フランク・ヴィオラ氏への質問/または反論(FAQ)
このページは、『異教まみれのキリスト教?』と、その続編である『Reimagining Church』(翻訳予定)への批判に対する回答を掲載しています。
これらの質問と回答は、他ページで紹介されているインタビューや討論会のリンク(すべて英語のみ)での著者の回答に追加して作成されたものです。
それぞれの著書とこのページに関しては、以下の点に注意してください。
- これらの本はアメリカで出版されたため、アメリカの教会について記されています。
- 彼らの著書のほとんどは未翻訳であり、多数あるサイトもほとんどは翻訳されていないため、リンク先の多くが英語のページになっていることをご了承ください。(Googleの自動翻訳によって日本語で表記されることもありますが、それはAIによる自動翻訳であり、訳し間違いなどがある可能性もあります。)
※ なお、本文に訂正箇所がありました。お詫びして、こちらで訂正いたします。
目次<Contents>
- Q & A
- Q1. 同じ主張をしている人たちに関して:
- Q2. 批判する意見に関して:
- Q3. リーダーシップに関して:
- Q4.「不要なものと一緒に大事なものまで捨てている」という意見に対して:
- Q5.「都合の良い文献だけを用いている」という意見に対して:
- Q6. 私たちの聖書(正典編纂)に関して:
- Q7. 新約聖書の順番と、章と節の区分がない聖書に関して:
- Q8.「婦人たちは教会では黙っていなさい」という聖書の言葉に関して:
- Q9. ミニストリーが金銭を受け取ることに関して:
- Q10.「教会は腐りきっている」という意見に対して:
- Q11. 第一コリント14:26に関して:
- Q12. 紀元1世紀の教会とオーガニック・チャーチの違いについて:
- Q13.「正しい教会モデル」に関して:
- Q14. 批判する人たちに関して:
- Q15. 見当はずれな誹謗中傷に関して:
- Q16. 制度的な教会の正当性に関して:
- Q17. オーガニック・チャーチだけが正しいのかという問いかけに対して:
- Q18.「聖書的な教会」とは何を意味しているかについて:
- Q19. 誇張表現ではないかという意見に対して:
- Q20. 制度化や組織化の問題に関して:
- Q21. 多くの牧師たちを怒らせていることに関して:
- Q22. 教会のリーダーシップに関して:
- Q23. 異教からのものを全て否定しているという評価について:
- Q24. ハウス・チャーチ・ムーブメントの関連性について:
- Q25.「歴史を否定するのか」という問いかけに関して:
- Q26. 異教から来た慣習はすべて捨て去るべき?:
- Q27. クリスマスやイースターに関して:
- Q28. 文化への適応は認められないのかということに関して:
- Q29. するべきことが具体的に書かれていない理由について:
- Q30. 神の主権に逆らっているのではないか?
- Q31. 紀元1世紀の教会を美化している?:
- Q32. コンスタンティヌス帝についての記述が足りない?
- Q33. 紀元1世紀の教会を復活させようとしている?
- Q34. 注記に関して:
- Q35. 分裂を生み出しているという非難に対して:
- Q36.「辛辣すぎる」という意見に対して:
- Q37. この本の歴史的根拠について:
- Q38. この本を出版したことで起こった迫害について:
- Q39. 教会にリーダーが必要か?
- Q40. 「二次資料では信用できない」という意見に対して:
- Q41. 教会のルーツはユダヤ教だと信じる人たちへ:
- Q42. 「指導者に従いなさい」という聖書箇所に関して:
- Q43. 制度的な教会の牧師にこの本を読ませるべき?:
- Q44. 教会が嫌いなのですか?:
- Q45. 日曜日に集まるのも異教の習慣では?:
- Q46. ヤハウェやイェシュアという言葉を使うべきでは?:
Q & A
Q1. 同じ主張をしている人たちに関して:
フランクさん、私は最近、ある人気作家が、基本的にあなたが『異教まみれのキリスト教?』と『Reimagining Church』で書いたことと同じことを述べている本を出したことに気づきましたが、彼はあなたやジョージさんよりも伝統的な考え方を持っているようです。私は、彼があなたの本について一切触れず、著作権引用もしていないことに苛立ちを覚えましたが、彼は明らかにあなたの仕事に影響を受けています。このことについてどう思われますか?
「Rethinking Church – Addressing a Danger(教会の再考―危機への対処)」をご覧ください。そこに私の答えがあります。
※英語のみのサイトなので要約すると、以下のようなことを書いています。
・ 本書を出版した際には反対意見がほとんどだったので、同じ立場の著者がいることは心強く、ありがたいこと。
・ 一方、懸念しているのは、彼らが既存の教会を否定して孤立してしまうこと。多くの人々がそのような道を進んでしまった。神の国を築き上げていくためには、先人とも協力して進んでいく必要がある。謙虚になり、反抗者となる誘惑に耐えてほしい。
翻訳者である私(松田健太郎)にも、同じことが告げられています。
この本とサイトが分裂を生むのではなく、読者に神さまからの気づきと導きを与えるものとなりますよう心から祈っています。
Q2. 批判する意見に関して:
フランクさん、あなたとジョージさんが『異教まみれのキリスト教?』を発表してから2年が経ちました。この本を賞賛するブログも批判するブログもたくさん読みました。私は、あなたが質問に答えるためにこのページを作ってくれたこと、そして特に、あなたがこの本について人々と討論できるようにしてくれたことに本当に感謝しています。批判している人のうち何人が、ブログでの討論に応じましたか?
