not to Preach?, 24-25.
- Ferguson, The Early Christians Speak, 173.
- Bruce, Spreading Flame, 203-204.
- 「エペソ人への手紙」6:1、「スミルナ人への手紙」8:1-2、「フィラデルフィア人への手紙」7:1、「マグネシア人への手紙」7:1、「トロアス人への手紙」3:1。イグナティオスの書簡にはこのような表現がたくさんあります。
Ignatius, Early Christian Writings: The Apostolic Fathers (New York: Dorset Press, 1968), 75-130. - Edwin Hatch, The Organization of the Early Christian Churches (London: Longmans, Green, and Co., 1895), 106, 185;
Early Christian Writings, 88.
ハッチの著書は、教会組織が徐々に進化し、その組織のさまざまな要素がギリシア・ローマ社会から借用されたものであることを示しています。 - Robert M. Grant, The Apostolic Fathers: A New Translation and Commentary, vol. 11 (New York: Thomas Nelson & Sons, 1964), 58, 171.
- R. Alastair Campbell, The Elders: Seniority within Earliest Christianity (Edinburgh: T. & T. Clark, 1994), 229.
- Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 124.
- Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 100.
- Kenneth Strand, “The Rise of the Monarchical Episcopate,” in Three Essays on Early Church History (Ann Arbor, MI: Braun-Brumfield, 1967);
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 175. - Hanson, Christian Priesthood Examined, 69;
Early Christian Writings, 63-72. - Bruce, Spreading Flame, 66-69;
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 23-25.
イグナティオスが手紙を書いた当時、単独司教制はエペソ、フィラデルフィア、マグネシア、スミルナといった小アジアの都市で実践されていました。しかし、ギリシアやローマのような西方の都市にはまだ届いていませんでした。単独司教制はシリアから帝国を西に横断していったようです。 - Hanson, Christian Priesthood Examined, 67;
Bruce, Spreading Flame, 69.
J. B. Lightfoot’s “The Christian Ministry” in Saint Paul’s Epistle to the Philippians (Wheaton, IL: Crossway, 1994).
上記の書籍は、司教制度が長老会から徐々に発展していった歴史的証拠について、最も納得のいく説明をしていると、フランク・ヴィオラは考えています。 - Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 25.
- S. L. Greenslade, Shepherding the Flock (London: SCM Press, 1967), 8.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 68.
- Hatch, Growth of Church Institutions, 35.
- White, Protestant Worship and Church Architecture, 65-66.
- 1 Clement 40:5.
Ferguson, The Early Christians Speak, 168;
R. Paul Stevens, The Abolition of the Laity (Carlisle, UK: Paternoster Press, 1999), 5. - Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 38.
- Tertullian, On Monogamy, 12.
- Stevens, Abolition of the Laity, 28
- 「laity(一般信徒)」という言葉は、ギリシア語の「ラオス/laos」から派生しており、「民衆」を意味します(第一ペテロ2:9-10参照)。一方、「clergy(聖職者)」という言葉は、ギリシア語の「クレロス/kleros」から派生しており、「くじ、分け前、または遺産」を意味しています。新約聖書では、指導者を表すために「kleros」が使われたことはありません。むしろ、神の全ての人々を指すために使われます。なぜなら、神の民こそが神が受け継いだものだからです(エペソ1:11、ガラテヤ3:29、コロサイ1:12、第一ペテロ5:3参照)。この関連で、皮肉なことにペテロは第一ペテロ5:3で、教会の長老たちに「kleros」(ゆだねられた者たち)に対して主人ぶらないようにと勧めています! つまり「kleros」と「laos」は共に、神の群れ全体を指す言葉なのです。
- J. G. Davies, The Early Christian Church: A History of Its First Five Centuries (Grand Rapids: Baker Books, 1965), 92.
聖職者がどのように発展していったかについては、次の本も参照。
Stevens, The Other Six Days, 39-48.
- “Come and See” Icons, Books, and Art, “St. Cyprian of Carthage,”
- Nichols, Corporate Worship in the Reformed Tradition, 25.
- Ferguson, The Early Christians Speak, 168.
キプリアヌスは通常、司教のことを、ラテン語で 「司祭」を意味する「サケルドス/sacerdos」と呼んでいました。教会の役職を定義するために旧約聖書から引用された祭司職の言葉は、すぐに広まりました。
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 177;
Smith, From Christ to Constantine, 136.
J. B. ライトフットは、「教会史における最も印象的で重要な現象の一つは、祭司的な視点からのミニストリーである」と書いています。
J. B. Lightfoot, “Christian Ministry,” 144. - Hanson, Christian Priesthood Examined, 35, 95.
AD200年まで、「キリスト教の働き人は司祭である」と考えていた人がいたという記述はありません。テルトゥリアヌスは、司祭という用語を監督や長老に適用した最初の人物です。彼は著作の中で、監督や長老を「sacerdos(司祭)」と呼び、監督(司教)を「sacerdos summas(大祭司)」と呼んでいます。彼は、読者がこれらの呼称を知っていることを前提に、説明なしに書いています(p. 381)。
Hans von Campenhausen, Tradition and Life in the Church (Philadelphia: Fortress Press, 1968), 220.
キプリアヌスはまた、司教は旧約聖書の大祭司に相当すると述べて、称賛されています。
Smith, From Christ to Constantine, 136.
歴史家エウセビオスは、その膨大な著作の中で、定期的に聖職者を「司祭」と呼んでいます。
Hanson, Christian Priesthood Examined, 61. - 「このように、地域教会の主任司牧者として、聖職の全容を表すようになったのは司教であった。彼は預言者であり、教師であり、典礼集会の主席祭司であり、キリスト教会堂の監督委員会の委員長だった。」
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 28.
AD591年に書かれたグレゴリウス1世の著作『The Book of Pastoral Rule(牧会規定書)』は、司教の職務に関する論考です。彼にとって、司教は牧者であり、説教は最も重要な職務の一つです。グレゴリウス1世の著書はキリスト教の古典であり、今日でもプロテスタントの神学校で牧師の訓練に用いられています。
Philip Culbertson and Arthur Bradford Shippee, The Pastor: Readings from the Patristic Period (Minneapolis: Fortress Press, 1990). - Ferguson, The Early Christians Speak, 13-14.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 28.
- この教義とその反駁に関する徹底的な議論については、フランク・ヴィオラ『Reimagining Church』を参照。
- Stevens, Other Six Days, 41-42.
- キプリアヌスは、「群れの一部は各牧者に割り当てられており、それぞれの牧者は、主に対し説明責任を負って群れを治めなければならない」と述べています。
Cyprian, Letter to Cornelius of Rome, LIV, 14.
Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 171. - Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 28-29.
- Campbell, Elders, 231;
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 29. - Davies, Early Christian Church, 131;
The Apostolic Tradition of Hippolytus, trans. Burton S. Easton (Cambridge: Cambridge University Press, 1934).
ヒッポリュトスは、司教と長老たちの権限をはっきりと区別しています。著書には、「司教は罪の赦しと、告解の秘跡を執り行う権限がある」と記されています。
Hanson, Christian Priesthood Examined, 39-40.
長老と執事は、司教の権限の下で洗礼を授けることのみ行うことができました。
Campbell, Elders, 233. - Davies, Early Christian Church, 187;
AD318年、コンスタンティヌスは司教の管轄権を承認しました。さらに333年、司教はローマ帝国の執政官と対等の立場に置かれました(p.188)。 - Hans Lietzmann, A History of the Early Church, vol. 2 (New York: The World Publishing Company, 1953), 247.
- ニカイア公会議公文書によれば、アレキサンドリア、ローマ、アンティオキアは、その周辺の地域に対して特別な権威を持っていました。
Smith, From Christ to Constantine, 95.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 72.
ハンソンは、5世紀のローマ帝国の滅亡がいかに司教職を強化したかを説明しています(p.72-77)。 - Ann Fremantle, ed., A Treasury of Early Christianity (New York: Viking Press, 1953), 301.
- 使徒継承が最初に登場するのはローマのクレメンスとエイレナイオスの著述です。ヒッポリュトスも著作の中で記しています。しかし、使徒継承を首尾一貫した教義として確立したのはキプリアヌスでした。
Grant, Early Christianity and Society, 38;
Norman Sykes, Old Priest and New Presbyter (London: Cambridge University Press, 1956), 240. - G. S. M. Walker, The Churchmanship of St. Cyprian (London: Lutterworth Press, 1968), 38.
多くの教父たちは、旧約聖書を教会の規範的な秩序を示すものとして扱いました。旧約聖書に記されている祭司の用語を教会の役職に対して用いることは、早くも2世紀には一般的になっていたのです。
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 50, 161;
Hanson, Christian Priesthood Examined, 46, 51. - Hanson, Christian Priesthood Examined, 59;
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 39. - Hanson, Christian Priesthood Examined, 54.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 58.
『ディダケー(※十二使徒の遺訓)』でも『クレメンスの第一の手紙』でも、聖餐は司教によって行われる「犠牲」であり「ささげ物」であるとされています。
von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 220. - 典礼的な意味で用いられる「犠牲」という言葉は、『ディダケー(※十二使徒の遺訓)』に初めて登場します。
von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 220.
- 聖餐を通して司教がキリストの犠牲をささげるという考え方は、聖職者主義です。この点に関して、リチャード・ハンソンは痛烈にこう述べています。「この聖職者主義的な司教の扱いは、万人祭司の教義を廃止するとはいかないまでも、曖昧なものにしてしまっている。それは、信仰者の祭司としての役割を、すべて聖職者の中に取り込んでしまっているのだ。」
Hanson, Christian Priesthood Examined, 98. - Hanson, Christian Priesthood Examined, 79.
- 3世紀には各司祭は、自分の働きを監督し調整する司教を選びました。4世紀には事態はもっと複雑になり、司教は監督を必要としました。それゆえ、州の教会を統治する大司教や大管区が誕生したのです。
Durant, Age of Faith, 45, 756-760. - Concerning the Mysteries, 9:52, 54.
東方教会では、聖霊が魔術を行うために祈りがささげられます。西方教会では、言葉そのものが魔法をかけるので祈りは省かれます。
Dix, Shape of the Liturgy, 240-241, 275;
Josef A. Jungmann, The Mass of the Roman Rite, vol. 1 (New York: Benziger, 1951), 52. - Campbell, Elders, 234-235.
「priest(司祭)」という英語の語源は 「presbyter(長老)」が縮まったものです。古英語時代の終わりには、英語の 「priest」 は現在の「presbyter(長老)」と「sacerdos(司祭)」の両方を表す言葉になっていました。
Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 1325. - Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 30-31.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 71.
- Robert F. Evans, One and Holy: The Church in Latin and Patristic Thought (London: S.P.C.K., 1972), 48.
- コンスタンティヌス以前、ローマの司教はローマの外で権限を行使しませんでした。彼は尊敬されていましたが、そのような教会の権威はありませんでした。
Bruce Shelley, Church History in Plain Language (Waco, TX: Word, 1982), 151.
「pope(教皇)」という言葉は、「papa」という称号に由来しており、これは司教たちの父親のように世話することを表現するために使われた言葉でした。この用語がローマ教会の司教のためだけに使われるようになったのは、6世紀に入ってからです。ローマカトリック教会の教皇の起源は以下の通りです。
2世紀の終わり、ローマの司教たちは多大な尊敬を受けていました。ステファヌス1世(257年没)は、ローマの司教の特別性を表すためにマタイ16:18によるペテロの聖書箇所(※「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。」)を初めて使用しました。しかし、これは普遍的に受け入れられたわけではありませんでした。
現代のような教皇は、大教皇レオ1世(5世紀。※440年から461年まで務めた)に遡ることができます。レオ1世は、ローマの司教の最高位を神学的・聖書的に主張した最初の人物でした。彼の下で、ローマの最高位が最終的に確立されました。グレゴリウス1世(540-604年)の登場により、「教皇の座」が拡大し、強化されました。ちなみに、グレゴリウスはイタリアで最も土地を所有する人物となり、裕福で強力な教皇が続く先例を作りました。3世紀半ばまでに、ローマ教会は30,000人のメンバー、150人の聖職者、そして1,500人の未亡人と貧しい人々を抱えていました。
Gonzalez, The Story of Christianity, 1:242;
Schaff, History of the Christian Church, 4:212, 218-219;
Shelley, Church History in Plain Language, 150-151;
Davies, Early Christian Church, 135-136, 250;
Durant, The Age of Faith, 521;
Hanson, Christian Priesthood Examined, 76~.
またグレゴリウス1世は、「神のしもべの中のしもべ」という言葉を初めて使用しました。
Schaff, History of the Christian Church, 3:534; 4:329. - Donald E. Brown, Hierarchy, History, and Human Nature (Tucson: The University of Arizona Press, 1988), 119-179;
Murray Bookchin, The Ecology of Freedom (Palo Alto: Cheshire Books, 1982), 62-88;
Peter Gelderloos, “The Rise of Hierarchy,” The Anarchist Library, fall 2005;
Stephanie Pappas, “Origins of Hierarchy: How Egyptian Pharaohs Rose to Power” Live Science (August 11, 2014). - D. C. Trueman, The Pageant of the Past: The Origins of Civilization (Toronto: Ryerson, 1965), 105.
- Grant, Early Christianity and Society, 11-12.
「教会組織は、帝国の政治的・地理的な東西への分裂にも適応しました。」
Schaff, History of the Christian Church, 3:7. - Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 185, 213.
ブルース・シェリーが述べているように、「教会は、成長するに伴い、ごく自然に帝国の構造を取り入れた」ようです。
Bruce Shelley, Church History in Plain Language, 152. - Durant, Caesar and Christ, 575, 618.
デュラントは「ローマ教会は、国家としてのローマ帝国の足跡をたどった」(p.618)と書いています。
- Stevens, The Other Six Days, 44;
Trueman, Pageant of the Past, 311;
Fox, Pagans and Christians, 573;
Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 482. - Durant, Caesar and Christ, 671-672.
- マタイ20:25-28、23:8-12、ルカ22:25-27。
- パウロは自分の後任として多くの人を訓練しました。その中にはテモテ、テトス、ガイオ、テオピロ、テキコなどがいました。
Viola, Finding Organic Church. - Hanson, Christian Priesthood Examined, 62.
- この頃、聖職者という用語の範囲が広がり、教会で働きをする人すべてを含むようになりました。
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 29.
Boggs, Christian Saga, 206-207. - Jungmann, Early Liturgy, 130-131.
- Durant, Caesar and Christ, 618-619.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 62;
Durant, Caesar and Christ, 656-657,668. - Duchesne, Early History of the Christian Church, 50;
Johnson, A History of Christianity, 77;
Fox, Pagans and Christians, 667. - このような免除は、医師や教授などの職業にも認められていました。
David Andrews, Christi-Anarchy (Oxford: Lion Publications, 1999), 26.
- Collins and Price, Story of Christianity, 74.
- Johnson, A History of Christianity, 77.
その1世紀後、背教者ユリアヌス帝は、これらと同じ用語(聖職者の:clerical、聖職者:clerics)を否定的な意味で用いています。 - Fox, Pagans and Christians, 667.
- Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 153-155, 163.
キリスト教の最初の3世紀、司祭は独身である必要はありませんでした。西方教会で、AD306年に開かれたスペインのエルビラ公会議が、初めて聖職者に独身を義務付けたのです。これは、AD386年に教皇シリキウスによって再び主張され、結婚したり、妻と同居を続けたりした司祭は、聖職をはく奪されました。東方教会では、司祭と助祭は就任のための按手式の前に結婚することはできましたが、按手後はできませんでした。司教は独身でなければなりませんでした。グレゴリウス1世は聖職者の独身制を推進するために多くのことを行いましたが、多くの人々はこれに従いませんでした。聖職者の独身制は、聖職者といわゆる 「普通の神の民」との間の溝を広げるだけでした。
Cross and Livingstone, The Oxford Dictionary of the Christian Church, 310;
Schaff, History of the Christian Church, 1:441-446;
Durant, Age of Faith, 45. - 司教の服装は、古代ローマの判事の衣装でした。聖職者は、異教の哲学者のように髪を長く伸ばしてはなりませんでした。
Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 164-165.
