習うより慣れろー日本における草の根弟子育成プログラムの一事例:2

Ⅱ.インプリンティング

1.喜びの表現

生まれた直後に目の前にあった、動いて声を出すものを親鳥だと覚え込んでしまうハイイロガンの雛の習性を、コンラート・ローレンツはインプリンティング(刷り込み)と名付けた。それと同じように、クリスチャンもまた往々にして、救われた直後に接した信仰者のモデルや教えが、その後の信仰生活の規範となりがちだ。「三つ子の魂百まで」という言い伝えは、誕生直後から満2歳までの環境が人生を左右することがあるという意味だが、霊的な赤子の場合は、新生後 48時間以内の正しい方向づけが明暗を分ける。「三日子の魂百まで」とでも言うべきだろう。回心直後に、新しい信者が何を見るか、どんな方向づけを与えられるか、ということが、その後の歩みに大きな影響を与える。

回心直後の人にとって何よりも大切なことは、神との親密な関係をどのように維持していくか、という点である。たとえば、「天外内トレーニング」では、朝ごとに、神との親密さを確認する習慣を身につけさせるために、起床後すぐに、神に向かって意識的に喜びを表現するように訓練している。プレゼントを贈る者にとっての最大の報酬は、それを受け取る者が喜ぶ姿を見ることである。御子をさえ与えてくださった神は、弟子たちの「名が天に書きしるされている」(ルカ10:20)ことを、絶えず喜ぶことを求めておられる。パウロも、フィリピ人への手紙の中で16回、喜ぶようにと命じている。脳科学の見地からも、あえて笑うことでプレッシャーを克服することができるそうだ。喜ぶときに、前頭葉が適切に働いて集中することができるように、神が人間をデザインされたからである。それで、トレーニングセミナーの中では、喜びを表現する練習をしている。

ある町に数ヶ月たってから再度訪れることがあった。前回そこで開いたトレーニングセミナーに参加した女性が、近づいてきて証ししてくれた。彼女は、クリスチャンになって数年経つが、毎晩同じ悪夢を見た。広い野原に一人で立っているが、しばらくすると、「ここからどこに行くのだろう。死んだらどうなるのだろう。」と考えるようになり、恐怖のあまり目が覚めてしまった。その後は眠れなくなった。ところが、天に名前が記されていることを喜ぶ練習を起床後すぐにするようになったその日から、一度もその夢を見なくなり、ぐっすり眠れるようになったのだそうだ。そう証しする彼女の顔は輝いていた。この女性は、「姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい」(雅歌2:14)と呼びかけてくださる神に、朝ごとに応答した。喜びの声を上げるという習慣を身に付けたことで、将来への不安と死の恐怖から解放された。このような方向づけを、回心した日から始めることができるようにチャレンジすることが、この練習の狙いである。

2.出て行って仕える

回心直後の弟子にとって、神との親密な関係の確認とともに、獲得される必要があるのは、「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒20:35)という真理を確認する「外向きの経験」である。以前は違う考え方をしていた。まず神の愛を十分に受けて、心の傷が癒され、恵みが溢れるようになると、愛の人に変えられていき、自然に祝福がオーバーフローして、他者を愛する実践に移行していくと思っていたのだ。飛行機に乗って非常時に酸素マスクが降りてきたときには、子どもよりも先に、まず自分がマスクを着用すべきだという例を出して、「自分が神とのパイプを確保していないと、他者を助けることができない」と教えていた。確かに、急に減圧するときには、事が起こった後に意識がある時間はわずか20秒という場合もあるそうなので、機上の非常時には他の選択肢はない。

それに、「まずあなたが養われなさい」というメッセージには、原理として一定の説得力がある。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38、エゼキエル47:1−12参照)。神との正しい関係という源から、外に向かって祝福が流れ出ていくというイエスの教えは、絵画的で美しい。しかし信仰生活の最初期の段階で、まず自分の満たしを求めるように方向づけられた人は、いつまでも現状に満足しないで、「もっと満たされるはずだ」という観念に縛られてしまうことが多い。座ることに慣れてしまった人に、後からいくら立つようにとチャレンジしても、ほとんどの人は立ち上がらない。外向きの宣教活動へのチャレンジは、後手にまわると膨大な手間がかかる。初期段階から外向きの動機づけをすることができたなら、百分の一のかかわりで、良い習慣を身に付けてもらうことができる。イエスの内住という「最大の恵み」をすでに受けているという自覚を促し、その恵みの出口を意識させることが重要だ。「流れ出す恵み」を経験することにより、「流れ込む恵み」を経験することができる。しばらく訓練を続けているうちに、そのことに気づいた。