2008年にこの本が発売されて以来、私に公の場で質問や反論への回答を求めた人はただ一人だけでした。彼は自分のブログにこの本に対する批判を書いて私に回答を求め、それを公開していました。誤解がないかどうかをまず著者に確かめずに本を批評するのは不誠実なことです。しかし、このようなことがよく起こります。実際、この本の批評のほとんどは、本全体も建設的な続編も読んでいない人たちによって書かれており、そのため内容を誤解しているのです。
Q3. リーダーシップに関して:
フランクさん、あなたの本や記事やメッセージに感謝します。この本は私の人生を変えてくれました。
さて、私にはあるブロガーをフォローしている友人がいるのですが、そのブロガーが、あなたはリーダーシップを信じていないと言っているそうです。私はあなたの本は全部読んでいるので、それが見当違いであることを知っていますが、私はあなたの反応を知りたいと思いました。それと、今後このような人たちと討論する気はありますか?
あなたが正しいです。ご存知のように、私の著書『Reimagining Church』の内容の半分以上はリーダーシップに関するものです(長老・牧師などに関するすべての聖書のテキストの釈義を含んでいます)。バーナと私が、ギリシア・ローマ時代やユダヤの世界にルーツを持つ伝統的なリーダーシップのあり方に異議を唱えたために、私たちがリーダーシップに反対していると考える人がいることには驚かされます。それは間違った思い込みです。
また、『Finding Organic Church』では、巡回して旅をする使徒的働き人がもたらすリーダーシップについて記しています。その本では、リーダーの定義についても述べています。
Q4.「不要なものと一緒に大事なものまで捨てている」という意見に対して:
フランクさん、私は友人たちに『異教まみれのキリスト教?』のことを教えましたが、彼らの反応は「バーナとヴィオラは多くの良い点を指摘しているが、彼らは湯水と一緒に赤ん坊も捨てている(不要なものと一緒に大事なものまで捨てている)」というものでした。このセリフを何度も聞かされたので、今度聞いたら叫びそうです。このセリフに対するあなたの答えは?
私たちが本当に守るべきなのは、ベツレヘムの赤ん坊、主イエス・キリストです。それ以外のものはすべて手放すことができますし、そのほとんどはがらくたのようなものです。私の価値観では、聖職者制度、階層的でビジネス的なリーダーシップ構造、プロテスタントの日曜礼拝の儀式、クリスチャンが教会の建物や諸経費に費やす何億円ものお金を「赤ちゃん」と呼ぶのはおかしいことです。
これまで私たち教会がしてきたことは、赤ちゃんではなく湯水のほうを大切にして残そうとすることだったように思えます。聖書学者ジョン・ゼンス/John Zensの言葉を借りれば、「私たちは、聖書に何の根拠もないもの(一人の人による働きを強調すること)を規範化し、聖書に十分な裏付けがあるもの(互いに高め合うこと)を切り捨ててきたようだ」 「私たちは、何の根拠もないものを高く評価し、十分な根拠があるものを軽視してきたのである」ということです。
しかし、あなたの質問については、改めて考えさせてください。😊
Q5.「都合の良い文献だけを用いている」という意見に対して:
あなたやジョージさんは、この本で指摘していることに同意する史料だけを使い、同意しない史料は除外しているという意見があります。これに対するあなたの回答は?
高名な歴史家であり聖書学者でもあるジョン・ゼンスが、この反論に完璧に答えています。私は彼よりもよい答えができるとは思いませんので、以下に引用します。
この問題は、『異教まみれのキリスト教?』がどのような本であるかということに尽きると思います。学問的な本は、考えうる限りの反論を提示し、その一つ一つに応答します(だからこそ、学問的な本は900ページにも及ぶことが珍しくなく、それを読む人はほとんどいないのです)。
学者以外の読者に向けて書かれた一般書は、このようなことはしません。『異教まみれのキリスト教?』は、学術的な本ではなく、意図的に一般的な信仰書として作られています(だから300ページ以下なのです)。ジョージと私が出した結論に反対する著作についてはよく知っています。しかし、私たちは彼らの主張に説得されたわけではありません。事実、この本に書かれていることのほとんどは、異なる適用をする歴史家たちによって受け入れられている歴史的事実なのです。
以下はゼンスの回答:
参考文献だけでも何百冊もの本があり、その多くは著者の結論に反対する学者や歴史家によって書かれたものです。例えば、フランク・センとグレゴリー・ディックスという二人の著名な典礼学者とその研究、つまり著者の結論のいくつかに反対する学者たちの研究に、本書は精通していることがわかります。さらに、彼らが使用した資料のかなりの部分は、聖公会やカトリックの学者たちによって書かれたもので、彼らが受け入れている様々な慣習が異教に由来するものであることを認めています。(バーナとヴィオラはさらに一歩踏み込んで、聖書的・霊的・実際的な根拠に基づいて、それらの慣習のいくつかに異議を唱えています。そして、そのような慣習を続けることが、イエスが願った通りの教会になるための助けとなるか妨げとなるかは、読者の判断に委ねられています。)
非常に単純に言い換えれば、他の人々が主張したことや反論したことを全て検証することは、この本の目的ではないということです。この点に関しては、まさに「はしがき」で述べられており、もし彼らがすべての反論を扱い、すべての慣習を詳細に追跡していたら(つまり 「学術的 」な著作にしていたら)、ほとんど人が読まないような、何巻もある高価な書籍になっていたことでしょう。『異教まみれのキリスト教?』がアメリカでベストセラーになった理由の一つは、一般の読者にも親しみやすい点にあると思います。