- Collins and Price, Story of Christianity, 74.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 62
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 29.
- Durant, Caesar and Christ, 657.
- Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 40-41.
- Norrington, To Preach or Not, 25.
- Karl Barth, Theologische Fragen und Antworten (1957), 183-184,
R. J. Erler and R. Marquard, eds., A Karl Barth Reader, trans. G. W. Bromiley (Grand Rapids: Eerdmans, 1986), 8-9.からの引用。 - 「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(第一コリント10:31)。聖なるものと俗なるものとの間の誤った二項対立は、キリストにおいて永遠に廃止されました。このような考え方は、異教や古代ユダヤ教に属するものです。クリスチャンにとって、「それ自体汚れたものは何一つない」(ローマ14:14, NASBからの翻訳)し、「神がきよくされたものを、きよくないと呼んではならない」(使徒10:15, ESVからの翻訳)。聖俗分離に関する誤った考え方に関する詳細な議論は、以下を参照。
Davies, Secular Use of Church Buildings, 222-237. - Schaff, History of the Christian Church, 3:125-126.
- Dunn, New Testament Theology in Dialogue, 127.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 64.
「coryphaeus/コリュパイオス(Master of Ceremonies[司式者・進行係])」や、「hierophant/ハイエロファント(Grand Master of the Lodge[(結社などの組織の)支部会長])」といった用語は、異教のカルトから自由に取り入れ、キリスト教の聖職者を指す言葉として用いられました。「最高神祇官 (Pontifex Maximus: supreme pontiff)」(主教の中の主教[bishop of bishops])という表現を最初に用いたのは、テルトゥリアヌスでした。AD218年頃記した著書『On Chastity』で、ローマ主教に言及するために、皮肉を込めてこの語を用いています。
Bruce, Spreading Flame, 322.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 64.
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 65-66.
von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 222-223.
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 40, 167.
- 使徒13-19章、第一コリント、第二コリント。私(フランク)は以下の著書の中で、使徒たちが自分たちの始めた教会をいつ訪れ、長老をいつ承認したか、年代順にたどっています。
Viola, The Untold Story of the New Testament Church: An Extraordinary Guide to Understanding the New Testament (Shippensburg, PA: Destiny Image, 2004).
- 聖書注解者アルフレッド・プラマー/Alfred Plummerによると、新約聖書で「按手する(英語ではordain)」と訳されているギリシア語には、教会に関係する特別な意味はありません。そのどれもが、按手や任命のための特別な儀式の意味ではありませんでした。
W. Robertson Nicoll, ed., The Expositor’s Bible (New York: Armstrong, 1903), 219-221. - 使徒 16:2、第一コリント 16:18、第二コリント 8:22、ピリピ 2:22、第一テサロニケ 1:5、5:12、第一テモテ 3:10。
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 4.
KJV(※King James Version)の翻訳者は、21の異なるヘブライ語とギリシア語に「按手する(ordain)」という言葉を使っています。17世紀の教会による誤解が、この不適切な語彙選択に影響を与えました。
- 使徒14:23のギリシア語「ケイロトネオ/cheirotoneo」は、賛成の意を表す時のように「手を伸ばす」というのが文字通りの意味です。したがって使徒たちは、教会の大多数の人がすでに彼らの中で監督として機能しているとみなした人々に手を置いたのでしょう。
- Campbell, Elders, 169-170.
- 使徒13:2-3、第一テモテ4:14。年長の働き人であるパウロは、若い働き人だったテモテに手を置いています(第二テモテ1:6)。
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 104, 111, 127, 130.
新約聖書における「按手」の意味について、ワーケンティンは著書の9-11章で徹底的に研究しています。彼女の結論は、「按手は、長老であれ執事であれ牧師であれ宣教師であれ、教会における役職への就任とはまったく関係がない」というものでした。
- 聖職者への按手の儀式に関する最も古い記録は、『Apostolic Tradition of Hippolytus(聖ヒッポリュトスの使徒伝承)』(215 年頃)に見られます。このことに関する言及は、4世紀までに多く見られるようになりました。
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 25, 41. - Wackentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 104.
- Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 129-133.
これと同じ傾向は、1世紀にはすでにユダヤ教にも見られました。トーラーと口伝の解釈に長けていたユダヤ教の律法学者たちは、サンヘドリンの役職に就く人物に按手しました。これらの人々は、イスラエル全土に対する神の意志の仲介者と見なされていました。サンヘドリンの中で 「按手を受けた者」は非常に権力を持つようになったため、2世紀初頭にはローマ帝国は、按手に関わったユダヤ人たちを死刑に処したと言います。
Warkentin, Ordination A Biblical-Historical View, 16, 21-23, 25. - Warkentin, Ordination A Biblical-Historical View, 35.
このことは、『Apostolic Constitutions(使徒憲章)』によって明らかにされています。 - Warkentin, Ordination A Biblical-Historical View, 45.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 75.
- von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 224.
- von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 227.
- von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 228.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 71, 128.
- von Campenhausen, Tradition and Life in the Church, 229.
- St. Gregory of Nyssa, On the Baptism of Christ: A Sermon for the Day of Lights.
Niehbur and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 75.
司祭の按手は、按手を受けた人々に「消すことのできない特性(Character indelebilis)」を与えると信じられていました。つまり、聖なるものがその人の中に入り込んだのです。
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 42;
Schaff, History of the Christian Church 3:489. - Apostolic Constitutions(使徒憲章)Ⅱ. 4.26.
- David D. Hall, The Faithful Shepherd (Chapel Hill: The University of North Carolina Press, 1972), 6.
- Schweizer, Church Order in the New Testament, 207.
- Dunn, New Testament Theology in Dialogue, 138ff., 126-129.
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 45, 51;
Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 126-131.
按手による司祭の任命は、聖職者の権力を強化する手段となっていきました。それを通じて、聖職者は神の民と世俗の権力者を支配することができました。その結果、現代の按手礼はクリスチャンの間に人為的な障壁を設け、相互の働きを妨げているのです。 - Hanson, Christian Priesthood Examined, 82.
- ルターは、按手によって任命された人の人間性が変わるという考えを否定しましたが、それでも、按手の重要性を信じていました。ルターにとって按手は教会の慣例であり、牧師としての職務を遂行するためには特別な儀式が必要だと考えていたのです。
Senn, Christian Liturgy, 297. - 「万人祭司とは、ルターが述べていたように、それぞれの神との関係や他者への祭司性を指すだけでなく、クリスチャンの共同体におけるすべての人々の平等性をも指している。」
John Dillenberger and Claude Welch, Protestant Christianity: Interpreted through Its Development (New York: The Macmillan Company, 1988), 61. - Hall, Faithful Shepherd, 8.
アナバプテスト(再洗礼派)に関する説得力のある研究に関しては以下を参照。
Peter Hoover, The Secret of the Strength: What Would the Anabaptists Tell This Generation? (Shippensburg, PA: Benchmark Press, 1998). - J. L. Ainslie, The Doctrines of Ministerial Order in the Reformed Churches of the 16th and 17th Centuries (Edinburgh: I. & T. Clark 1940), 2, 5.
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 57-58, 61-62.
- アナバプテスト(再洗礼派)は、第一コリント14:26、30-31にあるパウロの命令、すなわち、すべての信仰者はいつでも教会の集会で機能する権利があることを信じ、実践していました。ルター以前の時代には、この実践は「座る者の権利(Sitzrecht)」として知られていました。
- ルターは「座る者の権利(Sitzrecht)は地獄の淵から来たもの」であり、「秩序を倒錯させ、権威に対する尊敬を損なうもの」であると主張しました。20年以内にヨーロッパ中のドイツの土地で116以上の法案が可決され、この「アナバプテスト(再洗礼派)の異端」には死罪が課されるようになりました。
Hoover, Secret of the Strength, 59, 198.
さらにルターは、もし教会の全ての人たちが聖餐を公に執り行うことになったら、「嘆かわしい混乱」が起こると考えていました。ルターは、牧師一人が聖餐を執り行うべきだと考えていたのです。
Paul Althaus, Theology of Martin Luther (Philadelphia: Fortress Press, 1966), 323. - Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 105.
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 105.
今日のプロテスタントは、「ミニストリー」という言葉を、すべてのクリスチャンが互いに機能を共有する働きとしてではなく、より大きなキリストの体との間を仲介する組織の働きであるかのように用いています。 - ローマ・カトリックの聖職者が救いの門番であると考えられていたように、プロテスタントの聖職者は神の啓示を預かる者とみなされていました。1530年のアウクスブルク信仰告白によれば、教会の最高の役職は説教者であり、古代ユダヤ教ではラビが民衆のために律法を解釈していました。プロテスタント教会では、牧師は神の奥義の管理者とみなされています。
Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 168.
- John Owen, The True Nature of a Gospel Church and Its Government, ed. John Huxtable (London: James Clarke, 1947), 41, 55, 68, 99;
Ainslie, Doctrines of Ministerial Order, 37, 49, 56, 59, 61-69;
Thomas Goodwin, Works, 11:309. - Jon Zens, “Building Up the Body: One Man or One Another,” Baptist Reformation Review 10, no. 2 (1981): 21-22.
- Hall, Faithful Shepherd, 28-29.
- John Calvin, Institutes of the Christian Religion (Philadelphia: Westminster Press, 1960), bk. 4, ch. 8, no. 14.
- 「pastor(牧師)」はラテン語に由来し、「shepherd(羊飼い)」の翻訳として用いられました。ウィリアム・ティンダルは、聖書の翻訳において「pastor」という言葉を好んで使いました。 ティンダルは、牧師対司祭の問題をめぐってトマス・モア卿と論争しました。プロテスタントであったティンダルは、「pastor」が釈義的に正しいという立場を取りました(このやりとりについては、『The Parker Society Series on the English Reformers』を参照)。
- Hall, Faithful Shepherd, 16.
- Sykes, Old Priest and New Presbyter, 111.
- Luther, “Concerning the Ministry,” Luther’s Works, 40:35.
- 宗教改革中に最も影響力のあった書物の一つがブツァーの『Pastorale(牧師)』であり、同じ時期にツヴィングリも『The Pastor(牧師)』と題する小冊子を出版しています。
- ジュネーブのカルヴァンによる、牧師と長老が管理する教会運営は、宗教改革中に最も影響力のあるモデルとなりました。この秩序は、フランス、オランダ、ハンガリー、スコットランドのプロテスタント教会や、イギリスのピューリタンとその支流教派の間で、その模範となりました。
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 115-117, 131
カルヴァンはまた、エペソ4:11-12にあるように、牧師と教師は教会で永続的に存在する二つだけの「普通の(司祭ではない)」責任者である、という考えを生み出しました。
Hall, Faithful Shepherd, 28.
17世紀には、ピューリタンが出版した著作の一部で「牧師」という用語が使われています。17世紀の英国国教会やピューリタンの牧会に関する著作では、教区(地域)の聖職者を尊敬を込めて「パーソンズ/parsons」または 「パスターズ/pastors」と呼んでいました。
George Herbert, The Country Parson and the Temple (Mahwah, NJ: Paulist Press, 1981).
Richard Baxter, The Reformed Pastor (Lafayette, IN: Sovereign Grace Trust Fund, 2000). - Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 116.
「ドイツの宗教改革者もまた中世の用法に忠実で、説教者を『プファラ/Pfarrer』すなわちパゾン/parson(parochia-parishやparochus-parsonに由来)と呼びました。」
ルーテル派の説教者は、米国で牧師と呼ばれていますが、ドイツでは今でもPfarrer (教区長)と呼ばれています。カトリックの司祭からプロテスタントの牧師へと徐々に移行していったことを考えると、人々が新しいプロテスタントの説教者を司祭のような古いカトリックの呼称で呼ぶことは珍しいことではありませんでした。
- 「pastor(牧師)」という言葉は、教父たちの時代から神学文献に登場しています。言葉の選択は、強調したい機能によって変わりました。牧師(pastor)は道徳的・霊的な方法で指導し、司祭(priest)は聖礼典を執り行いました。それでも、「牧師」という言葉が一般信徒の口に上るようになったのは宗教改革以後のことでした。
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 116.
「司祭(priest)」という言葉はカトリックと聖公会の伝統に属し、「牧師(ミニスター/minister)」という言葉は改革派、「牧師(パスター/pastor)」という言葉はルター派と福音派の伝統に属しています(p.viii)。宗教改革者は牧師(ミニスター)を「牧師(パスター)」として説明していましたが、多くの場合は「説教者(preacher)」と呼ばれていました。その後「牧師(パスター)」という言葉は、キリスト教においてこの役職を指す言葉として主流となりました。これは、「ハイ・チャーチ」の語彙から距離を置こうとするこれらのグループが主流になってきたためです。「牧師(ミニスター)」という用語は、非英国国教徒(Nonconformists)と英国国教会反対者(Dissenters)によって英語圏に徐々に導入されました。彼らは、プロテスタントの「ミニストリー(教会の働き)」を、英国国教会の聖職者と区別したいと望んだのです。
- Calvin, Institutes of the Christian Religion, IV: 3:2, p.1055.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 138.
- 「彼(カルヴァン)の宣教のモデルは、厳密には使徒時代の教会ではなく、むしろ2世紀初頭の教会を起源とした。使徒時代には、各地域にあったクリスチャンの共同体は、一人の牧会者ではなく、長老や監督と呼ばれる代替できる責任者によって管理されていた。イグナティオスの書簡にあるように、クリスチャンの共同体に一人の監督(司教)または牧者が存在するようになったのは、2世紀になってからであった。カルヴァンが目標としたのは、この2世紀初頭の教会におけるミニストリー従事者を発展させたものだった。」
Mackinnon, Calvin and the Reformation, 81-82.
- ジェームズ H. ニコルズは、このように述べています。「宗教改革者たちは、牧師や司教によって信徒を礼拝に導く制度化されたミニストリーという2世紀の制度を受け入れた。彼らは使徒の時代に戻ろうとはしなかったのである。」
James H. Nichols, Corporate Worship, 21. - Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 111.
- Calvin, Institutes of the Christian Religion, IV: 1:9, p.1023.
- John H. Yoder, “The Fullness of Christ,” Concern 17 (1969): 71.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 131, 133, 135;
“Powerful Preaching: A Sample of How Luther Could Bring Bible Characters to Life,” Christian History 12, no. 3 (1993): 27.
ルターの説教は粗削りで、力強く、ドラマチックでした。彼は尊大な態度になることなく、説教の中でありのままの自分自身を伝えることができました。彼は貪欲な説教者で、推定4,000回の説教を行いました。彼の説教は畏怖の念を起こさせ、詩的で創造的でした。
ツヴィングリは直接的で自然な説教を行いましたが、知的すぎると評価されました。
カルヴァンは、聖句を徹底的に説き明かすという点では一貫していましたが、常に非人間的でした。
ブツァーは長々とした、とりとめのない話が好きでした。
それでも、初期のプロテスタントの説教は非常に教条主義的で、「正しく純粋な教義」にこだわっていました。こういうわけで、宗教改革の説教者は常に聖書の教師だったのです。
- Hall, Faithful Shepherd, 8.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 112.
宗教改革者たちは、司祭(priest)を牧師(minister)という言葉に置き換えただけでした。
Jones, Historical Approach to Evangelical Worship, 141. - A. Gerrish, “Priesthood and Ministry in the Theology of Luther,” Church History 34 (1965), 404-422.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 114-115.
