日本に文脈化された説教:1

1、はじめに

文脈化(contextualization)とは、特定の社会集団における神の自己開示(self-disclosure)を、その社会集団独自の文化形態で受け止めようとする営みである。

メッセージの受け手(以下受け手と呼ぶ)が、生活の中から発する問いに根本的な解決を与えるものとして聖書を捉えることができるようになるために、文脈化は不可避のプロセスである。

文脈化の目的は、福音が受け手の生活を支える根本原理として受け入れられ、文化に根付く聖書的教会が形成され、その結果として、受け手にとって最も自然で心のこもった礼拝が唯一の神に捧げられることである。

この小論の目的は、現代日本の多くの教会の礼拝において、中心的な位置を占める説教に焦点を当てながら、日本という文化文脈(context)において文脈化を推進するとはどういうことであるか、というイメージを読者に提供することである。

2、日本文化を神のコミュニケーションの媒体として用いる

日本人キリスト者が、日本の政治・経済・宗教・風俗等について語るとき、西洋の教会とその神学を盾に、日本文化を批判的に見ることがありはしないだろうか。
このような傾向は、日本人キリスト者のアイデンティティの問題と密接に関わっている#1

日本人キリスト者は、キリストを受け入れた途端に、回心以前に自分が所属し規定されていた文化から切り離され、以前とは全く違う異質な文化に移され、そこに隔離されたものとなるのではない。
むしろ、自ら生まれ育った文化に引き続き留まりながら、神との間に築かれた新しい関係を通して受けた光を、その生活の場で輝かせる使命を与えられた者なのである#2

キリスト者になることは、日本人であることをやめて「中途半端な西洋人」になることで はなく、あくまで日本人であり続けながら、福音によって自由にされた神の民に変えられることである。

日本文化を根本的に矯正されなければならない(あるいは、他の文化と置き換えられなければならない)異教文化と見なすことによって、どれだけ多くの有効な宣教の接触点が見失われることであろうか。
日本文化もまた、他の文化と同じように、神が清めてくださるなら、人間に対する神からのメッセージを媒介することができるのである。
文化の中には、確かに福音によって作り変えられなければならない点が多く含まれている。
しかし、それでもなお、福音伝達者が注意深く取り組むなら、神と人とのコミュニケーションの舞台として、また神のメッセージを伝える媒体として用いられ得るのである。

神は、イエスの受肉の出来事を通して、受け手の立場に立ち、その文化を尊重しながらメッセージを伝える模範を示された。
神は実に、受け手の文化という制限された枠組の中に身を置き、ユダヤ人の生活に自ら参与されることを通して、ご自分を私たちに与えられたのである。
また、ユダヤ人キリスト者たちは、エルサレム使徒会議において、ユダヤ文化を福音と抱き合わせで宣教地に輸出することを否定し、それぞれの文化に適応した、異なる形態を伴う教会が形成されることに道を開いた。
彼らは、異邦の文化もまた福音伝達の場として用いられることに気づいたのである。

日本という文化環境のもとで神の宣教に参与しようとするなら、日本文化の形態を用い、日本人の方法論と用語によって福音を伝達する必要がある。
そのためにも、私たちは西洋神学の価値基準にとらわれてしまうことを警戒しなければならない。
たとえば、説教の中で、神、愛、罪、贖い、魂、三位一体等の専門用語を多用したり、
外国の神学者の言葉を頻繁に引用することによって、未信者や求道者にとってはそのメッセージ全体が外国語のように聞こえてしまっているということはないだろうか。

また、頭に訴えるタイプの理屈っぽい話を延々と続けて、心のリフレッシュを求めてくる人々をうんざりさせていることはないだろうか。
あるいは、日本文化のある側面を一刀両断に断罪することによって、誤ったエリート意識を醸成していることはないだろうか。
日本文化に含まれる神への反抗の側面については、明確に拒否するべきであるが、宣教の接触点として活用し得るものまで捨ててしまうなら、受け手の心の琴線に触れることはできないであろう。

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