この本は、新約聖書のシンプルさから使徒時代以後の官僚主義的な組織への移行に関連する重要な問題を要約することに意を用いてきました。私は「教会」の問題を30年間研究してきましたが、『異教まみれのキリスト教?』は幅広い新約聖書神学者や教会史学者の基本的な結論(事実上の共通認識)を正確に反映している、というのが私の結論です。例えば、ジェームズ D. G. ダンは次のように書いて、『異教まみれのキリスト教?』で表されていることの本質をとらえているように思われます。「教会がますます制度と同一視されるようになり、権威がますます役職と同義になり、聖職者と信徒の基本的な区別はますます明白になり、ますます明確に形式化された儀式行為によって恵みが狭められるようになった。このような特徴は初代教会には見られなかったが、第二世代になるとその様相は変わり始めていた。」
(Unity & Diversity in the New Testament, Westminster Press, 1977, p.351)
Q6. 私たちの聖書(正典編纂)に関して:
新約聖書の書簡の配列に関しては良い指摘だと思いました。一方で、聖書の正典とそれがどのようにまとめられたかについては、どのようにお考えですか? 私たちが持っている聖書は信頼できると思いますか。
聖書の正典に関する私の見解は、聖書を構成する書物は神の霊感によるものであるということです。それらは真実であり、正確であり、完全に信頼できるものだと考えています。私の考えでは、聖書の正典に対しての批判は、多くの一流の学者によって反論されています。
以下は、私たちが使っている聖書に関するお勧めの本です。いずれも、私たちが持っている聖書は完全に信頼できるものだと主張しています。
F.F. Bruce, The Canon of Scripture ;
F.F. Bruce, Are the New Testament Documents Reliable?;
William Farmer & Denis Farkasfalvy, The Formation of the New Testament Canon;
Neil R. Lightfoot, How We Got the Bible;
C.F.D. Moule, The Birth of the New Testament;
Arthur G. Patzia, The Making of the New Testament;
Bruce Shelley, By What Authority? ;
Ben Witherington III, Sola Scriptura.
他にもたくさんありますが、これらを読めば見当がつくでしょう。
Q7. 新約聖書の順番と、章と節の区分がない聖書に関して:
親愛なるフランクさん、「新約聖書の再考察」の章(※本書の第11章)は本当に面白かったです。社会学者の「マーヴィン・スナードリー」の本に対する扱い方の例えは本当に心に残りました。新約聖書の手紙の順番と章と節の区分が、聖書を全体として見ることを難しくしていることに同意します。章や節を省いた年代順の聖書をご存知ですか?
いくつかあります。私のお気に入りは、『The Chronological Life Application Study Bible』 (Tyndale)と『The NKJV Chronological Study Bible』 (Thomas Nelson)です。
Q8.「婦人たちは教会では黙っていなさい」という聖書の言葉に関して:
あなたは、男女を問わず、すべてのキリストの体のメンバーが参加する開かれた集会について話しています。第一コリント14:33-34で、女性は黙っているように求められていますが、どのように考えていますか?
第一テモテ2章と同様に、この文章についての私の解釈は、「Reimagining a Woman’s Role in the Church(教会における女性の役割を再考する)」(※英語のみ)で読むことができます。
Q9. ミニストリーが金銭を受け取ることに関して:
聖書では、専門職としての聖職者を支持していないという点については同意します。しかし、ミニストリーが金銭を受け取ることについてはどうなのでしょう? あなたやジョージさんは著者として本の代金を受け取らないのでしょうか? そのことと、あなたが本の中で取り上げていることとの違いは何ですか? また、講演の際に謝礼を受け取ることはありますか?
この本の中で、私たちは非常に具体的なチャレンジについて言及しています。それは、地域の信徒たちの「聖職者」であることで給料を受け取る職業聖職者に関してです。私たちはこれに対し、聖書的・歴史的そして実際的な理由から異議を唱えています。
同じ理由から、ミニストリーを支援したいと思う人々からお金を受け取ることに関して何の問題もないと考えます。例えば新約聖書は、福音を宣べ伝え、エクレシアを育てるために旅に出ることに時間を費やす教会開拓者は、福音によって生活する権利があると教えています(第一コリント9章参照)。
さらに、私は個人的に世界中の貧しい人々を助けるいくつかのミニストリーを支援しています。そして、クリスチャンの著者が本などを制作する労働に対して報酬を受けることや、クリスチャンのミュージシャンが報酬を受け取ってCDなどを制作することに(※音楽配信をすることも)何の問題も感じません。(ちなみに、執筆を生業としている人は、かなり信仰によって生きていることを明記しておきます。リック・ウォレンやマックス・ルケードのように売れる本はほとんどないのですから。)これらのことはすべて、「信徒 」と呼ばれる非専門家の地域グループに奉仕するために給料をもらっている「職業的な聖職者」とは全く違うものです。
二つ目の質問ですが、私は講演者が講演料を受け取ることにも問題はないと考えています。しかし、私自身は謝礼を要求しないことにしています。パウロからヒントを得て、私は教会や交わりで奉仕するときはいつでも、神の民に請求したことはありません。彼らが寄付を望むならそれは構いませんが、決して要求することはありません。このテーマについてさらに考えるために、以下の3冊の本をお勧めします。
Roland Allen, Missionary Methods, Chapter 6 – Finance.
Watchman Nee, The Normal Christian Church Life, Chapter 8 – The Question of Finance.