- Althaus, Theology of Martin Luther, 326.
- “Concerning the Ordering of Divine Worship in the Congregation,” Works of Martin Luther, C. M. Jacobs, ed. (Philadelphia: Muhlenberg Press, 1932), VI, 60.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 114.
- Luther’s Works, 29:224.
- John T. McNeill, A History of the Cure of Souls (New York: Harper and Row, 1951).
- ナジアンゾスのグレゴリオス、クリュソストモス、アウグスティヌス、グレゴリウス1世は、「魂のいやし」について多くのことを書いています。
McNeill, History of the Cure of Souls, 100.
AD591年、グレゴリウス1世は『The Book of Pastoral Rule(牧会規定書)』という牧会者向けの論考を書きました。この著作は今日でも神学校で使われており、ナジアンゾスのグレゴリオスに負うところが大きいものです(p.109)。グレゴリウス1世は、他のどの教皇よりも西方教会の牧者としての働きをしました。
- McNeill, History of the Cure of Souls, 108.
ナジアンゾスのグレゴリオスは、AD362年に書かれた自著『Second Oration』の中で、これらのことを明確に述べています。 - McNeill, History of the Cure of Souls, 177.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 136.
1550年、牧師は少なくとも年に一度は各家庭を訪問すべきとの命令が発布されました。 - この本(※Bucer, True Care of the Souls, 1538)はドイツ語版とラテン語版で出版されました。
McNeill, History of the Cure of Souls, 177. - Viola, Reimagining Church.
人間のいやしは、クリスチャンの共同体におけるつながりによってもたらされます。
Larry Crabb, Connecting: Healing Ourselves and Our Relationships (Nashville: W Publishing, 2004). - 多くの改革派教会では、「教える」長老と「治める」長老を区別しています。教職長老は伝統的な監督(司教)や牧師の立場にあり、治める長老は管理と訓練を担当します。このような教会政治の形態はヨーロッパからニューイングランドにもたらされました。
Hall, Faithful Shepherd, 95.
やがて、この役職が不人気であったため、治める長老は廃止され、教える長老だけが残りました。これは18世紀から19世紀にかけてのバプテスト教会でも同様でした。これらの教会では、一人の「牧師」を支えるだけの経済的な余裕がないことがしばしばありました。このようにして19世紀の終わりには、福音主義教会は「単独牧師」の伝統を採用しました。つまり、福音主義教会の単独牧師制は、改革派の伝統における複数長老制から発展した結果なのです。
Mark Dever, A Display of God’s Glory (Washington, DC: Center for Church Reform, 2001), 20;
R. E. H. Uprichard, “The Eldership in Martin Bucer and John Calvin,” Irish Biblical Studies Journal (June 18, 1996): 149, 154.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 114.
いわゆる「信徒説教者」は、18世紀の福音主義リバイバルから生まれました(p.206)。 - Kevin Giles, Patterns of Ministry among the First Christians (New York: HarperCollins, 1991), 195-196.
- この悲劇を聖書の中の言葉として表現するなら、「もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。」(第一コリント12:19)ということになるでしょう。
- Davies, New Westminster Dictionary of Liturgy, 292.
- この点において(しかし多くの人々が考えることに反して)、キリストの体の中の牧師の機能は 「小脳、つまり脳からの指令を伝達し、機能を調整し、頭と体の間で応答を行うための中枢」ではありません。「頭から体に真理を伝達する権威」のために召されているのでもありません。また、「頭からの指令を正確に体へ伝達する部位」でもないのです。
以下の記事では、牧師はこのように誇張された言葉で表現されていました。
David L. McKenna’s “The Ministry’s Gordian Knot,” Leadership (Winter 1980) 50-51.
- エペソ3:8-11。この目的についての詳細な議論は、フランクの著書『From Eternity to Here』を参照。
- The Barna Group, “A Profile of Protestant Pastors,” The Barna Update (September 25, 2001), (https://www.barna.com/).
これらの教会の半数は、アクティブな教会員数が100人未満です。
Larry Witham, “Flocks in Need of Shepherds,” The Washington Times (July 2, 2001). - H. B. London and Neil B. Wiseman, Pastors at Risk (Wheaton, IL: Victor Books, 1993);
“Is the Pastor’s Family Safe at Home?” Leadership (Fall 1992);
Physician Magazine (September/October 1999), 22;
The Barna Group, “Pastors Feel Confident in Ministry, but Many Struggle in Their Interaction with Others,” The Barna Update (July 10, 2006). https://www.barna.com/
- 「Focus on the Family牧師の集い」からの調査集計。
- Fuller Institute of Church Growth (Pasadena: Fuller Theological Seminary, 1991).
- Witham, “Flocks in Need of Shepherds.”
- Vantage Point, Denver Seminary (June 1998), 2.
- The Barna Group, “A Profile of Protestant Pastors,” The Barna Update (September 25, 2001).
牧師が兼務する働きには以下のものがあります。ビジョンの提示、指導者の選定及び訓練、説教と教育、資金集め、困窮者への奉仕、戦略と企画の提示、教会の活動やプログラムの企画・組織、すべての管理運営の監督、スタッフとボランティアの管理、信徒間の対立の解決、地域社会でクリスチャンの代表となること、信徒のケアとカウンセリングの提供、救われていない人々への伝道、聖礼典の管理、個人の弟子訓練など。 - 『The Christian Citizen』(November 2000)によると、毎月1400人の牧師が牧師職を離れているとのこと。同じようにワシントン・タイムズ紙は、アメリカを覆っている「聖職者の危機」について、ラリー・ウィザムによる5回にわたる連載記事を掲載しました。ウィザムはこう報告しています:この国のキリスト教教職者に、若い世代はほとんどいません。35歳以下は8%に過ぎません。全米237の神学校に在籍する7万人の学生のうち、牧師として教会を率いたいと思っているのはわずか3分の1です。牧師職には、より多くの高齢の候補者が集まります。同様に、聖職者不足はカナダのほとんどの主流派プロテスタント教会を直撃しています。「群れのために牧会することは個人的に豊かなことかもしれませんが、神学者・カウンセラー・講演者・管理者・共同体のまとめ役としての期待に、経済的報酬が少ない中、一人で応えることは気の遠くなるほど大変なことです。」(※キリスト教国ではない日本では、もちろんこれより困難な状況にあります。)
Douglas Todd, “Canada’s Congregations Facing Clergy Shortage,” Christian Century (October 10, 2001), 13. - 1984年から2006年にかけてThe Barna Groupが実施した牧師世論調査によるデータ。
- 私(フランク)は、ある牧師向け資料集の宣伝で次のような文章を読んだことがあります: 「人間は日の出から日没まで働きますが、牧師の仕事は決して終わりません。それは彼が、牧師・教師・カウンセラー・管理者やワーシップ・リーダーとして働き、そして時には家具の修理など様々な働きをしなければならないからです。これらの働きのいくつかに手を貸してほしい牧師のために、あなたの助けとなるリソースを私たちは持っています。」
- 現代の牧師職の心理的重圧については、次の本を参照。
Welton Gaddy, A Soul Under Siege: Surviving Clergy Depression (Philadelphia: Westminster, 1991). - Larry Burkett, “First-Class Christians, Second-Class Citizens,” East Hillsborough Christian Voice (February 2002), 3.
- すべての牧師がこの役割を果たしているわけではありません。しかし、この信じられないような心理的重圧に抵抗できる牧師はほんのわずかであり、例外中の例外です。
- 驚くべきことに、プロテスタントの教職者の23%が少なくとも一度は解雇され、41%の教会が少なくとも2人の牧師を解雇した経験を持っています。
Lloyd Rediger, Clergy Killers: Guidance for Pastors and Congregations Under Attack (Philadelphia: Westminster/John Knox, 1997).
- J. Grant Swank, “Preventing Clergy Burnout,” Ministry (November 1998), 20.
- Larry Yeagley, “The Lonely Pastor,” Ministry (September 2001), 28;
Michael L. Hill and Sharon P. Hill, The Healing of a Warrior: A Protocol for the Prevention and Restoration of Ministers Engaging in Destructive Behavior (Cyberbook, 2000). - 例えば 「互に愛し合う」(ローマ13:8)、「互にいたわり合う」(第一コリント12:25)、「互に仕えなさい」(ガラテヤ5:13)、「互の徳を高める」(ローマ14:19)、「互に忍びあい」(エペソ4:2)、「互に励まし合いなさい」(ヘブル3:13)など。
- 『Searching Together 』23, no.4 (Winter 1995)が、この問題について詳しく論じています。
- Eugene F. A. King, Johann Gerhard in Church Ministry (St. Louis: Concordia Publishing House, 1993), 181.
- ミルトン/Miltonの1653年の詩 「On the New Forcers of Conscience under the Long Parliament」より。
第6章:日曜朝の衣装~問題を隠すための衣
- ヴィンヤード(Vinyard )のような教派は例外です。このような新教派は、礼拝の前にコーヒーとドーナツが提供されるようなカジュアルな礼拝会を行なっています。ヴィンヤード・チャーチの礼拝では、短パンとTシャツが一般的な服装です。アメリカのプロテスタント教会の32万人の信徒のほとんどは、日曜日の朝に教会で「着飾って」います。プロテスタント以外のクリスチャンが教会でおしゃれをしている数を加えると、その数は天文学的な数字になります。
- 教会での礼拝のために「きちんとした」服装をするようになったのは、3世紀頃にさかのぼります。アレクサンドリアのクレメンス(150-215年)はこのように言っています: 「女も男も、きちんとした服装で、自然な足取りで、沈黙を守って教会に行きなさい。女性は、家にいるとき以外は、全身を覆うようにしなさい。」
Clement of Alexandria, “Going to Church,” The Instructor, bk. 3. ch. 11. - Max Barsis, The Common Man through the Centuries (New York: Unger, 1973).
- Leigh Eric Schmidt, “A Church Going People Is a Dress-Loving People,” Church History (58), 38-39.
- Leigh Eric Schmidt, “A Church Going People Is a Dress-Loving People,” Church History (58), 38-39.
- ジェームズ・ハーグリーヴス/Jemes Hargreavesが1764年に「ジェニー紡績機(spinning jenny)」を発明し、大衆にも手の届く、より上質で色彩豊かな衣服を生み出しました。
Elizabeth Ewing, Everyday Dress 1650-1900 (London: Batsford, 1984), 56-57.
- Bushman, Refinement of America, 313.
- Henry Warner Bowden and P. C. Kemeny, eds., American Church History: A Reader (Nashville: Abingdon Press, 1971), 87-89.
植民地時代のアメリカでは、服装と身分は密接に結びついていました。1722年にフィラデルフィアで匿名で出版されたパンフレット『The Miraculous Power of Clothes, and Dignity of the Taylors: Being an Essay on the Words, Clothes Make Men 』というタイトルの小冊子は、次のようなことを示唆しています:社会的身分・地位・権力は服装によって示され、表現され、維持された。植民地社会における服装と身分の結びつきは、服装に象徴的な力を与えた。このような考え方は、やがてキリスト教会にも浸透していった。 - Rupert Davies, A History of the Methodist Church in Great Britain (London: Epworth, 1965), 193;
Nehemiah Curnock, ed., Journals of Wesley (London: Epworth Press, 1965), 193.
ウェスレーの衣服に関する教えは、「平易さの福音(a gospel of plainness)」と呼ばれました。彼の主なメッセージは、クリスチャンは質素で、整えられ、シンプルな服装をすべきであるというものでした。ウェスレーはこのテーマについて頻繁に語っていたため、「清潔さは敬虔さに次ぐ(Cleanliness is next to godliness)」という言葉を作ったと言われています。しかし、この言葉はユダヤ教のラビから借用した表現でした。
Phinehas Ben-Yair, Song of Songs, Midrash Rabbah, I.1:9. - Davies, History of the Methodist Church, 197.
- Schmidt, “A Church Going People Is a Dress-Loving People,” 40.
- Bushman, Refinement of America, 335, 352.
- Bushman, Refinement of America, 350.
裕福な教会員が増えてきた教派(米国聖公会/監督派教会[Episcopal]、ユニテリアンなど)は、豪華な教会堂建築の資金を獲得するため、裕福な家族に会衆席の販売を始めました。「会衆席の費用に加えて、礼拝参加者は建物の豪華さに見合った服を着なければならなくなり、会衆の身なりは多くの人にとって乗り越えられない障壁となった。その100年前には、普通の農民が青いチェックのシャツを着て教会に行くことができていた。新しい美しい教会の上品な雰囲気では、それ以上のものが求められたのである。」
- Bushman, Refinement of America, 328, 331.
- Bushman, Refinement of America, 350.
- Schmidt, “A Church Going People Is a Dress-Loving People,” 36.
- Bushman, Refinement of America, 319.
シュミットはこう書いています。「初期のメソジストたちは、華やかな服装が敵であることを知っていた。しかし今や、その敵が勝ってしまった。」「人々は安息日に…最高の服装で身を包もうとしていた。日曜日の晴れ着はすでによく知られたものとなっていた。平服にこだわっているはずの敬虔主義者や福音主義者でさえも、自分の体が重々しくきちんとした服装になっていることを確認するようになった。」
Schmidt, “A Church Going People Is a Dress-Loving People,” 451.
- 神は心を見ておられるのであって、私たちが着ている服装に感動されるのではありません(サムエル上16:7、ルカ11:39、第一ペテロ3:3-5)。私たちの礼拝は霊によるのであって、表面的な形によるのではありません(ヨハネ4:20-24)。
- Christian Smith, “Our Dressed Up Selves,” Voices in the Wilderness (September/October, 1987), 2.
- 著書の中で、グレイドン・スナイダーは、コンスタンティヌス以前のクリスチャンによって書かれた現存する書簡が約30通あると述べています。
Graydon Snyder, Ante Pacem: Archaeological Evidence of Church Life Before Constantine.
これらの手紙によると、クリスチャンは通常、社会的地位を示す一般的な家名(姓)を使っていませんでした。また、彼らはお互いを 「兄弟」や「姉妹」と呼び合っていました。
グレイドン・スナイダーからフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2001年10月12日と14日、および2007年7月10日。 - 初期のクリスチャンたちは、自分たちを、あらゆる自然的な隔たりや障壁を超越した、新しい創造物、新しい人類、新しい種と見なしていました(第一コリント10:32、第二コリント5:17、ガラテヤ3:28。エペソ2:15、コロサイ3:11)。
- ヤコブ2:1-7。この箇所もまた、教会の集会に着飾った服を着て行く人は例外的であったことを示唆しています。
- 申命記4:2、箴言30:6、黙示録22:18。
- The Catholic Encyclopedia1913 On-Line Edition(カトリック百科事典オンライン版), s.v. “Vestments,”
Encyclopedia Britannica Online(ブリタニカ・オンライン), s.v. “Sacred Rights Ceremonies: The Concept and Forms of Ritual: Christianity” (1994,1998).
コンスタンティヌス以前の聖職者は、聖餐式を司式する際に上質な素材のマントを着用していました。 - 『The Catholic Encyclopedia(カトリック百科事典オンライン版)』の「Vestments(祭服)」「origin(起源)」の項目にはこうあります: 「キリスト教の祭服は旧約聖書の祭司の服装に起源を持つものではなく、むしろ、ギリシア・ローマ世界の世俗的な服装から発展したものである。」
マヨはこう書いています。「教会の祭服を考察すれば、それが世俗的なローマの服装に起源を持つことがわかります。祭服がレビ人の祭司服(エポデ)に由来するという見解は、後世の考えです。」
Janet Mayo, A History of Ecclesiastical Dress (New York: Holmes & Meier Publishers, 1984), 11-12.
