特別対談:教会を生み出す教会:1

【リード】

日本のリバイバルの兆候と見られる要素を垣間見る機会が増えている。
霊的な「雪解け」が始まりつつあるなか、一方で受け皿となるべき教会の成長・増殖も急務だ。
今後の日本における効果的な宣教に向けて、リーダーたちはどのような教会観を持ち、実践していけば良いのだろうか。
次世代の教会形成について、経験と情報を併せ持つお二人に対談して頂く。

福田

最近、『福音主義神学』(第38号「日本の宣教を考える」日本福音主義神学会)に「ヒトデ型教会のススメ」という論文を寄稿しました。
教職者の高齢化に伴って教会が閉鎖していくという大きな流れがある日本で、中央集権型の教会では、中心となる教職者がいなくなると、頭を失ったクモのように、組織そのものが弱体化していくという現象が見られます。

けれども、分散型の教会はヒトデのようです。
クモの頭に当る命令中枢や、明確な階層構造を持たずに、権限が分散しています。
小集団が、神との直接的な関係の中で意思決定するのです。
現代の分散型組織の例として、NTTに対するスカイプや、ブリタニカ百科事典に対するウィキペディアなどが挙げられます。
ヒトデを半分に切り離すと2つのヒトデになるように、新約聖書の教会も攻撃を受けると、さらに増え広がりました。
ステパノ以降の教会増殖のあり方は、分散型組織の条件にぴったりと当てはまります。

大橋

組織論に目を向けるということは、ほとんど日本の教会の中では無かったことですよね。
教会観・教会論自体は神学的に随分論じられていると思いますが、そこにおける組織論は本当に機能するのかという疑問があるんですよね。
全く別の次元で単に教理的な教会論として論じられているだけだと思うんです。
そこに気づいて、問題の原因を気付いている人たちがどのくらいいるか疑問です。
もしかすると、ごく一部の人たちでしかない。
原因を「祈り不足」とか、「聖書の学び不足」とか、いわゆる霊的要因に押し付けてしまう傾向は非常に強いのではないでしょうか。

福田

リバイバルっていうのは、活力があった時期に戻りましょうという意味ですが、日本の場合には、歴史の中で立ち戻るべき目立った場所が見当たりません。
けれども、だからこそ、むしろ新約聖書まで戻れるという面もあるので、日本のコンテキストと、聖書のテキストとの直接的な対話が活発になればいいなという感じがします。

この間「沖縄美ら海水族館」に行ってきました。
サメが他の魚と一緒に泳いでいるんですよ。
「どうして他の魚を食べないの」と、ある人に聞いたら「いつもお腹いっぱいにされているから」だそうです。
黙っていても上からエサが落ちてくる。
だから狩りをする必要がない。
リスクを冒す必要がない。
栄養状態も良いし、水温も調整されているし、掃除も行き届いている。

けれども、じゃあそのサメが海に戻れるか、というと、戻れない。
それが本当にサメにとって…幸せなのかなって(笑)。

大橋

水槽がそのまま教会に当てはまるわけですね。

福田

水族館の一番の問題は、子孫が生まれないことです。
よほど養殖の技術が発達しないとできない。
海の中で生きるのはリスクがある。
自分でエサを取らないといけないし、天敵もいる。

でも子孫は生まれます。
何より、冒険があります。
神だけに頼る喜びとか、力強さがあるんです。
そういうものが子孫を生み出していく。
水族館に魚を集めることだけを考えていると、水槽の中には魚がいっぱいいるけど、周囲の海には魚がいなくなる、ということになりかねません。

大橋

もう一つは、まさにそのクモ型教会とヒトデ型教会の理論と同じで、水族館型の教会は主任牧師・リーダーが変わったときにどうなるかという問題。
これは常にあるわけですよね。

現代は大教会であってもいつまで続くか分からない。
そもそも新約聖書の教会も現存する教会は一つもないわけで、それぞれの教会はその時代の中で光を放って価値を高め、それで終わってしまうのかもしれない。
けれども一方ではそれでいいのかという疑問はやっぱり残りますよね。

ある牧師はこう言いました。
「日本の教会は、1人の牧師が命を縮めて一生懸命教会を建て上げて、少し前だったら100名教会、今だったら200名教会、300名教会に建て上げる。でも、その牧師が去ってしまったら、その教会は普通の規模の教会になるでしょう」。
そういう現象は現実に存在します。
願わくは、そうであって欲しくないわけですよね。
その牧師が去っても増殖し続ける教会であって欲しい。
そのための教会形成が日本の教会の急務、課題だと思うんです。
ヒトデ型は一つの考え方として良い知恵を提供してくれますよね。

福田

私は以前、内面のいやしに焦点を絞って奉仕していました。
実際に「いやされて良かった」という例はたくさんあったのですが、問題点として、いやし手や、いやしのセミナーへの依存がついて回ったんですよ。
いやしに焦点を絞ったのは、自分がいやされて神様から充分に恵みを受ければ、それが溢れて他人に仕えるようになるという神学があったからです。
ところが実際は、多くの人はいやされても出て行きませんでした。

今では、救われて間もない人で、いやしの必要がある場合でも、そればかりを扱わないで、「神があなたと共にいらっしゃるのだから、仕える者になりなさい。そして、自分が受けた神の恵みを、家族や親族や友人や知人に伝えなさい。それが本来の人の道です」と言って励ましています。
日常生活の中で神を敬い、人を愛する。
「敬天愛人」に生きる。
そういう方向づけをしていくと、不思議なことにいやされていくんです。
「あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい」と御言葉にあるように、真っ直ぐな道を歩き出すといやされる。
そういうパラダイムシフトに導かれました。

大橋

別の視点から言うと、確かに、いやされなければならない人が存在するんだけれど、じつはその人がいやしを求め始めた動機というのは、自分のために求めちゃうんですよ。
そこに非常に危険な因子を含んでいるわけ。
いやして下さるのは特別な賜物を持った人ではなくて主ご自身であるということを固く信じていれば、その主に従っていく生活の中で、主ご自身が必ず取り扱って、自分が気付いたときに「あぁ、いやされている。これはもう消えている」と体験するわけですね。
そういうときそれは証になっていくわけですよ。

でも自分のために求めたら、今度は必ずその次に求めるものが出てくる。
人間はいくら与えられても、溢れるほど足りるっていうことはないもので。

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