Christian Smith, Going to the Root, Chapter 2 – Do Church Without Clergy.
Q10.「教会は腐りきっている」という意見に対して:
こんにちは、フランクさん。あるブログを読んでいたら、ユージン・ピーターソン/Eugene Petersonについて書かれていました。どうやらピーターソンは、あるカンファレンスで講演し「アメリカの教会は忌まわしいほどに腐りきっている!」と語ったようです。その批評では、ピーターソンが驚くべき預言者だと賞賛されていました。皮肉なことに、この同じ批評家は、あなたとジョージ・バーナさんが書いた『異教まみれのキリスト教?』を、いかに辛辣で大げさなものであるかと言って酷評していました。彼は自分の偽善に気づかないのでしょうか? なぜ彼は自分の偏見に気づかないのでしょうか? また、ピーターソンの発言についてはどう思いますか?
何とも言えません。「アメリカの教会は忌まわしいほどに腐りきっている!」というコメントは、『異教まみれのキリスト教?』で、ジョージや私が言ったことよりも辛辣です。この言葉を文字通りに受け取れば、すべての教会とすべてのクリスチャンをかなり手厳しく非難していることになります。
私は個人的に、ピーターソンは現代で最も才能ある作家の一人だと思っています。とはいえ、「アメリカの教会は忌まわしいほどに腐りきっている」という言葉には同意できません。拙著『From Eternity to Here』にも書きましたが、教会は世界で最も美しい花嫁です。神の目から見れば、彼女はまばゆいばかりにゴージャスで、罪がなく、聖く純粋です。そして、彼女の花婿であるイエス・キリストは、狂おしいほど彼女に惚れ込んでいます。しかし、現代の教会システムはそれとは別物なのです(多くのクリスチャンは誤って、エクレシアを宗教システムと混同しているのです)。
Q11. 第一コリント14:26に関して:
フランクさん。私はあるブログで、あなたとジョージさんは「議論の全て 」が第一コリント14:26にかかっていると言うが、この箇所は規範ではなく問題について述べているのだ、と言っている人を見ました。あなたはどう答えますか?
この反論は多くの学者によって否定されています。一流の新約聖書学者たちによる引用を含む詳細は、この記事(※英語のみ)をご覧ください。彼らは皆、第一コリント14:26についての私の見解を支持しています。
Q12. 紀元1世紀の教会とオーガニック・チャーチの違いについて:
私はあなたの本に関するいくつかの否定的なレビューを読んだため、正直に言うとこの本に関して懐疑的でした。しかし、購入して読み、とても気に入りました。私は、「革命家イエス」の章が最も素晴らしいと感じました。この本を批評する人たちに、この章を読んでもらいたいですね。
質問ですが、あなたやジョージさんは教会を紀元1世紀の古代の慣習に戻そうとしている、と思っている友人がいます(彼は本を読んでおらず、いくつかの書評を読んだだけなのですが)。本の中で、あなたは1世紀の教会についてたくさん触れていますが、オーガニック・チャーチについても触れています。その違いを明確にできますか?
また、この本全体を通して見られる引用文が大好きです。これを読めるだけで入場料を払う価値があります。
「革命家イエス」と題された章は、この本の中で私が一番好きな章でもあります。実のところ、本の内容に入る前にまずこの章を読むことをお勧めしたいとも思っています。私たちがどのような視点からこの本を書いているのかがわかるからです。
初代教会/新約聖書の教会/紀元1世紀の教会に関して、新約聖書を見たり、紀元1世紀の教会について読んだりするとき、私たちは文化的慣習と有機的慣習という2種類の慣習を見出し、それぞれは区別することができます。
文化的慣習とは、紀元1世紀の文化に結びついた慣習のことです。例えば、異邦人信徒たちはギリシア語を話し、聖書を持っておらず、奴隷たちが仕事の前に集まれるように早朝に会を持ち、夕方や早朝に集まるときにはたいまつを使って部屋を照らしていました。
有機的な慣習とは、教会のDNAに基づく慣習のことです。それらは新約聖書の神学を体現しています。私たちが 「1世紀の慣習 」と言うとき、それはしばしば 「教会の有機的な表現 」の同義語として使われています。これらの慣習は、時代や文化を超越した霊的原則の上に築かれています。例えば、すべてのメンバーがキリストの体として機能すること、キリストの体の一体性、真実で互いの顔が見える共同体、キリストの主権、万人祭司などです。
私たちが主張しているのは、現代の組織的な教会を構成している慣習の多くは、ギリシア・ローマ文化からの借りものだということです。それらは新約聖書の原則に根ざしていないだけでなく、多くの場合、教会のDNAを壊しており、キリストの体の有機的な表現にも反しています。多くは3〜5世紀にまでさかのぼるものであり、現代においては時代遅れなのです。
オーガニック・チャーチに関する私の見解と経験の詳細については、オーガニック・チャーチの記事(※英語のみ)をご覧ください。
Q13.「正しい教会モデル」に関して:
フランクさん、この本には本当に感謝しています。ちょうど読み終えたところですが、私の世界を揺さぶるような素晴らしい本です。
ところで何人かの人が、あなたとジョージさんはこれが教会における「唯一の正しいモデル」だと主張している、と批判しました。他のブロガーが、それはこの本が言っていることではないと訂正しましたが、彼らはそれを無視しているようです。私は本を読みましたが、あなたたちがこのようなことを言っているところは全く見当たりませんでした。なぜこの人たちは同じことを言い続けるのでしょうか?