宗教衣装の貴重な歴史については、以下の本を参照。
Amelia Mott Gummere, The Quaker: A Study in Costume (Philadelphia: Ferris and Leach, 1901.
旧約聖書における祭司職の衣服は、キリスト・イエスにおいてクリスチャンがまとっている霊的な服の型であり、影であったことに注意してください(ヘブル10:1、コロサイ2:16-17、3:10-14、エペソ4:24、第一ペテロ5:5、黙示録19:8)。 - “On Clothes,” The Instructor, bk. 3, ch. 11.
- “On Clothes,” The Instructor, bk. 2, ch. 11;
Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 15. - Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 14-15.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 14-15.
Latourette, A History of Christianity, 211;
Brauer, The Westminster Dictionary of Church History (Philadelphia: The Westminster Press, 1971), 284. - 「司教の服装は古代ローマの判事の衣装であった。」
Hatch, Organization of the Early Christian Churches, 164.
司教の服装は教会に特定の階級が存在することを表していました。その服装には、白い縁のついた布あるいはマプラ/mappula(※司祭が左腕に持つハンカチのような布)、平らな黒いスリッパまたはカンパ―ジ/campagi(※サンダルの一種)、白いストッキングあるいはウドワズ/udones(※靴下の一種)が含まれていました。これらはローマ帝国の判事が身に着けていた服装でした。
Johnson, A History of Christianity, 133. - Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 41;
“Sacred Rights Ceremonies,” Encyclopedia Britannica Online(ブリタニカ・オンライン). - ヴァンダービルト大学の教会史・神学教授ユージン A. テセル/Eugene TeSelle からフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2000年1月18日。
- Mayo, History of Ecclesiastical Dress, 15;
Jones, Historical Approach to Evangelical Worship, 117. - ヒエロニムスは、「司教が普段より見栄えよく、白いチュニックを着れば、神は栄光を受けられる」と述べています。
典礼学者フランク・セン/Frank Sennからフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2000年7月18日。
Jerome, “Against Jovinianus” bk. 2.34 (Nicene and Post-Nicene Fathers, series 2, vol. 6)
Jerome, “Lives of Illustrious Men,” ch. 2 (Nicene and Post-Nicene Fathers, series 2, vol. 3). - Collins and Price, The Story of Christianity, 25, 65.
- Jones, Historical Approach to Evangelical Worship, 116-117.
マヨの著書『A History of Ecclesiastical Dress』は、各教派の伝統における祭司服の各部分の発展について詳しく述べています。最初の1000年間は特徴的な頭飾りは着用されず、ガードルは8世紀まで使われていませんでした。
Elias Benjamin Sanford, ed., A Concise Cyclopedia of Religious Knowledge (New York: Charles L. Webster & Company, 1890), 943. - Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 27;
ペルシウムのイシドール(440年頃没)は、祭服の部分に象徴的な解釈を最初に付与した人物でした。司祭の衣服全体が象徴的な意味を持つようになったのは、西洋では8世紀頃、東洋では9世紀頃です。
The Catholic Encyclopedia(カトリック百科事典オンライン版),s.v. “Vestments,”
象徴主義を愛した中世の人々は、すべての祭司服に宗教的・霊的な意味を付与せずにはいられませんでした。今日でも、儀式的な教会ではこれらの象徴的な意味が用いられています。 - Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 41.
祭服・聖具室(The vestry)は教会堂の特別な部屋で、聖職者の祭司服や聖具が保管されていました。 - Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 27.
- Collins and Price, Story of Christianity, 25, 65.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 64.
ツヴィングリとルターはカトリック司祭の服装をすぐに廃止しました。
Hall, Faithful Shepherd, 6. - ツヴィングリは1523年秋、チューリッヒで学者ガウンを最初に導入。ルターは1524年10月9日の午後から着用し始めました。
Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 147.
George Marsden, The Soul of the American University: From Protestant Establishment to Established Nonbelief (New York: Oxford University Press, 1994), 37. - H. I. Marrou, A History of Education in Antiquity (New York: Sheed and Ward, 1956), 206.
「哲学者は、短くて黒っぽく、粗い布でできたマントで見分けることができた。」
Smith, From Christ to Constantine, 105. - Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 147.
黒いガウンは16世紀には「聖職者の街着」でした。
Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 42. - Chadwick, Reformation, 422-423.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 66.
- Bowden and Kemeny, American Church History, 89.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 77-78.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 118.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 94.
- Mayo, A History of Ecclesiastical Dress, 94, 118.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 164.
ロンドン・タイムズ紙(2002年3月14日)によると、聖職者の襟はグラスゴーのドナルド・マクラウド/Donald McLeod牧師が考案したものでした。俗説ではこの聖職者の襟は、カトリックの反宗教改革によって、プロテスタントの牧師が着用していたような大きなひだ襟を司祭が着用するのを防ぐために考案された、とされています。
Chadwick, The Reformation, 423.
しかし、実際にこの襟が考案されたのは、反宗教改革運動よりもずっと後のことだったようです。 - ルカ7:25、第二コリント8:9。
イエスが地上にいた時に持っていた最も良い服は、あざける目的のために与えられたものでした(ルカ23:11)。神の御子がこの地上に来られた時にまとわれたのは、王の衣服ではなく、おくるみの布だったことを思い出してください(ルカ2:7)。バプテスマのヨハネは、自分の衣服によって神に感銘を与えようとしなかった人々の最も極端な例でした(マタイ3:4)。 - マタイ23:5、マルコ12:38。
第7章:賛美担当牧師~音楽に特化した聖職者
- エペソ5:19、コロサイ3:16。これらの箇所では、「語り合い」「互いに」という言葉が使われています。
- Liemohn, The Organ and Choir in Protestant Worship, 8.
- ギリシア人は、異教礼拝のために訓練された合唱隊を持っていました。
H. W. Parke, The Oracles of Apollo in Asia Minor (London: Croom Helm, 1985), 102-103.
ギリシア劇は、悲劇も喜劇もオーケストラの伴奏でした。
Marion Bauer and Ethel Peyser, How Music Grew (New York: G. P. Putnam’s Sons, 1939), 36, 45;
Elizabeth Rogers, Music through the Ages (New York: G. P. Putnam Sons, 1967), 87;
Carl Shaulk, Key Words in Church Music (St. Louis: Concordia Publishing House, 1978), 64;
Quasten, Music and Worship in Pagan and Christian Antiquity, 76;
Alfred Sendrey, Music in the Social and Religious Life of Antiquity (Rutherford, NJ: Fairleigh Dickinson University Press, 1974), 327, 412.
ギリシアの合唱隊には、通常15人から24人のメンバーがいました。
Claude Calame, Choruses of Young Women in Ancient Greece (Lanham, MD: Rowman & Littlefield, 2001), 21.
クリスチャンがユダヤ教のシナゴーグから聖歌隊と聖歌を受け継いだ、と主張しようとする人もいます。しかし、3~4世紀のクリスチャンがユダヤ教から流用したものはほとんどないので、これは非常に考えにくいことです。その代わりに、彼らは周囲のギリシア・ローマ文化から多くを学びました。興味深いことに、ギリシア音楽の起源はオリエントと小アジアでした。
Rogers, Music through the Ages, 95.
- Durant, Age of Faith, 1027.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 8-9.
4世紀まで、会衆による賛美はキリスト教礼拝の特徴的な要素でした。 - Edward Dickinson, The Study of the History of Music (New York: Charles Scribner’s Sons, 1905), 16, 24.
- Bauer and Peyser, How Music Grew, 71-72.
- Rogers, Music through the Ages, 108.
ラオディキア公会議(AD367年頃)は、教会で正統な歌い手以外の者が歌うことを禁じました。この行為は、歌の質をより均質なものとし、礼拝を指揮する者が統制できるようにするためでした。
Davies, The New Westminster Dictionary of Liturgy, 131;
Arthur Mees, Choirs and Choral Music (New York: Greenwood Press, 1969), 25-26. - アンブロシウスの賛美歌は正統派のものでした。アリウス派も賛美歌を多用し、イエスに関する自分たちの異端的な教えを広めました(アリウス派は、イエスは神によって創造された被造物であると信じていました)。
- Bauer and Peyser, How Music Grew, 71.
「ギリシアの音楽体系は、初期キリスト教会の音楽体系の先駆けであり、その系譜はギリシアからローマを経て、中世そして現代へと連綿と継承されてきた。」
Dickinson, The Study of the History of Music, 9.
実際には、残存するキリスト教賛美歌の最古の文書はAD200年頃のものです。アンブロシウスがなしたのは、賛美歌作りを教会の一般的な習慣にすることでした。この時期のキリスト教音楽は、ギリシア語のポピュラーな作風を利用していました。
Barry Leisch, The New Worship: Straight Talk on Music and the Church (Grand Rapids: Baker Book House, 1996). 35. - Rogers, Music through the Ages, 106.
- Bauer and Peyser, How Music Grew, 70;
Rogers, Music through the Ages, 61.
「(シュメールの)各神殿では、独唱と応答(司祭と聖歌隊の間)とアンティフォニー(聖歌隊と聖歌隊の間)の技法で唱えられる、よく組織化された典礼が行われていたことがわかっている。」
Dickinson, The Study of the History of Music, 25. - Dickinson, Study of the History of Music, 18.
- Rogers, Music through the Ages, 109;
Andrew Wilson-Dickson, The Story of Christian Music (Oxford: Lion Publications, 1992), 43;
Appleby, History of Church Music, 28. - Bauer and Peyser, How Music Grew, 73-75;
Rogers, Music through the Ages, 109.
この時代の賛美はすべて無楽器で行われていました。 - Dickinson, Study of the History of Music, 14.
- The Catholic Encyclopedia(カトリック百科事典オンライン版), s.v. “Choir,”
Shaulk, Key Words in Church Music, 64-65.
Iris V. Cully and Kendig Brubaker Cully, eds., Harper’s Encyclopedia of Religious Education, s.v. “Choir” (San Francisco: Harper & Row Publishers, 1971).
- https://www.bach-cantatas.com/Bio/Wiener-Sangerknaben.htm
女声合唱の異教的起源については以下を参照。
Quasten, Music and Worship in Pagan and Christian Antiquity, 77-86.
- Parke, Oracles of Apollo in Asia Minor, 102-103;
Quasten, Music and Worship, 87~.
「異教の文化では礼拝に少年合唱団が頻繁に用いられました。祝祭の際には特に多用されていました。」 - Quasten, Music and Worship, 87.
- Quasten, Music and Worship, 86, 160~.
- Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 41.
センはまた、ローマ時代の結婚制度の慣習がキリスト教の結婚式にどのように取り入れられたかを説明しています。 - Quasten, Music and Worship, 163.
- Quasten, Music and Worship, 164-165.
- 本書第3章を参照。
- MacMullen, Christianizing the Roman Empire, 11-13.
- Jones, A Historical Approach to Evangelical Worship, 257.
フス派は1505年にプラハで最初のプロテスタント賛美歌集を作成しました。
Terry, Evangelism: A Concise History, 68.
- Jones, A Historical Approach to Evangelical Worship, 257.
ルターの時代には、約60冊の賛美歌集が出版されました。より具体的には、ルターは典礼の一部として会衆の歌を増やしたのです。彼は、町や大学で聖歌隊が歌うラテン語ミサと、村や農村で信徒が歌うドイツ語ミサを残しました。この2つのモデルは、16世紀から18世紀にかけてルター派の実践の中で融合されました。
改革派は合唱曲と会衆賛美歌の両方に反対しました。彼らが承認したのは、韻律詩篇やカンティクル(※聖書の言葉をそのまま用いた賛歌)を歌うことだけでした。彼らから見れば、合唱と賛美歌はローマ的なものだったのです。ですから、ルター派がこれらを使用することは、中途半端な改革だったとされています。
フランク・センからフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2000年11月18日。
- Jones, A Historical Approach to Evangelical Worship, 257.
アイザック・ワッツ、ジョン・ウェスレー、チャールズ・ウェスレーの賛美歌は、この時期、ヨーロッパ、アメリカ両大陸のすべての自由教会を席巻しました。 - Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 15.
ジョン F. ホワイトは、「今日に至るまで、プロテスタントの礼拝における聖歌隊の機能が正確には何であるのか、かなりの疑問が残っており、プロテスタント教会に聖歌隊が存在する正当な根拠は一つもない」と述べています。
John F. White, Protestant Worship and Church Architecture, 186. - Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 15-16.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 19.
17世紀には、オルガンは会衆のユニゾンの歌声に逆らってパートを演奏し、人々の声をかき消してしまいました。ジュネーブの教会では、オルガンの音によって礼拝が人々から奪われるのを嫌って、教会堂からオルガンを撤去しました。
Wilson-Dickson, Story of Christian Music, 62, 76-77.
Bushman, The Refinement of America, 336-337. - Ferguson, Early Christians Speak, 157.
- アレクサンドリアのクレメンス(3世紀)、アンブロシウス、アウグスティヌス、ヒエロニムス(4~5世紀)のような教父たちはすべて、礼拝で楽器を使用することに反対しました。後にカルヴァンがそうであったように、彼らは楽器を異教の儀式やローマの劇場と結びつけていたからです。
Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 2.
Quasten, Music and Worship, 64. - Ferguson, Early Christians Speak, 157.
- Jones, A Historical Approach to Evangelical Worship, 255-256.
1522年に出版された『ジュネーブ詩篇歌 (The Genevan Psalter)』は、200年以上にわたってヨーロッパとアメリカの改革派教会の標準的な賛美歌集でした。 - Jones, A Historical Approach to Evangelical Worship, 256.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 4.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 3.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 3, 32-33.
ウェスレー派は1796年にオルガンを禁止し、礼拝における唯一の認められている楽器としてバス・ビオラを好みました。しかし、その12年後にウェスレー派の教会堂にオルガンが設置されました(p. 91-92)。ルター派において、オルガンは礼拝に欠かせないものとなりました。皮肉なことに、ルター派のオルガン音楽の伝統は、17世紀初頭にヤン・ピーテルスゾーン・スヴェーリンク/Jan Pieterszoon Sweelinckというオランダのカルヴァン主義者によって築き上げられました。
Senn, Christian Liturgy, 534. - この教会は、ニューヨークにあるトリニティ教会 (Trinity Church)です。米国で最初に使用されたオルガンに関しては以下を参照。
Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 110-111. - Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 113.
White, Protestant Worship and Church Architecture, 110. - Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 115.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 125.
ニュージャージー州フレミントンのファースト・プレスビテリアン教会は、最初に少年少女聖歌隊を組織した教会として知られています。 - Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 125.
- Senn, Christian Liturgy, 490.
- Liemohn, Organ and Choir in Protestant Worship, 127,
Wilson-Dickson, Story of Christian Music, 137. - Senn, Christian Worship and Its Cultural Setting, 49.
- A. Madeley Richardson, Church Music (London: Longmans, Green, & Co., 1910), 57.
- ヴィンヤード、カルバリーチャペル、ホープチャペルのようなグループは、この種の教会の大半を占めています。しかし、多くの他教派や超教派の教会が同じ礼拝スタイルを採用しています。
- 聖書の言葉を用いた賛美の回復は、1970年代のジーザス・ムーブメントによってもたらされました。(※ジーザス・ムーブメントとは、反体制的なヒッピーの中に現れたキリスト教の主要要素、あるいは、キリスト教会の中におけるヒッピー的な要素。)
David Kopp, Praying the Bible for Your Life (Colorado Springs: Waterbrook Press, 1999), 6-7. - これは、ベビーブーマー世代の自己注目の傾向と完全に一致します。
- コンテンポラリー・クリスチャン・ミュージック(CCM)の出現以来、キリスト教会を 「伝統的な賛美歌を好む人々」と「コンテンポラリー・ミュージックを好む人々」に二分する「ワーシップ戦争」が勃発しました。礼拝でどのような音楽を使うかで、真っ二つに分かれてしまった教会も少なくありません。現代音楽対伝統音楽は、現代の教会を悩ませている新たな党派主義を、細部までゆきわたらせる源となっています。
- Michael S. Hamilton, “The Triumph of Praise Songs: How Guitars Beat Out the Organ in the Worship Wars,” Christianity Today (July 12, 1999).