それは、水族館のサメが、餌を自分で取らなくなる現象に似ている。ジンベイザメのようにプランクトンを主食としているサメはともかく、他の魚を食べるサメも、自然界では餌であるはずのイワシやアジと水槽の中で並んで泳いでいる。それなのに、サメはそれらの魚を襲うことはない。サメは飼育員によって十分な餌が与えられているので、あえて狩をして体力を消耗するようなことはしないのだ。かくしてサメは、水族館という人工的な水槽の中で、神に与えられた狩猟能力を発揮しないで一生を過ごすことになる。水温や水質だけでなく、空腹の加減まで見通されて人工的に飼育されている魚たちは、危機感を失い、狩猟に代表される自立のための生命維持能力を失っていく。それだけではなく、繁殖や子育てなどの子孫を残す能力も失っていく。自然の環境の中では、自分で捕食しなければならないし、天敵とも戦わなければならないが、人工授精などしなくても、自然に繁殖する。

回心者を保護しすぎて安全な水槽の中に入れてしまうと、収穫の海で繁殖しなくなる。一旦水族館で飼われた魚を海に戻すには、相当の困難が伴うが、海で生まれた魚は、人の手を借りずに、神に与えられた能力を発揮し、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という創造の目的を果たすようになる可能性が高い。聖書の中では、イエスに出会った直後から、神の国の働きのために用いられた人たちが多く記録されている。ゲラサの狂人は、その代表例だ。回心直後に、「あなたが救われたのは、出て行ってすべての民を弟子とするためだ」という方向づけを与えられた人は幸いである。その人は、冒険に満ちた世界の中で、本能ならぬ「内住の聖霊の力」を経験するようになる。「手を伸ばしなさい」(マタイ12:13)と命じられた人の手が伸びたように、「出て行きなさい」という声を聞く人たちは、恵みによって出て行くことができるのである。

3.90秒の証し

「天外内トレーニング」では、回心直後に、世の光、地の塩として、生活の現場で役割を果たすように勧める。救われた経緯を思い巡らして恵みを確認してもらい、その恵みのゆえに、言葉と存在を通して、キリストの謙遜と偉大さを隣人に証言するように導いている。宣教の現場こそが恵みの場だという確信に立っているからである。恵みの福音を確認するプロセスを飛ばしてしまうならば、律法主義に陥るだろう。しかし実際の宣教の場では、恵みの確認と伝道の実践とは、段階的に相互に関連しつつ螺旋的に深められていくものである。「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9章23節)という主からの命令に応答しながら生きる生活の中で、自分を支えて育ててくださる神の恵みを経験する。恵みが入口で伝道が出口だという直線的な理解に立っている間は、ほとんどの人が、水族館の魚のように、飼育員が餌を投げ入れるのを、口を開けて待つという状態から抜け出すことができなくなる。そして、「出口」と想定されていた伝道を実践に移すことができるのは、少数の限られた者たちだけになる。

トレーニングセミナーでは、90秒で自分が救われた証しをする練習をする。次の三点に留意しながら経験をまとめる。1)回心前と後では、どのようにライフスタイルが変わったかを明確にする、2)関連する聖書の言葉を一つ入れる、3)証しを通して神があがめられることをイメージする。話すことが整理できたら、二人組になり、相手を伝道対象者に見立てて話す訓練をする。練習後、1週間以内に証しする人を決めて、その人に証しできるように、また証を聞いた人が救われるように、パートナーと祈り合う。このような宿題を実践することを通して、実際に何人もの人たちが、福音を受け入れた。多くの場合、ワークショップで練習をした後に、1時間ほど商店街などに出かけて行って、初めて会う人に証しするフィールドトリップを実施している。これらの課題のねらいは、聖霊の助けを求めつつ思い切って話すことを通して、もっとも高い最初のハードルを越えてしまうことである。どきどきしながら声をかけた参加者たちは、一様に「宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められた」(Ⅰコリント1:21)神を身近に経験するようになる。

東アジアのある町で、午前中に90秒の証のワークショップに参加した人が、昼食時に十代の二人の女性に、90秒とはいかなかったが、自分がどのようにキリストに出会って変えられたのかを証しした。すると、二人ともすぐさま福音を受け入れ、イエスに従う決心をした。日本でも同様のことが起こっている。エリヤ会の調査では、キリスト教に関心や期待をもっている層は合わせて人口の10パーセントにも及び、女子学生の4パーセントは「現在キリスト教に入信したい」と考えているとのこと。友だちになるというプロセスを経て救いを経験する人たちがいるという視点は重要だが、すでに「色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)畑もある。目の前の伝道対象者に対しては、どちらのアプローチがよいのかを見分ける「感覚」も、場数を踏むことによってしか身につけることができないのだと思う。

『宣教学ジャーナル』(第3号)より転載

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