これまでの否定的なレビューの中で、この本が実際に指摘している事柄に触れているものはなく、私やジョージと直接関わろうとするレビュアーは今のところ皆無です。また、否定的なレビューの半分以上は、この本全体や続編を読んだことがない人たちによって書かれたものです。
ジョージと私が、集会を行うための「正しい方法」は存在しないと信じていることは、あなたの言う通りです。私たちは、新約聖書の教会が現代の教会のように運営されていなかったことを指摘しているだけです。現代の組織的な教会のあり方が、1世紀の教会からの離脱なのか発展なのかは、読者の判断に委ねています。また、この本には解決策が意図的に書かれていません。それは続編である『Reimagining Church』以降で書いていることです。しかし繰り返しになりますが、ReChurchシリーズのこれらの本は、すでに組織的な教会形態から離れ(あるいは離れつつあり)、初代クリスチャンたちが集ったように集いたいと思っている人々のために書かれたものです。それ以外の読者は、これらの特定の本の対象外であり、範囲外なのです。
Q14. 批判する人たちに関して:
『異教まみれのキリスト教?』を批判するブログを読みました。一体その人は私と同じ本を読んだのだろうかとずっと疑問に思っているのですが、彼は牧師だとわかりました。彼は、あなたとジョージさんが過去にどこかの牧師に傷つけられたことがあり、それがあなたがこの本を書いた理由だと糾弾しました。答えを頂けますか?
いつかその方の読心術をお借りしたいものですね。😊
私は牧師や教会の指導者に傷つけられた経験はありません。実際、私が個人的に関係を持ったすべての牧師は、私を霊的に助け、支えてくれた方たちです。私はまた、2015年から牧師たちがより効果的なミニストリーを行えるようトレーニングしています。
The Insurgence Experience Mastermind(※英語のみ)をご覧ください。さらに、2010年以降に私が執筆した書籍は、牧師や制度的教会のクリスチャンからも大きな支持を得ています。教会論というテーマで牧師と意見が合わないことはあっても、それが私と牧師の関係に影響を与えたことはほとんどありません。
興味深いことに、聖職者制度にあえて異議を唱えた私の知人は皆、聖職者に傷つけられたのだと一度や二度は非難され、苦々しい、不満な心の持ち主として扱われてきました。現状に疑問を呈する勇気のある人を切り捨てたり、信用を失墜させたりするのに便利な方法のようです。個人的には、その方法がうまくいくのを見たことがありません。たいてい裏目に出ます。
聖職者制度について論じている間に、ジョン・ハワード・ヨーダー/John Howard Yoderの言葉を引用しましょう。彼の「一教会一牧師の聖職者職」に反対する洞察がいくつか含まれており、その多くは、ジョージと私が『異教まみれのキリスト教?』で述べているのと同じポイントを明らかにしています。
「宗教改革神学の主な関心事は、その基盤を揺るがすことなく、組織化された教会の再編成を正当化することでした。」
「すべての人間社会に共通する事柄の中でも特に確かなことは、人々の共同体は職業的な宗教家のために特別な地位を与えるということです。しかし、新約聖書のいずれかに、果たして上に挙げたようなことを想定した書物があるかどうか、考えてみてはいかがでしょう。一人か数人の人だけがその任を担って生計を立て、按手礼によって特異な立場となり、教会の定義の中心やその機能の鍵となるような特別な役職があるのでしょうか?聖書からの答えは、断固とした否定の『ノー』です。」
「教会における多様な役割は、単なるアディアフォロン(中立的な事柄)や表面的な意義しか持たない偶然の産物ではなく、恵みの具体的な働きであり教会の基準である、という結論は避けられません。」
「新約時代の共同体特有の本来の特質を失った教会は概して、聖餐の資格を持つ一人の宗教家という、通常の人類学的に普遍的なパターンに、再び従うようになりました。大体において、このパターンは、あらゆる形態と神学の教会において今日まで続いています。」
「まず、明確で確固とした説教の概念があるかどうかではなく、新約聖書には他のミニストリーと同じくらい明確に識別可能な、説教するという一つの特別な『職務』があったかどうかを問うてみましょう。最も多様に描かれているコリント人への手紙でも、多様ではない牧会書簡でも、そのように定義された特定の職務は存在しません。」
ヨーダー氏の言葉の引用
ところで、昨日、ウィロー・クリークの元牧師から連絡があり、この本について励ましたいと言われました。彼は、多くの人がこの本を絶賛している一方で、この本のせいで心臓の薬を飲まされている人もいる、と言っていました。彼は私を励まし続けてくれました。別の友人は最近、ある働きの中で学んだ 「BUT SOME(でもある人々は) 」現象について思い出させてくれました。もしBUT SOME現象が何であるかを知らないなら、ここにその例があります。
ルカ11:14-15「さて、イエスが悪霊を追い出しておられた。それは、物を言えなくする霊であった。悪霊が出て行くと、口のきけない人が物を言うようになったので、群衆は不思議に思った。その中のある人々が、『彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ』と言い」
ヨハネ11:45-46 「マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。しかし、そのうちの数人がパリサイ人たちのところに行って、イエスのされたことを告げた。」
マタ.28:17 「そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。」
そしてまた、
ルカ 23:5 「ところが彼らは、ますます言いつのってやまなかった、『彼は、ガリラヤからはじめてこの所まで、ユダヤ全国にわたって教え、民衆を煽動しているのです』。」
これは、伝統的な考え方に反対する立場の人への励ましの言葉です。それを評価する人もいるでしょうが、ある人々はそうではないでしょう。そして、あなたが好むと好まざるとにかかわらず、あなたが「民衆を扇動する」ことになる可能性は大いにあります。
それは宇宙の血流に書かれているかのようです。
セラ
Q15. 見当はずれな誹謗中傷に関して:
フランクさん、こんにちは。この本にはとても感動させられました。本当にありがとう。素晴らしい作品です。
さて、私はある人のブログをフォローしているのですが、彼はこの本を非難しています。教会堂に悪魔がいて伝統的なクリスチャンはすべて異教徒である、とあなたとジョージさんが信じているかのように思わせているのです! そのうえ彼は、あなたたちがこの本の中で指摘している多くの点を無視して、「フランクとジョージはそうした点を認めていない」と言って糾弾しています。
親切な言葉をありがとうございます。誰かが最近、「この本は伝統的な教会の遊び場に投下された爆弾なので、これを否定するためにはどんなことでも(不正な知恵をしぼってでも)する人がいたとしても驚かないように」と言ってくれました。
自分が否定し反対しているのと同じ精神に捕らわれ、それに気づかないということはよくあることです。教会の歴史がそれを証明していますね。
Q16. 制度的な教会の正当性に関して:
本書のはしがきの主張に、多くの人々が反応しています。「現代の制度的な教会は、自らが機能するための聖書的な正しさも、歴史的な正しさも持ち合わせていないということです」というのは、具体的にはどういう意味ですか?