- Donald E. Miller, Reinventing American Protestantism (Berkeley: University of Berkeley Press, 1997), 65, 83.
- Donald E. Miller, Reinventing American Protestantism, 19, 46-52, 84.
- 才能ある音楽家が、聴衆を励ましたり指導したり鼓舞したり、あるいは楽しませたりするために演奏することに、全く問題はありません。しかしそれは、教会全体に属している賛美と礼拝のミニストリーと混同してはならないのです。(※賛美の働きは誰にも独占されるべきものではなく、全会衆に与えられている働きなのです。)
- 私(フランク)は、クリスチャンのグループがどのように自分たちの歌をリードし、自分たちの歌を作ることができるかを、著書『Finding Organic Church』の中で実践的に説明しています。
- エペソ5:19とコロサイ3:16は、初代教会のクリスチャンたちが行なっていた共同体としての賛美のあり方について、うまく捉えています。
第8章:什一献金(十分の一献金)と聖職者の給与~教会のふところ事情
- 旧約聖書では、「十分の一のささげ物(tithe)」を意味するヘブライ語は「マーアセル/מעשר/maaser」で、十分の一を意味します。新約聖書では、ギリシア語で「デカテイ/δεκάτης/dekate」と言い、これも十分の一を意味します。この言葉は宗教の世界ではなく、数学と金融の用語から取られたものです。
- レビ記 27:30-33、民数記 18:21-31。
- 申命記14:22-27。これは 「祭りの十分の一」と呼ばれることもあります。
- 申命記14:28-29、26:12-13。ユダヤの歴史家ヨセフスや他の学者たちは、これは第二番目の「十分の一のささげ物」とは異なる意味で用いられた、第三の「十分の一のささげ物」であると考えています。
Stuart Murray, Beyond Tithing (Carlisle, UK: Paternoster Press, 2000), 76, 90.
“What Is a Tithe?” Questions about Tithing, Generous Giving. - 毎年20%、さらに3年ごとに10%なので年間23.3%となります。 神さまは3種類のささげ物を全てささげるよう命じておられます。(ネヘミヤ12:44、マラキ3:8-12、ヘブル7:5)
- コロサイ2:13-14, 16-17、ヘブル6-10章も参照。
- これは第二コリント8:3-12、9:5-13から非常に明確です。 献金に関するパウロの言葉はこうです。「神があなたがたに恵みを与えてくださったように、あなたがたの能力と資力に応じてささげなさい。」
- Gough, The Early Christians, 86.
- Justin Martyr, “How We Christians Worship,” Christian History 12, no. 1 (1993): 15.
- ヤコブに関しても同じことが言えます。創世記28:20-22によると、ヤコブは主が与えてくださる十分の一をささげることを誓いました。しかし、アブラハムの十分の一のささげ物のように、ヤコブのささげ物も完全に自発的なものでした。そして、私たちが知る限り、それは生涯続く習慣ではありませんでした。もしヤコブが定期的に十分の一のささげ物を始めたのであれば(これは証明できませんが)、彼は20年経つのを待って(※神の約束が成就するのを体験して)から始めたことになります。スチュアート・マーレイ/Stuart Murrayの言葉を引用すると、「十分の一のささげ物は(アブラハムとヤコブの)物語にとってほとんど付随的なものであり、著者はこの習慣に神学的な意味を与えていない。」
- ある国では納税は法的義務ではないという話もあります。私たちはこれを単なる例示として使っているだけで、それ以上の意味はありません。
- ネヘミヤ12:44, 13:12-13、申命記14:28-29, 26:12。
- 他の信仰者を助けること: 使徒6:1-7、11:27-30、24:17、ローマ15:25-28、第一コリント16:1-4、第二コリント8:1-15、9:1-12、第一テモテ5:3-16。
教会開拓者を支援すること(※「見送る」「送り出す」といった表現には、支援の意味が含まれています): 使徒15:3、ローマ15:23-24、第一コリント9:1-14、16:5-11、第二コリント1:16、ピリピ4:14-18、テトス3:13-14、第三ヨハネ5-8。
財布と心の間には密接な関係があります。マタイ・マルコ・ルカによる福音書では6節に1節の割合でお金について言及されており、新約聖書にある38のたとえ話のうち12がお金に関係しています。 - 3〜4世紀のキリスト教における気前の良さについては、以下を参照。
Kreider, Worship and Evangelism in Pre-Christendom, 20.
また、テルトゥリアヌスのキリスト教の慈愛に関する証言も参照。
Johnson, A History of Christianity, 75,
Tan, Lost Heritage, 51-56. - Tertullian, Apology 39:7;
Robert Wilken, The Christians as the Romans Saw Them (New Haven, CT: University Press, 1984), 79-82. - Cyprian, Epistle 65.1;
Murray, Beyond Tithing, 104. - Murray, Beyond Tithing, 104-105.
Ferguson, The Early Christians Speak, 86. - Murray, Beyond Tithing, 112.
クリソストモスはその著作のいくつかで、貧しい人々への十分の一のささげ物について提唱しています(p. 112-117)。 - Murray, Beyond Tithing, 107.
『Apostolic Constitutions(使徒憲章)』(380年頃)は、旧約聖書のレビ記に基づいた制度から論証して、聖職者のための十分の一のささげ物を支持しています(p. 113-115)。アウグスティヌスは十分の一のささげ物を主張しましたが、規範として提示したわけではありません。実際、アウグスティヌスは、それを支持することが教会の歴史的立場を代表していないことを知っていました。十分の一のささげ物は5世紀には一部の敬虔なクリスチャンによって行われていましたが、決して広く行われていたわけではないのです(p. 117-121)。
- Hatch, Growth of Church Institutions, 102-112.
- Hatch, Growth of Church Institutions, 102.
- Murray, Beyond Tithing, ch. 4-6.
什一献金の歴史的経緯をたどっています。 - Hatch, Growth of Church Institutions, 103.
什一献金が教会用地の使用料の支払いから発展したことは、偽イシドルス法令集(The Presudo-Isodorian Decretals)が証明しています。855年のヴァレンス公会議では、この「法令は、賃料としての十分の一の支払いに関するものであり、教会の土地の賃貸料の管理が緩んでいるように見えるので、すべてのクリスチャンが賃料として献金するよう促した」(p. 104-105)と述べています。
Murray, Beyond Tithing, 138. - Murray, Beyond Tithing, 137.
マレイは、「このようなキリスト教の多くの側面は、聖書的要素と世俗的要素、旧約聖書をモチーフとした慣習とローマ帝国の制度や異教の思想との融合から生まれた」と書いています。 - Murray, Beyond Tithing, 134.
シャルルマーニュは779年と794年に十分の一のささげ物を成文化し、拡大して帝国全体に義務づけました(p. 139)。
Durant, Age of Faith, 764. - Murray, Beyond Tithing, 111, 140.
- 6世紀のガリアでは例外でした。567年のトゥール公会議(The Synod of Tours)によって、什一献金がこの地域で義務づけられました。585年のマコン教会会議(The Synod of Macon)は、十分の一のささげ物を拒否する者は破門に処すと警告しました。キリスト教における献金については、以下を参照。
Kreider, Worship and Evangelism in Pre-Christendom, 34-35.
- Murray, Beyond Tithing, 2, 140.
神学者と法律制定者が什一献金(税)制度の詳細について検討し、策定しました。 - 驚くべきことに、英国国教会は1930年まで什一献金の義務を廃止しませんでした。
Murray, Beyond Tithing, 3-6. - C. B. Hassell, History of the Church of God, from Creation to AD 1885 (Middletown, NY: Gilbert Beebe’s Sons Publishers, 1886), 374-392, 472;
Smith, From Christ to Constantine, 123.
2世紀のモンタノス派たちは指導者に報酬を支払った最初の人たちでしたが、この習慣が広まったのはコンスタンティヌスが現れてからです。
Smith, From Christ to Constantine, 193. - 教職者(牧師)の給与を擁護するために使われている聖書箇所への反論は、フランク・ヴィオラ『Reimagining Church』を参照。
- 什一献金制度の複雑さが見落とされてきたことは言うまでもありません。以下のことについて考えてみてください: 什一献金の額は所得の総額を基準にするのでしょうか、それとも手取り額から換算するのでしょうか? 課税免除はどのように適用されるのでしょうか? マレイは、古代イスラエルで行われていた十分の一のささげ物という聖書のシステムを、現代の私たちの文化に適用しようとする際に、無視されている複雑さを詳しく説明しています。ヨベルの年・安息日・刈り入れ・初穂の制度において、十分の一のささげ物は理にかなっており、国の富を分配するのに役立ちました。今日では、什一献金はしばしば著しい不公正につながります。
Murray, Beyond Tithing, ch. 2. - 什一献金は結局貧しい人々を苦しめてしまうことを、マレイは力強く示しています。
Murray, Beyond Tithing, 8-10, 35-38. - マタイ11:5、ルカ4:18、7:22、第一コリント1:26-29、ヤコブ2:5-6。
- パウロは、およそ14の教会を開拓しました。その全ての教会では、異邦人が多数を占めていました。パウロは、彼らに律法を守るように強制したことはありません(ガラテヤ人への手紙参照)。パウロが開拓した異邦人教会において、什一献金が行われていたという考え方は、「沈黙からの論証(※聖書に書かれていないことによって肯定/否定を判断すること)」によるものです。これは、クリスチャンは律法から自由にされたとするパウロが宣べ伝える福音の本質に反しています。パウロの言葉によれば、誰かが十分の一のささげ物の律法を守ろうとするなら、その人は割礼を含む律法全体を行う義務を負うことになります(ガラテヤ5:3)。
- 使徒20:17-38参照。これはパウロがエペソの長老たちに語った最後の言葉であることを心に留めてください。もう二度と会うことはないだろうと思っていたことを考えると、これは大変重い言葉であることがわかります。(第一テサロニケ2:9、第一ペテロ5:1-2。)
- Simon J. Kistemacher, New Testament Commentary: Acts (Grand Rapids: Baker Book House, 1990), 737, 740;
Rolland Allen, Missionary Methods: St. Paul’s or Ours? (Grand Rapids: Eerdmans, 1962), 50;
Watchman Nee, The Normal Christian Church Life (Anaheim, CA: Living Stream Ministry, 1980), 62-63, 139-143;
R. C. H. Lenski, Interpretation of St Paul’s Epistle to Timothy, Titus, and Philemon (Lenski’s Commentary on the New Testament) (Minneapolis: Augsburg Fortress Press, 1937), 683;
R. C. H. Lenski, Interpretation of St Paul’s Epistle to the Galatians (Lenski’s Commentary on the New Testament) (Minneapolis: Augsburg Fortress Press, 1961), 303-304;
F. F. Bruce, The Book of Acts (Grand Rapids: Eerdmans, 1988), 389, 395. - 新約聖書の長老に関する記述は、彼らが別の職業を持っていたことを明白に述べています。さらに、第一テモテ3:7は、監督となる者は「教会外の人々にもよく思われている人でなければならない」と述べています。このことは、彼らが定期的に世俗の仕事に従事していたことを意味しています。
- エルトン・トゥルーブラッドは、このように述べています。「私たちが大きな一歩を踏み出す機会は、かつて聖書の講読が全てのクリスチャンに開放されたのと同じように、主にある働き(ミニストリー)が全てのクリスチャンに開放されることにあります。これを実現することは、ある意味では新しい宗教改革を始めることであり、別の意味では先の宗教改革の論理的完成を意味します。16世紀に行われた宗教改革では、目指していたことの意味が十分に理解されることも、忠実に完遂されることもなかったからです。」
Elton Trueblood, Your Other Vocation (New York: Harper & Brothers, 1952), 32. - イエスの言葉が思い浮かびます。「あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」(ルカ 11:52)
- ギリシア人は公の場での演説を、稼ぐために行いました。ユダヤ教のラビは弁論術を学びましたが、宗教的な奉仕の対価として金銭を受け取ることはできませんでした。このように考えてみると、現代の説教者は、クリスチャンとしてのパウロでさえ従っていたユダヤ人の習慣ではなく、ギリシア人の慣習を採用しているのです。
- このような影響の数々については、第5章の「牧師が自分自身に与えるダメージ」の項で詳しく述べています。
- 多くの牧師は、専門職として宣教の働きに就くとき、自分が何に巻き込まれ、どのような現実に直面することになるのか、まったく自覚していません。最近、メソジストの牧師を辞めた若い友人がいます。彼は私に言いました。「牧師になるまで、自分がどのような世界に足を踏み入れようとしているのか、全く分かっていませんでした。その結果、妻を深く傷つけることになってしまいました。自分が想像していたのとは全然違っていたんです」。このような言葉を聞いたのはこれが初めてではありません。ユージン・ピーターソン/Eugene Petersonによれば、「アメリカの牧師たちは、右から左へと驚くべき速さで自分の責務を捨てています。教会を去って他の仕事に就いているのではありません。会衆はまだ彼らの給料を支払っています。しかし彼らは、神に与えられた『召し』を捨ててしまっているのです」。
Eugene Peterson, Working the Angles: The Shape of Pastoral Integrity (Grand Rapids: Eerdmans, 1987), 1. - James Gilchrist, Anglican Church Plate (London: The Connoisseur, 1967), 98-101.
初期の献金皿は「施し皿(alms dishes)」と呼ばれていました。銀色の献金皿が教会の備品として普通に使われるようになったのは宗教改革以後のことです。
Michael Clayton, The Collector’s Dictionary of the Silver and Gold of Great Britain and North America (New York: The Word Publishing Company, 1971), 11.
チャールズ・コックス/Charles Coxとアルフレッド・ハーヴェイ/Alfred Harveyによると、施し箱・集金箱・施し皿の使用は、ほとんど宗教改革以降の慣習です。中世の教会堂には、蓋に穴が開けられた施し箱がありました。14世紀に施し皿が登場し、17世紀には献金用のバスケットが執事や教会役員によって回されるようになりました。
J. G. Davies, ed., A New Dictionary of Liturgy and Worship (London: SCM Press, 1986), 5-6;
Charles Oman, English Church Plate 597-1830 (London: Oxford University Press, 1957);
J. Charles Cox and Alfred Harvey, English Church Furniture (EP Publishing Limited, 1973), 240-245;
David C. Norrington, “Fund-Raising: The Methods Used in the Early Church Compared with Those Used in English Churches Today,” EQ 70, no. 2 (1998): 130.
ノリントン/Norringtonによる論文は一読に値します。彼は、現在の「募金方法」が、新約聖書において事例がないことを示しています(p.115-134)。 - The Catholic Encyclopedia(カトリック百科事典オンライン版), s.v. “porter, door keeper” の項目。
- ジョン・マクガッキン教授からフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2002年9月23日。
「アッシャー/usher」はアングロサクソンの言葉に由来し、人々を法廷や教会に案内する人のこと。
ユージン A. テセル/Eugene A. Teselle教授からフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2002年9月22日。 - Cox and Harvey, English Church Furniture, 245.
- マタイ23:23で、イエスはパリサイ人や律法の教師たちの矛盾を指摘して、彼らに挑戦しています。弟子たちが従うべき基準を定めているのではありません。
- マレイは、新約聖書に十分の一のささげ物が言及されている4つの事例をすべて詳しく扱い、それらがクリスチャンの十分の一献金の根拠とはならないことを証明しています。また、イエスによれば、十分の一のささげ物は律法主義や自己義認につながるものであり倣うべきものではない、ということを示しています。
Murray, Beyond Tithing, ch. 3.