これがその主張の全文です。
また私たちは、とんでもない主張をしています。それは、現代の制度的な教会は、自らが機能するための聖書的な正しさも、歴史的な正しさも持ち合わせていないということです。もちろんこの主張は、私たちがこの本で提示する歴史的な証拠に基づいた私たちの確信です。あなたはその主張が妥当かどうかを判断する必要があります。
『異教まみれのキリスト教?』はしがきより
私たちが使っている言葉が「聖書的な正しさも、歴史的な正しさも持ち合わせていない 」であることに注意してください。これはシンプルに、私たちが教会の制度的な形態と呼んでいるものに「聖書的」な正当性はないということを意味しています。そして歴史的に見ても、現在のような形態の教会は神から生まれたものではなく、人間の発明や伝統から生まれたものであることが証明できます。私たちはこの本の中でその歴史的証拠を示しており、それが覆されたことは一度もありません。
だからといって、現在の教会が邪悪であるとか悪いとか、罪深いとか役に立たないということではありません。また、その問題ゆえに神さまは教会を用いたことがないとか、用いていないということを言いたいのでもありません。私たちは本書の中で、私たちを主のもとに導き、洗礼を授けてくれた制度的な教会に敬意を表しています。
私たちが言いたいのは、私たちが制度的形態と呼ぶものには 「聖書的根拠 」がないということです。そして、私たちがこの本の中で主張しているように、その特徴のいくつかは聖書の教えと矛盾しています。
例を挙げましょう。私たちの時代の誰かが、「聖餐式を変えた方が良い」と言い始め、これからは、ぶどう液をドクターペッパーに、パンをフライドポテトに変えたとしましょう(6歳から10歳までの子供たち全員が拍手喝采するでしょうね)。さらに、イエス・キリストとその死と復活を覚える代わりに、ダビデがゴリアテに勝ったことを覚えてこれを行うのです。
この考えが広まったとしましょう。そして300年後、それはクリスチャンが聖餐式(聖体拝領)を行うときの普遍的な方法となりました。この習慣は、何の疑問も抱かれることなく、疑問視されることもありません。実際、ほとんどのクリスチャンは、それ以外の方法で聖餐式を行うことなんて考えられなくなりました。
さて、ドクターペッパーを飲んだり、フライドポテトを食べたりすることは道徳的に悪いことでしょうか?
いいえ。
ダビデがゴリアテに勝利したことを思い起こし、祝うことは悪いことでしょうか?
いいえ。
でも私は、イエス・キリストと使徒たちが主の晩餐に関して私たちに与えた(後世に伝えようとした)本来の意味と意図は完全に塗り替えられ、その本来の意味を空っぽにしてしまったと主張します。そして、主の晩餐で本来神が体現しようと思われていたものが何であれ、それは失われてしまったのです。
従って、この新しい方法で主の晩餐を行うことは、聖書的には何の意義もありません。別の言い方をすれば、この特別な形では、「聖書的にも歴史的にも、そのように機能する正統性はない 」ということです。
同じように、ジョージと私は、現代に継承された制度的な教会のあり方は、イエスと使徒たちの教えのうちにある新約聖書の「教会」の概念から大きく逸脱していると主張しています。そして、シンプルに問いかけているのです。 私たちはこの受け継がれた形態を支持し続けるべきなのか、それとも違うやり方を始めるべきなのか?
判断の一助になれば幸いです。
Q17. オーガニック・チャーチだけが正しいのかという問いかけに対して:
ここに挙げたいくつかの質問に答えていただきたいと思います。教会が持つべき唯一の集会は、皆が平等に分かち合う開かれた集会だと思いますか? 聖書は本当にそう教えているのですか? クリスチャンが教会堂で集会をすることは間違っていると思いますか? 初代教会が神殿や家庭で集会をしたことを否定しますか? クリスチャンが聖書から説教したり教えたりすることは、どんな時でもできないと思いますか?
これらの質問はすべて、この本自体と、(より詳しくは)『Reimagining Church』の中で答えられています。そして、その答えはすべて 「ノー 」です。
具体的には、新約聖書には以下の2種類の集会があったことを示しています。
- 使徒的な集会 – 誰かが一時的に聴衆に宣教し、備えを与える集まり
- 教会の集まり – すべてのメンバーがイエス・キリストを表すために機能し、参加する集まり
現代の教会の(ほとんどではないとすれば)多くでは、私たちが「教会」と呼んでいるものは、「ある意味で」使徒的な集会に似ています。けれどもそれは、一時的でなく終わりなく続き、神の民をかしらなるキリストのもとに集めて備えを与えるものとも言えません。そして、紀元1世紀の教会が持っていた「教会の集まり」は全く失われています。
今日、ほとんどのクリスチャンが「教会」と呼んでいるものは、通常一人の人の説教によって構成された宗教的な礼拝式/パフォーマンスです。私たちはこの本の中で、聖書的・歴史的根拠に基づいてこれにチャレンジを与えています。それが悪いとか、間違っているとか、神がそれを用いないということではありません。しかし、それがイエスの意図したことなのかどうかという観点に立った話なのです。
事実、私たちプロテスタントは500年前の儀式をほとんど変えずに繰り返してきました。しかしその中の何人かがそこを飛び出して、全く新しい世界を見つけたことを神に感謝します。
同じように、私たちは決して建物で集会をすることが悪いと言っているのではありません。(「建物」と典型的な「教会堂」は別物であり、私たちは後者の目的・機能・有用性を問うているのです。)
建物で集会をすること自体が悪いとは思いません。私たちはある章で、タルソのパウロが使徒的集会のためにツラノの講堂を借りたことを指摘しています。私自身、教会を立ち上げるために、あるいは教会のネットワークのために長時間集まれるよう、一時的に建物を借りて使徒的な集会を開いたことがあります。また、全メンバーがキリストの体として機能しやすいように教会堂を改築したこともあります。
エルサレムの教会は神殿を使うこともありましたが、多くの人が思い込んでいるような方法ではありませんでした。エルサレムのクリスチャンたちは、神殿そのものに集まっていたわけではありません。彼らは神殿の中庭(ソロモンの回廊)に集まりました。使徒的・伝道的な集会を開くために、ある期間そうしていたのです。これはエルサレム教会が誕生した頃のことです。また、アンティオケ教会の分裂問題に関して開かれた大規模な公会議にも使われました。
使徒たちも伝道のために会堂を訪れました。しかし、教会の集まりは町じゅうの家庭で開かれました。私たちはこの本の中でその点を指摘していますが、よく誤解されています。使徒的集会、伝道集会、そして教会の集まりがあるのです。また「働き」と「教会」の間には大きな違いがあり、私の著書『Finding Organic Church』ではその点を探究しています。
最後に、私は教会の集まりや使徒的集会・会議で説教したり教えたりすることには大賛成です。私自身もそうしています。この本で私たちがチャレンジしているのは、礼拝のあり方と現代的な説教の形です。現代の説教は、給料を支払われた牧師が同じ会衆に対して毎週終わりなく聞かせる、一つの演説になってしまっています。私たちは、歴史的・聖書的そして実際的な根拠に基づいて、これらのことに対して挑戦しているのです。
繰り返しますが、神は現代的な説教も用いることができますし、実際に用いておられます。しかし、それはこの本で私たちが問いかけていることではありません。
これで明確になると良いのですが。
Q18.「聖書的な教会」とは何を意味しているかについて:
「聖書的根拠」「聖書的でない」「聖書的でない慣習」という言葉の意味をもう少し明確にしていただけますか? この本に書かれているこれらの言葉は、一部の人々に大きな混乱を引き起こしているようです。彼らは、あなたが1世紀の教会を全面的に再現するような、ただ一つの教会のあり方だけを主張していると考えているのです。このことについて教えてください。
素晴らしい質問ですね!ほとんどの著者がそうであるように、私が執筆のために腰を下ろすとき(あるいはN.T.ライトが言うように、パソコンの前に座って 「血管を開く 」とき)、私が語りかけようと念頭に置いている聴衆はわずかです。
ジョージと私が『異教まみれのキリスト教?』を書いたとき、私たちの主な読者は、組織的な教会を離れた、あるいは離れつつある福音主義クリスチャンでした。カリスマ/ペンテコステ派も含まれます。そのためにこの本では、ジョージと私はその界隈で使われる言葉で語りかけています。
「聖書的根拠」「聖書的裏付け」「聖書的な価値」などの用語は、その伝統にあるほとんどの人々、あえて言うならプロテスタント全般のほとんどの人々がよく理解しています。
私は13年間、制度的な教会にいました。その間に、約12の異なるプロテスタント教派と5つの異なるパラチャーチ組織に属していました。どの教派も例外なく、自分たちの慣習は 「神の言葉に基づいている 」と主張していました。「聖書的」とか「聖書に基づく」といった言葉は、彼らの神学的・教会的語彙の大部分を占めていました。
人によっては、これらの言葉からさまざまな考えを思い浮かべるかもしれません。キリスト教会の教義で言うところの 「聖書の沈黙 」を思い浮かべる人もいるでしょう。この教義では、新約聖書に書かれていないことは行うべきではなく、新約聖書に書かれていれば、私たちはそれをしなければならないと教えています。(これは、改革派では「規制的原則」と呼ばれています。)
私はそのような教義には賛同していません。私の考えでは、これは生きるのに適さない教義であり、非常に律法主義的です。「文字は殺すが、御霊は生かす」とパウロは言いました。