第9章:バプテスマと聖餐式~希薄になった礼典
- この章では、バプテスマ(洗礼)について聖書が教えていることを詳細に検討することはできませんが、神学的な観点から考えると、幼児洗礼は、聖書が一貫して結びつけている二つのこと、(1)「信仰と悔い改め」と (2)「水のバプテスマ」を切り離すことになります。
- ギリシア語のバプテスマ/βάπτισμαは使われる文脈によって様々な意味を持ちます。西欧では中世後期まで「浸礼」がキリスト教会の一般的な習慣でした。
Ferguson, The Early Christians Speak, 43-51. - 使徒 2:37-41、8:12~、27-38、9:18、10:44-48、16:14-15、31-33、18:8、19:1-5、22:16。
- Green, Evangelism in the Early Church, 153.
- David F. Wright, The Lion Handbook of the A History of Christianity (Oxford: Lion Publications, 1990),“Beginnings”, “Instruction for Baptism” の項目を参照。
- アウグスティヌスは、洗礼を「目に見える言葉」と呼びました。
Augustine, Tractates on the Gospel According to Saint John, LXXX, 3. - マルコ16:16、使徒2:38、使徒22:16、第一ペテロ3:21などがその例です。
- キリスト教信仰における水のバプテスマの重要性は、初期のキリスト教美術に表現されています。
Andre Grabar, Christian Iconography (Princeton: Princeton University Press, 1968).
- Ferguson, The Early Christians Speak, 33.
- Wright, Lion Handbook of the A History of Christianity, “Beginnings”, section on “Instruction for Baptism.”
ライトは、4世紀までに聖職者が改宗者への指導を引き継いで、司教が洗礼前の指導と規律を教える責任を持つようになったと指摘しています。これが、現代のプロテスタント教会の多くで牧師が指導する洗礼準備会の前身となりました。2世紀以降、洗礼式は復活祭(イースター)に行われるようになりました。レント(四旬節)の起源はここにあります。
Smith, From Christ to Constantine, 151. - Ferguson, The Early Christians Speak, 35.
- Ferguson, The Early Christians Speak, 35-36.
W. R. Halliday, The Pagan Background of Early Christianity (New York: Cooper Square Publishers, 1970), 313.
乳と蜜を与えることは異教から取り入れたものです。新しい回心者(「カテキューメン /catechumens」と呼ばれるようになり、カテキズムはこれに由来しています)は、通常、過越祭かペンテコステ(聖霊降臨祭)の日曜日に洗礼式を行いました。前週の木曜日には沐浴。金曜日と土曜日は断食し、司教から悪魔払いを受けます。2世紀の終わりには、これが西欧でかなり定まっていた洗礼の儀式でした。
グレゴリー・ディクスは、キリスト教における信仰告白の導入は2世紀前半の洗礼信条から始まると主張しています。信条は、三位一体の三つの位格をそれぞれ扱う三つの質問から構成されていました。AD325年のニカイア公会議でこの信条は、教会外の人々に対して信仰を表すテストではなく、教会内の人々と関係を深めるテストへと発展しました。
Gregory Dix, The Shape of the Liturgy, 485;
Norrington, To Preach or Not, 59.
- Ferguson, The Early Christians Speak, 60.
- Green, Evangelism in the Early Church, 156.
- C. L. Thompson, Times of Refreshing, Being a History of American Revivals with Their Philosophy and Methods (Rockford: Golden Censer Co. Publishers, 1878);
Paul H. Chitwood, “The Sinner’s Prayer: An Historical and Theological Analysis” (Dissertation, Southern Baptist Theological Seminary, Louisville, KY, 2001). - 四つの法則というトラクトに掲載されている典型的な罪人の祈り(信仰告白の祈り)は、このように書かれています。
「イエス様、私はあなたを個人的に必要としています。私の罪のため、身代わりに死んでくださりありがとうございます。私は今、心の扉を開き、私の罪からの救い主、人生の導き手として、あなたをお迎えします。私のすべての罪を赦し、永遠の命を与えてくださりありがとうございます。私の心の中心で私を導き、あなたが望むような者に、私を変えてください。」
(キャンパス・クルセード・フォー・クライスト:四つの法則より引用)https://www.japanccc.org/4sl/1世紀には、水のバプテスマを受けることが、この祈りの内容と思いを公に示す証となっていました。
- フィニーやムーディなどによる変革については、第3章を参照してください。
- 「個人的な救い主(personal savior)」という表現は、1800年から1857年までの「Making of America」データベースには出てきません。この表現が現れ始めたのは1858年、メソジスト派の監督教会が1800年代半ばに発行した『Ladies Repository』という定期刊行物に掲載されてからのことです。興味深いことに1858年は、チャールズ・フィニーが有名になった祈りのリバイバル(prayer revival)が終わった年です(※フィニーはリバイバルは熱心に祈ることによって起こすものであると強調しました。祈りを中心としたリバイバルは1855年にニューヨークのローチェスターで始まり、1858年5月まで続きました)。
- http://www.answers.com/topic/charles-e-fuller を参照。
- ヨハネ17:23、20:21、ローマ8:15、ガラテヤ4:6、エペソ1:4-6。このトピックに関する詳しい議論は以下を参照。
Bill Freeman, The Church Is Christ (Scottsdale, AZ: Ministry Publications, 1993), ch. 3. - 聖餐に関する見解のために命を奪われた有名な人物の一人にトマス・クランマー/Thomas Cranmerがいます。クランマーはヘンリー8世によってカンタベリー大司教に任命されましたが、彼の影響が最も大きかったのは、ヘンリーの息子エドワード6世の短い治世でした。その後、メアリー女王の治世に、クランマーはプロテスタントの聖餐神学を擁護したことで扇動罪に問われ、1556年3月に火あぶりにされました。
Douglas, Who’s Who in Christian History, 179-180. - Eric Svendsen, The Table of the Lord (Atlanta: NTRF, 1996);
F. F. Bruce, First and Second Corinthians, NCB (London: Oliphant, 1971), 110;
White, The Worldliness of Worship, 85;
William Barclay, The Lord’s Supper (Philadelphia: Westminister Press, 1967), 100-107;
I. Howard Marshall, Last Supper and Lord’s Supper (Grand Rapids: Eerdmans, 1980);
Vernard Eller, In Place of Sacraments (Grand Rapids: Eerdmans, 1972), 9-15. - Barclay, Lord’s Supper, 102-103.
主の晩餐は、かつては 「信徒」が行なっていましたが、後に祭司階級の特別な責務となりました。 - 愛餐は、かつて「アガペ」と呼ばれていました(ユダ 12)。
- Dix, Shape of the Liturgy, 23;
Ferguson, The Early Christians Speak, 82-84, 96-97, 127-130.
1世紀から2世紀初頭にかけて、主の晩餐は食事として夕方に行われていたようです。2世紀の資料では、それは日曜日にのみ行われていました。『ディダケー(※十二使徒の遺訓)』では、聖餐はやはりアガペーの食事(愛の祝宴・愛餐)とともに行われていたことが示されています。
Davies, Secular Use of Church Buildings, 22. - Svendsen, Table of the Lord, 57-63.
- キリスト教のミサにおける異教の影響については、以下を参照。
Edmund Bishop’s essay “The Genius of the Roman Rite”;
Duchesne, Christian Worship, 86-227;
Jungmann, Early Liturgy, 123, 130-144, 291-292;
Smith, From Christ to Constantine, 173;
Durant, Caesar and Christ, 599-600, 618-619, 671-672. - 愛餐は、AD397年のカルタゴ公会議によって廃止されました。
Barclay, Lord’s Supper, 60;
Charles Hodge, First Corinthians (Wheaton, IL: Crossway Books, 1995), 219;
R. C. H. Lenski, The Interpretation of 1 and 2 Corinthians (Minneapolis: Augsburg Publishing House, 1963), 488.
- Gough, The Early Christians, 100.
- Gough, The Early Christians, 93.
「ユーカリスト/Eucharist」(※聖餐式の原語)は「感謝」を意味します。 - Tad W. Guzie, Jesus and the Eucharist (New York: Paulist Press, 1974), 120.
- Tad W. Guzie, Jesus and the Eucharist , 120.
- アレクサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス、ヒッポリュトス(3世紀初頭)のような早い時期の著作家たちは、「パンとぶどう酒の中にキリストの臨在がある」という意味の表現を使い始めました。しかし、その初期の段階では、パンとぶどう酒が肉と血に「変化した」物理的な現実性を議論する試みはありませんでした。その後、東方教会の著作家たち(エルサレムのキュリロス、トゥムイスの司教セラピオン、アタナシウス)は、パンとぶどう酒を肉と血に変える聖霊への祈りを紹介しました。しかし、聖餐制定のことばを唱えることによって、そこにパンとぶどう酒を聖変化させる力(consecratory power)を見出すようになったのは、ミラノのアンブロシウス(4世紀後半)でした。「これはわたしのからだである」(ラテン語 hoc est corpus meum)という言葉には、パンとぶどう酒を変化させる力があると考えられたのです。
Jungmann, The Mass of the Roman Rite, 52, 203-204;
Dix, The Shape of the Liturgy, 239, 240-245.
Bard Thompson, Liturgies of the Western Church (Cleveland: Meridian Books, 1961), 27. - 喜びから恐れへの聖餐に対するイメージの変化は、キリスト教美術にも反映されています。4世紀以前には、憂鬱そうなイエスの姿は描かれていません。
グレイドン・スナイダーからフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、2001年10月12日。
Graydon Snyder, Ante Pacemも参照。 - Guzie, Jesus and the Eucharist, 121.
- パンとぶどう酒そのものを神聖なものとみなす動きは、9世紀に起こったことでした。それ以前は、聖餐を受ける「行為」が神聖なものとみなされていました。しかし、AD830年、ラドベルト /Radbertが、パンとぶどう酒に直接焦点を当てて聖餐について論じた最初の論考を書いたのです。ラドベルト以前のキリスト教の著述家たちは皆、クリスチャンがパンとぶどう酒を受ける行為やその時の「行動」について述べていました。ラドベルトは、祭壇のテーブルの上に置かれたパンとぶどう酒という素体(エレメント)そのものにのみ、焦点を当てたのです。
Guzie, Jesus and the Eucharist, 60-61, 121-123. - Dunn, New Testament Theology in Dialogue, 125-135.
- 聖餐をささげるための司祭が登場したのは4世紀頃からでした。
- Hanson, Christian Priesthood Examined, 80.
- Guzie, Jesus and the Eucharist, 125-127.
- 多くの奴隷や貧しい人々にとって、聖餐は唯一の本格的な食事でした。興味深いことに、AD393年のヒッポの教会会議以降、聖餐を断食するという概念が生まれました。
Barclay, Lord’s Supper, 100.
- Gough, The Early Christians, 111-112.
聖変化(transubstantiation)が本格的に教義化されたのは、トマス・アクィナスによるとされています。この点に関して、マルティン・ルターは、「トマスの見解」はあくまでも意見にとどめるべきであり、教会の教義とするべきではないと考えました。
Senn, Christian Liturgy, 307. - Hatch, Growth of Church Institutions, 216.
聖変化は、西洋における350年にわたる論争の結果、1215年のラテラノ公会議で教義として認定されました。
Dix, Shape of the Liturgy, 630;
Hanson, Christian Priesthood Examined, 79;
Philip Schaff, History of the Christian Church, 7 (Grand Rapids: Eerdmans, 1994), 614. - Jones, Historical Approach to Evangelical Worship, 143.
- White, Protestant Worship, 66.
第一コリント11:27-33は、個人的な罪に関して自分自身を吟味するよう勧めているのではありません。むしろ、「ふさわしいマナー」をもって主の晩餐にあずかれるように自分を吟味しなさいという勧めです。コリントの人たちは、貧しい兄弟たちが一緒に食事をするのを待たず、ぶどう酒に酔っていたので、晩餐を汚していたのです。
- マタイ26:26-28、マルコ14:22-24、ルカ22:19-20。
- 使徒2:38-40、第一コリント10:1-2。
- ローマ6:3-5、コロサイ2:11-12。
- 第一ペテロ3:20-21。
- 使徒22:16、エペソ5:26。
- Eduard Schweizer, The Church As the Body of Christ (Richmond, VA: John Knox Press, 1964), 26, 36-37.
- Barclay, Lord’s Supper, 99-102.
- 新約聖書は、イエス・キリストと使徒たちによって教会に与えられた使徒的伝統を堅く守るよう繰り返し私たちに勧めています(第一コリント11:2、16、第二テサロニケ2:15、3:6)。詳しくはフランク・ヴィオラ『Reimagining Church』を参照。
第10章:キリスト教教育~膨張しすぎた頭
- John Owen, Hebrews, Alister McGrath and J. I. Packer, eds. (Wheaton, IL: Crossway Books, 1998), 131.
- R. Paul Stevens, Liberating the Laity (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1985), 46.
これらの言葉(※「新約聖書の教会ではイエスの働きと同様に、人々は生活や関係性の中で生き、働き、奉仕することを通して学んだのである」)は、現代の制度的教会について言えるものではありません。全て1世紀の教会のあり方についての表現です。
- 初代クリスチャンの働き人たちの訓練方法については、以下の本を参照。
Viola, Finding Organic Church;
Robert E. Coleman, The Master Plan of Evangelism (Grand Rapids: Fleming H. Revell, 1993);
A. B. Bruce, The Training of the Twelve (New Canaan, CT: Keats, 1979);
Gene Edwards, Overlooked Christianity (Sargent, GA: Seedsowers, 1997).
ウォッチマン・ニー/Watchman Neeによる以下の3冊も注目に値します。これらは、ニーが働き人としての訓練中に、彼の若い同労者たちに与えたメッセージを収録しています。
Watchman Nee, The Character of God’s Workman, The Ministry of God’s Word, The Release of the Spirit.
第二テモテ2:2は、福音書と使徒行伝に示されているクリスチャンの働き人を訓練するという考え方に言及しています。 - 世俗の制度の教育的側面に関する洞察に満ちた議論については、以下を参照してください。
Watchman Nee, Love Not the World (Carol Stream, IL: Tyndale House Publishers, 1978). - Robinson, New Reformation, 60-65.
ロビンソンは、「教父の神学は司教によって書かれ、中世の神学は大学教授によって書かれ、宗教改革者の神学は牧師によって書かれ、『新しい宗教改革』の神学は全ての神の民によって、全ての神の民のために書かれる」と主張しています。「全ての神の民のための神学」とは、専門的な仕事をする専門的なグループ(聖職者)だけの関心や経験ではなく、全てのクリスチャンの関心や経験に焦点を当てたものです。
R.ポール・スティーブンスやロバート・バンクスは、著書の中でこの神学について多くのことを書いています。また、ハロルド H. ロウドンの論文も参照。
R. Paul Stevens, Abolition of the Laity.
R. Paul Stevens, The Other Six Days.
Robert Banks, Reenvisioning Theological Education (Grand Rapids: Eerdmans, 1999).
Harold H. Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” Vox Evangelica 7 (Carlisle, UK: Paternoster Press, 1971), 75-87
- アウグスティヌスも、神学教育を行なった司教の一人でした。聖職者のグループが訓練を受けるため、5世紀に彼の周囲に集まりました。
Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 75. - 司教の学校が聖職者養成のための学問的性格を帯びるようになったのは、6世紀以降のことです。それ以前は、司祭志願者は司教の指導の下で、儀式や典礼の執り行い方を学んでいました。
Edward J. Power, A Legacy of Learning: A History of Western Education (Albany: State University of New York Press, 1991), 98, 108.
- 12世紀以前、西欧で唯一の教育が、修道院と聖堂に帰属する学校によって行われていました。
- Marrou, History of Education in Antiquity, 329.
- ダグラス・ファローは以下の著書で、オリゲネスやアウグスティヌスを通してどのようにギリシア的思考が神学に定着し、それがどのように教会生活の多くの分野にも影響を与えたかを明らかにしています。
Douglas Farrow, Ascension and Ecclesia (Grand Rapids: Eerdmans, 1999).
- Eusebius, The History of the Church, IV, 11, 8.
- Boggs, Christian Saga, 151;
Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 126-127. - 神学大学に相当する専門学校を設立したのは、アレクサンドリアのクレメンスの師パンタイノス/Pantaenus、あるいはデメトリオ/Demetriusだという説があります。
B. H. Streeter, The Primitive Church (New York: The Macmillan Company, 1929), 57;
James Bowen, A History of Western Education 1 (New York: St. Martin’s Press, 1972), 240;
Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 76.
- Bowen, History of Western Education 1:240;
Collins and Price, Story of Christianity, 25. - Durant, Caesar and Christ, 610.
新プラトン主義はAD245年から529年の間に栄え、オリゲヌス、アレクサンドリアのクレメンス、アウグスティヌス、偽ディオニシウスを通してキリスト教思想に直接影響を与えました。このような考えは、カトリックの思想の中で今でも非常に広く浸透しています。
Philip S. Watson, Neoplatonism and Christianity: 928 Ordinary General Meeting of the Victoria Institute, vol. 87 (Surrey, UK: The Victoria Institute), 1955.
- Pastor’s Notes 5, no. 2: 7.
- Durant, Caesar and Christ, 611.
- Hatch, The Influence of Greek Ideas and Usages, 125.
- Marrou, History of Education in Antiquity, 329.
- Schaff, History of the Christian Church, 4:400.
- グレゴリウス1世(Gregory)の著作『The Book of Pastoral Rule(牧会規定書)』はAD591年に書かれました。これは司教の職務に関する論考です。
- Douglas, New Twentieth Century Encyclopedia of Religious Knowledge, 289.
ノートルダム大聖堂は最も古いカテドラル・スクール(聖堂付属学校)の一つ。パリ大学はカテドラル・スクールから発展しました。
Bowen, History of Western Education 2:111.
1100年以降、カテドラル・スクールはさらに拡大し、少年の中等教育機関にあたる「グラマー・スクール(grammar school)」と、高等教育のための高等学校(higher school)に分かれました。
- 「大学」の語源は、中世ラテン語の「universitas」で、中世の手工業ギルド(※手工業者の組合)に使われた言葉でした。
Bowen, History of Western Education 2:109. - William Boyd, The History of Western Education (New York: Barnes & Noble, 1967),
大学制度の起源については以下を参照。
Helen Wieruszowski, The Medieval University (Princeton: Van Nostrand, 1966). - Bowen, History of Western Education 1:110.
- 「神学校」の語源は、ラテン語で「苗床」を意味する 「セミナリウム/seminarium」です。
Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 1071. - Collins and Price, Story of Christianity, 112.
- Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 79.
1215年のラテラノ公会議では、すべての司教座聖堂(※カトリック教会の各教区の中で、司教座がある中心的な教会)で神学が教えられることを保証するよう、各都市部の司教に対して勧告しています。 - Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 79.
- Power, Legacy of Learning, 149.
大学の学位の歴史は非常に興味深いです。学問の基準に合格した人はマスター/master(修士)と呼ばれました。ドクター/doctor(博士)と呼ばれるようになったのは、法律家が最初でした。ドクターとは 「教える人」を意味しており、これは 「学問」を意味する「ドクトリナ/doctrina」に由来しています。つまり、ドクターは教えるマスターということです。認知されたいと願う熱心な学生はバチェラー/batchelor(学士)と呼ばれました(p.153)。大学の最終的な権限は大聖堂のチャンセラー/chancellor(総長)にありました。マスターたちはバチェラーたちに講義を行い、バチェラーたちは最初は個人的に部屋を借り、後にマスターたちが貸与した寮に住みました。
Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 79.
「強さ・力・能力」を意味するファカルティ/facultyという言葉は、1270年頃に使われるようになりました。これは中世のギルド(※職業別の組合)のさまざまな技能分野を表していました。やがてファカルティという言葉がギルドに代わって用いられ、各学問分野における学者集団を指すようになりました。
Bowen, A History of Western Education 2:111;
Charles Homer Haskins, The Rise of Universities (New York: H. Holt, 1923), 17. - Stevens, The Other Six Days, 12-13;
Stevens, Abolition of the Laity, 10-22. - D. W. Robertson, Abelard and Heloise(New York: The Dial Press, 1972), xiv.
- Bowen, History of Western Education 2:109.
- アベラールは自分の著書の一つをキリスト教神学と呼んで、当時の多くの人々のひんしゅくを買いました 。
Robertson, Abelard and Heloise, xii-xiii.
- アベラールがアリストテレスに倣って弁証法(ギリシア論理学)を採用したことを、使徒パウロのアプローチと混同するべきではありません。パウロはギリシア人とコミュニケーションをとるためにギリシア哲学の論理や修辞学を使ったかもしれませんが、聖書を理解したり解釈したりするために弁証法を使ったわけではありません。
- Marsden, Soul of the American University, 34.
- Marsden, Soul of the American University, 35.
- Marsden, Soul of the American University, 36.
教育に関するルターの思想については以下を参照。
Boyd, History of Western Education, 188~.
皮肉なことに、ルターの同労者であったメランヒトン/Melanchthonは、北欧の教育において、ヒューマニズム(異教にルーツをもつ)とプロテスタンティズムを結びつけました。 - Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 79.
- Barth, Theologische Fragen and Antworten, 175, 183-184,
Erler and Marquard, Karl Barth Reader, 8-9. - Durant, Age of Faith, 964.
- ヨハネ4:23-24;第一コリント2:9-16。
- Gems from Tozer (Camp Hill, PA: Christian Publications, 1969), 36-37.
- 理性や知性によって神を知ろうとするというテーマは、本書ではカバーしきれません。このテーマについて聖書から解き明かす、4つの素晴らしい資料を紹介します。
T. Austin-Sparks, What Is Man? (Pensacola, FL: Testimony Publications, n.d.);
Watchman Nee, The Spiritual Man (New York: Christian Fellowship Publishers, 1977);
Mary McDonough, God’s Plan of Redemption (Anaheim: Living Stream Ministry, 1999);
Ruth Paxson, Life on the Highest Plane (Grand Rapids: Kregel, 1996).
- Blaise Pascal, Pensées #424.
人間の理性や知性の枠を越えて、どのように神と出会うことができるかという卓越した議論については、以下を参照。
Dr. Bruce Demarest, Satisfy Your Soul: Restoring the Heart of Christian Spirituality (Colorado Springs: NavPress, 1999).
- “Thomas Aquinas Concludes Work on Summa Theologiae,” Christian History 9, no. 4 (1990): 23.
後年、トマス・アクィナスは主との霊的な体験をしました。それは彼の知性を超えて、彼の精神にまで及びました。その体験は非常に深いもので、アクィナスは「これまで私が書いてきたことは、私に啓示されたことに比べれば……わら屑のように見える」と公言しています。このキリストの経験の後、彼は膨大な著作のすべてを放棄しました。それによって、彼の膨大な著書『神学大全(Summa Theologica)』は完成しませんでした。彼は、1273年12月6日にペンを置き、「私は今、生涯の終わりを待っている」と言いました。
Summa Theologica, Great Books of the Western World, vol. 19, Thomas Aquinas I, vi;
Collins and Price, Story of Christianity, 113.
- Summa Theologica, vii.
- Henry C. Thiessen, Lectures in Systematic Theology (Grand Rapids: Eerdmans, 1979), v.
標準的なプロテスタントの組織神学のテキストは、これと同じテンプレート(決まった様式)に従っています。そのすべてがアクィナスの著作から派生したものです。
- アクィナスの神学体系は強化され続けています。例えば、アメリカやヨーロッパのほとんどのプロテスタント神学校は、神学教育のベルリン・モデルとして知られているものに従っています。このモデルは1800年にベルリンで始まりました。これは啓蒙的合理主義から発展したものであり、神学を知性の働きとして強化していったものでした。現代のほとんどの神学校はこのモデルを採用しています。
Vantage Point: The Newsletter of Denver Seminary, June 1998, 4.
ブルース・デマレスト/Bruce Demarest 博士によると、「18世紀の啓蒙時代の遺産として、福音派はしばしば『理性』を神の知識を解き明かす鍵として称賛する。神学はそうして、知性的な取り組み、知性のための活動となる。モートン・ケルシーは、『プロテスタント教会では神は経験によって知られる現実ではなく、推論によって知られる神学的な概念になった』と述べている。『左脳』的なアプローチで信仰に取り組むことで、神は容易に生活の経験から遠ざかった抽象的な存在となる。A.W.トーザーは、『多くの科学者が神の世界の中で神を見失っているように(たとえばカール・セーガン[※20世紀の天文学者・SF作家])、多くの神学者は神の言葉において神を見失っている』と指摘した」。
Dr. Bruce Demarest, Satisfy Your Soul, 95-96. - フランシス・トゥレタン(フランソワ・トゥレッティーニ)/Francis Turretin(改革派)とマルティン・ケムニッツ/Martin Chemnitz(ルター派)は、プロテスタントを代表する二人のスコラ学者(※「スコラ」はschool の語源となったラテン語で、教会に付属する学校のこと。そこで研究された「スコラ哲学」は、信仰と理性を融合させた中世ヨーロッパの主流的思想で、アクィナスはその巨頭でした)。
- 「理屈をこねる(logic chopping)」という言葉は、議論の論理を特定の考えに無理やり合わせることを意味します。もしあなたがアクィナスがこのようなことをしたのかどうかを疑うのであれば、彼の『神学大全(Summa Theologica)』を読んでみてください。アクィナスは自分の神学的見解を正当化するために、アリストテレスの論理学と哲学に大きく依存しました。彼は、アリストテレスの著作の注釈書も書いています。デュラントによれば、アクィナスはアヴェロエス/Averroesを除く中世の思想家の誰よりもアリストテレスの著作を熟知していたと言います。アクィナスがアリストテレスの哲学体系をどのように取り入れたかについては、以下を参照。
Douglas, Who’s Who in Christian History, 30-34,
Durant, Age of Faith, 961-978. - Durant, Story of Philosophy (New York: Washington Square Press, 1952), 104;
Durant, Age of Faith, 962.
パリ大学のフランス哲学学部長は、キリスト教神学を異教徒の哲学によって汚したとして、トマ ス・アクィナスを非難しています。
- アクィナスは『神学大全(Summa Theologica)』の中で、新プラトン主義である偽ディオニシウスを100回以上引用しています。アクィナスは、ディオニシウスは、パウロがアテネでキリストに改宗させた人物(使徒17:34)に違いないと考えていたようです。しかし、それは真実ではありません。偽ディオニシウスは、新プラトン主義哲学者であり、アレオパゴスの裁判官ディオヌシオよりもずっと後の時代の人物だからです。
- 「信徒の神学(Lay theology)」または「全ての神の民のための神学」と呼ばれる神学の第5の段階は、現代の学者たちによって支持されています。注5を参照。
- おそらく「修道院」方式は例外です。修道院の中には、アリストテレスやプラトンとともに、キリスト教神秘主義者の著作を研究した学校もありました。
- Marrou, History of Education in Antiquity, 343;
Marsden, Soul of the American University, 38. - キェルケゴールの次の引用について考えてみましょう。「キリストは教授を任命しなかったが、従う者を任命した。もしキリスト教が…それを読み解く人の生活の中で再現されないなら、その人はキリスト教を読み解いていないことになる。なぜなら、キリスト教は生きることについてのメッセージであり、それは人々の生活で実現されることでのみ読み解くことができるものだからだ。」
- Marsden, Soul of the American University, 38.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 133.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 144.
- Niebuhr and Williams, The Ministry in Historical Perspectives, 142.
- Marsden, Soul of the American University, 37.
- Marsden, Soul of the American University, 37.
- Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 309;
Durant, The Reformation, 932.
トレント公会議で、各監督区において神学校に関する条項が定められました。
A. G. Dickens, Reformation and Society in Sixteenth-Century Europe (London: Hartcourt, Brace, & World, Inc., 1966), 189;
Collins and Price, Story of Christianity, 149.
- Rowdon, “Theological Education in Historical Perspective,” 81.
- Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 113.
ジョン・カルヴァンは1559年にジュネーヴ・アカデミーを設立しましたが、これは厳密には神学校ではありませんでした。アカデミーは神学者を養成するために使われましたが、もともと神学の学校として構想されたわけではありません。非聖職者にも総合的な教育を施していたのです。興味深いことに、セオドア・ベザ(カルヴァンの右腕)は、ジュネーヴ・アカデミーの学問としての系統をギリシア人にまで遡り、ギリシア人はエジプト人から「真の哲学」を学んだと述べています。モーセはエジプト人のあらゆる知恵を学んだので、これは良いことであると主張しました。
Robert W. Henderson, The Teaching Office in the Reformed Tradition (Philadelphia: Westminster Press, 1962), 51-61. - John Morgan, Godly Learning (New York: Cambridge University Press, 1986), 107.
アメリカの神学校教育は、スコットランドのトーマス・リード/Thomas Reidの「常識学派」哲学によっても支配されていました。後に、リベラルな神学校はG. W. F. ヘーゲル/Hegelを好むようになりましたが、保守的な神学校はリードに固執しました。
- Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 113
- Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 113.
- Warkentin, Ordination: A Biblical-Historical View, 75.
- ユニテリアン主義は、三位一体、イエスの神性、および他の正統的なキリスト教の信念を否定しています。
- アメリカの地で初めてカトリックの神学校が設立されたのは1791年、ボルチモアです。
Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 1071. - ムーディ聖書学院は1889年に正式に開校されました。
Virginia Brereton, “The Popular Educator,” Christian History 9, no. 1 (1990): 28. - Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 42-43;
Harper’s Encyclopedia of Religious Education, 61. - Harper’s Encyclopedia of Religious Education, 61.
- “Bible College Movement,” The Evangelical Dictionary of Christian Education (Grand Rapids: Baker Book House, 2001).
- Harper’s Encyclopedia of Religious Education, 625.
ほとんどの歴史書は、レイクス/Raikesを日曜学校の創始者としていますが、レイクスとともに創始者であったとされる人々もおり、ハンナ・モア/Hanna Moreやサラ・ラクェール/Sara Laqueurもその一人です。
Thomas W. Laqueur, Religion and Respectability: Sunday Schools and Working Class Culture, 1780-1850 (New Haven, CT: Yale University Press, 1976), 21.
また、グロスターのトーマス・ストック/Thomas Stock牧師がレイクスに日曜教育のアイデアを与えたとも言われています(p. 22)。
- Harper’s Encyclopedia of Religious Education, 625.
日曜学校は、1780年代から1790年代にかけての福音主義リバイバルの一環として発展しました。
Laqueur, Religion and Respectability, 61.
1811年にレイクスが死去したとき、英国では40万人の子供たちが日曜学校に通っていました。
Britain. C. B. Eavey, History of Christian Education (Chicago: Moody Press, 1964), 225-227. - Terry, Evangelism: A Concise History, 180.
- Harper’s Encyclopedia of Religious Education, 625.
- Terry, Evangelism: A Concise History, 181.
- Brereton, “Popular Educator,” 28;
Collins and Price, Story of Christianity, 187.
ムーディの日曜学校では1,500人以上の子供たちが集っていました。 - Anne M. Boylan, Sunday School: The Formation of an American Institution 1790-1880 (New Haven, CT: Yale University Press, 1988), 167.
1880年まで、日曜学校は教会に来る新来者の窓口になっていました。アーサー・フレーク/Arthur Flakeは、南部バプテスト連盟の中で日曜学校プログラムを開発しました。彼はまた、日曜学校成長の原則を普及させ、他の教派でも採用されるようになりました。
Terry, Evangelism: A Concise History, 181.
Elmer Towns, “Sunday School Movement,” New Twentieth Century Encyclopedia of Religious Knowledge, 796-798. - Terry, Evangelism: A Concise History, 170.
Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 331. - Pastor’s Notes 4, no. 1 (Worcester: Christian History Institute, 1991), 6.
- Boylan, Sunday School, 1.
- 1824年、アメリカにおいて米国日曜学校組合(The American Sunday School Union)に所属する日曜学校の児童数は48,681人でした。1832年には、この数字は301,358人にまで増加しました。
Boylan, Sunday School, 11.
米国日曜学校組合は1824年に設立され、フィラデルフィアの68校を含む724校が加盟していました。1970年、同組合は米国宣教協会(American Missionary Society)と改称されました。
Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 18. - Bobby H. Welch, Evangelism through the Sunday School: A Journey of Faith (Nashville: Lifeway Press, 1997).
他の調査によると、出席者数は過去10年間安定しています。 - Norrington, To Preach or Not, 59.
- Warren Benson and Mark H. Senter III, The Complete Book of Youth Ministry (Chicago: Moody Press, 1987), 66.
- Mark Senter III, The Coming Revolution in Youth Ministry (Chicago: Victor Books, 1992), 93.
- Michael V. Uschan, The 1940s: Cultural History of the US through the Decades (San Diego: Lucent Books, 1999), 88;
Mary Helen Dohan, Our Own Words (New York: Alfred Knopf, 1974), 289. - Mark Senter III, The Youth for Christ Movement As an Educational Agency and Its Impact upon Protestant Churches: 1931-1979 (Ann Arbor: University of Michigan, 1990), 7-8.
p.26以降で、センターは青少年団体を生み出した社会的・歴史的要因について論じています。ビリー・グラハムはユース・フォー・クライスト(YFC)の巡回伝道者となりました。1950年代、YFCは全国に聖書クラブ(Bible Club)を設立しました。
Reid, Concise Dictionary of Christianity in America, 377.
マンハッタンのカリスマ的な存在だったロイド・ブライアント/Lloyd Bryantは、定期的な青少年集会を初めて組織したと言われています。
Christopher Schlect, Critique of Modern Youth Ministry (Moscow, ID: Canon Press, 1995), 8.
- マンハッタンのカルバリーバプテスト教会(1932年)、北サンディエゴ郡のビスタコミュニティー教会(1948年)、シカゴのムーディメモリアル教会(1949年)はすべて「ユースディレクター 」を雇いました。1930年代と40年代にヤング・ライフとユース・フォー・クライスト(YFC)の活動が国内で盛んになるにつれて、中小規模の教会もユースミニスターを雇い始めました。
Senter, Coming Revolution in Youth Ministry, 142. - マーク・センター/Mark Senterからフランク・ヴィオラへの電子メール・メッセージ、1999年9月22日。
- ヤング・ライフ(1941年)、ユース・フォー・クライスト(1945年)、フェローシップ・オブ・クリスチャン・アスリーツ(1954年)、ユース・ウィズ・ア・ミッション(1960年)(※各年は、各超教派団体の設立年)。
Senter, Coming Revolution in Youth Ministry, 27-28, 141;
Mark Senter, “A Historical Framework for Doing Youth Ministry,” Reaching a Generation for Christ (Chicago: Moody Press), 1997. - Schlect, Critique of Modern Youth Ministry, 6.
- Senter, Coming Revolution in Youth Ministry, 142.
- William Boyd and Edmund King, The History of Western Education (Lanham, MD: Barnes & Noble Books, 1995), 28.
- Power, Legacy of Learning, 29-116.
- 本書でこの2本の木の意味を説明することは、時間とページの都合上できません。より詳しい議論は以下を参照。
Watchman Nee, The Normal Christian Life, ch. 7. - 教授法(pedagogy)とは、教えることの技術であり科学です。
- キリスト教における重要な問題の一つは、古代世界の知的水準を受け継いでいることです。
Marsden, Soul of the American University, 34. - ヨシフ・スターリン(※旧ソビエトの独裁者)が、14歳から19歳までティフリス神学校に通っていたことを念頭に置いてください。
Adam B. Ulam, Stalin the Man and His Era (New York: Viking Press, 1973), 18-22;
Alan Bullock, Hitler and Stalin: Parallel Lives (New York: Knopf, 1992), 6, 13. - タルソのパウロは高度な教育を受け、初期キリスト教の普及に不可欠な人物でした。一方、ペテロは無学でした。
- イエスと十二使徒はみな無学でした。「すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、『この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう』。」(ヨハネ7:15)、「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。」(使徒4:13)
正式な神学教育を受けたことのない、神に用いられた著名なクリスチャンには、A.W.トーザー、G.キャンベル・モーガン、ジョン・バニヤン、C.H.スポルジョン、D.L.ムーディ、A.W.ピンクなどがいます。さらに、ウォッチマン・ニー、ステファン・カウン、T.オースティン・スパークスのような教会史上最も偉大な聖書講解者も、神学校で訓練を受けていません。 - この研究は、41の異なる教派と「信仰グループ」に帰属する14,000人以上のクリスチャンを対象とし、26種の異なる質問が用いられました。FACT調査は、米国の宗教に関する最も包括的な調査とされています。調査結果は以下のサイトから閲覧することができます。https://faithcommunitiestoday.org/ (※本書で参考にされているデータは2000年度のものです。)
- FACT調査(※Faith Communities Today 2000 Study), 67.
- 皮肉なことに、プロテスタントは教義を批判的に考察することで知られています。しかし、その批判的反省を教会の実践には適用していません。
- Dr. Clyde McDowell, quoted in Vantage Point: The Newsletter of Denver Seminary(デンバー神学校のニュースレター), June 1998.
第11章:新約聖書の再考察~聖書をジグソーパズルにしない
- この章は、2000年7月29日にジョージア州アトランタのオグルソープ大学で開催されたハウスチャーチカンファレンスで、フランク・ヴィオラが語ったメッセージに基づいています。
- プロテスタントのスコラ主義(※「スコラ」は教会に付属する学校のこと。そこで研究された「スコラ哲学」は、信仰と理性を融合させた中世ヨーロッパの主流的思想で、古代ギリシアのアリストテレスの影響を受けていました)については以下を参照。
Walter Elwell, Evangelical Dictionary of Theology (Grand Rapids: Baker Book House, 1984), 984-985.
フランシス・トゥレタン(フランソワ・トゥレッティーニ)(改革派)とマルティン・ケムニッツ(ルター派)は、プロテスタントのスコラ学者の中で特に影響を与えた人たちでした。
Elwell, Evangelical Dictionary of Theology, 1116 and 209. - ディスペンセーション主義と患難前携挙(※本書第3章88ページ参照)は、そのうちの二つにすぎません。成功を収めた『レフト・ビハインド』シリーズは、これらの教えに基づいて作られています。
Time, July 1, 2002, 41-48.
ダービの患難前携挙説の興味深い起源については次の本を参照。
MacPherson, Incredible Cover-Up. - Donald Guthrie, New Testament Introduction, revised edition (Downers Grove, IL: Inter Varsity Press, 1990).
私たちが現在使っている聖書がどのように編纂されたかに関しては以下を参照。
“How We Got Our Bible”, Christian History 13, no. 3, (1994).
Ronald Youngblood, “The Process: How We Got Our Bible,” Christianity Today (February 5, 1988), 23-38. - Bruce, Paul: Apostle of the Heart Set Free, 465.
学者たちはパウロによって書かれた聖書正典を 「パウロ書簡(Pauline corpus)」 と呼んでいます。新約聖書の正典(canon)の歴史については、以下の本を参照してください。
F. F. Bruce, The Canon of Scripture (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 1988), ch. 8-23.
- Jerome Murphy-O’Connor, Paul the Letter-Writer (Collegeville, MN: The Liturgical Press, 1995), 121, 120.
この慣習(※記述量[行数]を基準に、長いものから短いものへ編纂する方法)は、スティコメトリー/stichometryとして知られています。
- パウロ書簡の順序に関する徹底的な考察は、次の本を参照。
Murphy-O’Connor, Paul the Letter-Writer, ch. 3. - ヘブル人への手紙はパウロが書いたようには見えないため、パウロ書簡には含まれませんでした。
- エペソ人への手紙はガラテヤ人への手紙より少し長いのですが、この2冊の書物は筆記体の光沢のために誤配列されたものです。長さの違いはわずかなので、大きな問題ではありません。
Murphy-O’Connor, Paul the Letter-Writer, 124. - Guthrie, New Testament Introduction, revised edition;
F. F. Bruce, The Letters of Paul: An Expanded Paraphrase (Grand Rapids: Eerdmans, 1965);
F. F. Bruce, Paul: Apostle of the Heart Set Free. - Norman Geisler and William Nix, A General Introduction of the Bible: Revised and Expanded (Chicago: Moody Press, 1986), 340-341, 451;
Bruce Metzger and Michael Coogan, The Oxford Companion to the Bible (New York: Oxford University Press, 1993), 79. - H. von Soden, Die Schriften des Newen Testamentes (Gottingen, Germany: Vandenhoek, 1912), 1, 484;
Connolly, The Indestructible Book, 154.
ある聖書史学者は、ステファヌスの新約聖書への節の割り振りに関してこう述べています。「彼が静かな部屋でひざまずいて祈っていたら、もっと良い仕事ができていただろうに。」
- ヘブライ語聖書に節の割り振りがされたのは、1571年のことでした。セオドア・ベザ /Theodore Bezaは、1565年にステファヌスの文節の分割をTextus Receptus/テクストゥス・レセプトゥス(公認本文)に適用し、それによって今日の重要な位置を与えました。
Kurt Galling, ed., Die Religion in der Geschichte und der Gegenwart, 3rd ed (Tubingen, Germany: J. C. B. Mohr, 1957), 3:114.
- 多くの神学校や聖書大学では、初代教会について「教会史」のクラスで教えられ、新約聖書の書物は「新約聖書学」のクラスで教えられています。そして、両者を合わせて学ぶことはめったにありません。私の言うことが信じられないなら、次のことを試してみてください。それは、 神学生(あるいは卒業生)に、パウロがガラテヤ書を書いてからローマ書を書くまでの流れを時系列で解説できるかどうか聞いてみるということです。
- 聖書の歴史的背景について少し教えられた人もいるでしょう。しかし、そこからさらに調べて全貌を知るところまで行く人はほとんどいません。
- F. F. Bruce, ed., The New International Bible Commentary (Grand Rapids: Zondervan, 1979), 1095.
- G. C. D. Howley in “The Letters of Paul,” New International Bible Commentary, 1095.
- von Soden, Die Schriften des Newen Testamentes, 482.
- Viola, Reimagining Church.
- Viola, Finding Organic Church.
- Viola, Reimagining Church.
- 認識できる限りでは、シリアのアンテオケとコリントには長老がいませんでした。
- 私たちは、教会の必要(牧師の給料や教会の建物のことではありません)のために定期的に献金することを全面的に支持しています。しかし、日曜日の朝の献金を義務化する根拠としてこの聖句を使うことは容認できません。
- Kenneth S. Wuest, The New Testament: An Expanded Translation (Grand Rapids: Eerdmans, 1961).
- 地域の教会開拓者に関する原則が、どのような時系列で聖書に記されているかに関しては、フランク・ヴィオラ『The Untold Story of the New Testament Church』を参照してください。
- フランク・ヴィオラ『Finding Organic Church』を参照。この本では、1世紀に教会が開拓された4つの方法と、そこに貫かれていた霊的原則について詳細に解説しています。
- F. F. Bruce, Answers to Questions (Grand Rapids: Zondervan, 1972), 93.
第12章:救世主の再発見~ 革命家イエス
- 革命者としてのキリストの性質を明らかにする聖書箇所は以下の通りです。マタイ3:10-12、10:34-38、マルコ2:21-22、ルカ12:49、ヨハネ2:14-17、4:21-24。
- イエス・キリストの教会はユダヤ人と異邦人の融合ではありません。ユダヤ人も異邦人も超越した新しい人間性、新しい創造です(エペソ2:15)。エクレシアは、この地球上の新しい生命体であり、神の命を持つ人々です(第一コリント10:32、第二コリント5:17、ガラテヤ3:28、コロサイ3:11)。2世紀のクリスチャンでさえ、自分たちのことを 「新しい種族」「第三の種族 」と呼んでいました。
Clement of Alexandria, Stromata, or Miscellanies, book 6, ch. 5.
“We who worship God in a new way, as the third race, are Christians”; Epistle to Diognetus, ch. 1, “this new race.” - ミシュナ(※ユダヤ教の口伝律法)にはこうあります。「安息日に盲人をいやすために、彼の目にぶどう酒を注入することは禁じられている。また、つばで泥を作り、それを盲人の目に塗ることも禁じられている。」(安息日の規定108:20)
- ミシュナ(※ユダヤ教の口伝律法)によると、「人は、洗わない手で食事をするよりも、手を洗うために6km歩いて水を汲みに行くことをいとうてはならない」(ソタ―/Sotah, 4b)、「手洗いを怠る者は殺人者と同じである」(ハッラー/Challah, J, 58:31)。
- 永遠の目的については、フランク・ヴィオラ『From Eternity to Here for a discussion on the eternal purpose』を参照。
- オーガニック・チャーチ(有機的な教会)は、主題として非常に広いので、本書ではカバーしきれません。しかし、フランクの著書『Reimagining Church』では、新約聖書の教会の有機的な活動について、聖書に基づいて徹底的に考察しています。
- 「ラディカル(過激な)」という言葉は、「ルーツ」を意味するラテン語の 「radix」に由来します。したがって、ラディカルな人とは、何かの根源や原点に向かう人のことです。イエス・キリストはラディカルであり、革命家でもありました。この章の冒頭で引用した、ジョン A. T. ロビンソンの言葉を参照してください。
次のステップ
- バーナ・グループ/The Barna Groupは毎年、教会やその他の非営利団体に対する人々の寄付や献金について追跡調査しています。最近の寄付・献金に関する動向については、「Americans Donate Billions to Charity, But Giving to Churches Has Declined.(アメリカ人は慈善事業に数十億ドルを寄付。しかし教会への献金額は減少傾向)」という報告書に記載されています。これは、https://www.barna.com/で見ることができます。
- この調査は、以下に詳しく書かれています。
George Barna, Think Like Jesus (Nashville: Integrity Publishers, 2003).
(※著者Barnaは調査のアップデートをサイトで発表しています。次のサイトも参考にしてください。https://www.barna.com/)
最後の考察
- F. F. Bruce, A Mind for What Matters (Eerdmans, Grand Rapids, 1990), 247.
- Kevin Giles, Jesus and the Father (Grand Rapids: Zondervan, 2006);
The Trinity & Subordinationism (Downers Grove, IL: InterVarsity Press, 2002);
Gilbert Bilezikian, Community 101 (Grand Rapids: Zondervan, 1997), Appendix. - John W. Kennedy, The Torch of the Testimony (Bombay: Gospel Literature Service, 1965);
E.H. Broadbent, The Pilgrim Church (Grand Rapids: Gospel Folio Press, 1999);
Leonard Verduin, The Reformers and Their Stepchildren (Grand Rapids: Eerdmans, 1964).