また、私は 「聖書的青写真主義 」にも立っていません。これは、新約聖書の中に、メディアやペルシアの法律のようにはっきりとした、教会をする(doing church)ための鉄壁のパターンがあるという考え方です。
実際にはそのようなパターンは存在しません。歴史的に見ても、「型」があると信じ、それを実践すると主張した人々は、結局、日曜礼拝のことでバラバラに分裂することになりました。なぜなら、その具体的なパターンに全ての人が同意するわけではないからです。
しかし、新約聖書にはイエス・キリストとその教会に関する啓示が含まれていると私は信じています。この本の中で繰り返し述べているように(特に最後のほうで私たちは質問を投げかけています)、紀元1世紀の教会は有機的な存在でした。そして、私たちが教会と呼んでいるその生命体は、1世紀と同じDNAを今も持っています。
ですから、私たちが「聖書的」「聖書に基づく」「紀元1世紀の教会の慣習」「1世紀的な経験」「聖書的な価値」といった言葉を使うとき、それは新約聖書で語られ想定されているエクレシアという有機的な存在について言っているのであり、その特徴は常に変わらないのです。
重要なことは、本書ではあえて、意図的に、思慮深く、上記のことを詳しく論じていないということです。実際、私たちは本書の中で、新約聖書のオーガニック・チャーチの問題全体については、次の巻(2008年から世に出た[※日本語でも2025年の出版を目指している]『Reimagining Church』)で包括的に扱うと繰り返し述べています。
その本では、次のような質問に答えています。
紀元1世紀の教会において何が規範的で、何が文化的に相対的なのか? 新約聖書の教会論というものは存在するのか? 聖書の原則は21世紀にも通用するのか? また、物語的(ナラティブな)教会論とは何か?
とはいえ、私たちは『異教まみれのキリスト教?』で三つの大きなポイントについて取り扱っています。
- 私たちが今日教会で行なっていることの多くは、新約聖書に根ざしたものではありません。それはイエス・キリストや使徒たち、あるいは新約聖書の著者から生まれたものではないのです。また、その多くはユダヤ教から生まれたものでもありません。私は個人的に、教会の慣習の歴史は興味深いと思います。
- 今日、私たちが教会で行なっていることの多くは、ギリシア・ローマ時代の習慣(それゆえ「異教的」という言葉を使っています)や人間が作り出した発明に由来しています。
- これらの慣習の中には、神が教会を機能させるために設計された方法から、実際に教会を引き離しているものもあると私たちは信じています。
1000以上の注記がありますが、今日私たちが受け入れている教会の慣習が、新約聖書に見出されるものから「発展」したものなのか「逸脱」したものなのかは、読者の判断に委ねられています。
ですから『異教まみれのキリスト教?』は、物語の終わりではなく、始まりに過ぎません。新しい土台を築き新しいパラダイムを導入する前に、「がらくたを取り除く」ための道具なのです。
Q19. 誇張表現ではないかという意見に対して:
この本に対する非難の一つに、あなたとジョージさんが誇張表現を使っているというものがあります。それに対する反論は?
「誇張表現」とは何でしょう? その答えは、読者がどの視点から本を読んでいるかによって違います。一部の人々はそれを「誇張」と呼び、「預言的チャレンジ」や「物議を醸す議論」と呼ぶ人もいます。
ある時、友人が特定の本を「誇張表現で満ちている」と非難するのを聞いたことがあります。現在この友人は、その著者が自分の主張を立証したと感じています。何が起こったのでしょうか? 彼の思考に、最初に読んだ時にはなかった新たな理解が生まれたのです。
ある本が愛読されると同時に嫌悪されるとき、重要なのは、いわゆる「誇張表現」が信頼できる証拠に裏打ちされているかということです。もしそうなら、私はそれを 「誇張 」とは呼びません。
伝統的な教会の理解は私たちの思考に深く根ざしているため、現在の慣習を客観的かつ批判的に分析することは困難です。私たちが直面しているのは、一種の思考様式です。キリスト教の指導者たちが提案してきた解決策―もっと祈る、もっと説教する、もっと聖書を読む、もっと良い行いをするなど―これらはすべて、現在の教会の考え方が正しく、これに手を加えられるべきではないという「前提」に立っています。つまり、問題は私たちの思考や概念にあるのです。
こういう例はどうでしょう。私はある人と会話をしたことがありますが、その人は、教会とは神の民、顔と顔を合わせた共同体、その地域にいるキリストの花嫁そのものであり、建物でも教派でも宗教的な礼拝式でもないと理解している、と主張しました。
数分後、この同じ人が他の人に、「それで、あなたはどこの教会に行っているのですか?」と尋ねました。これは、この考え方がいかに根深いかを示す一例です。それは私たちの思考の回路に深く刻まれているのです。(「教会に行く」という考え方がどこから来たのか、それが新約聖書の教会理解とどのように相反するものであるかについては、この本をご覧ください。紀元1世紀の人々が「教会に行く」ことはありませんでした。彼らは集会に参加していましたが、それは互いに会うための教会だったのです。)
もう一つの例は、ある小さな教会の牧師と話をしていたときのことです。何人かの会員がリビングルームで彼と一緒にいました。彼は、「自分の会衆」が決断を下す前にどれほど彼の顔色をうかがわないかを話してくれました。彼は、「自分の会衆」がいかに自由であったかを説明しました。「自分の会衆」がどれほど彼にコントロールされていないか。また、彼にではなくイエスに依存していたのか。
興味深いことに、その場にいた全員が、何かを話す前に彼の様子をうかがい、話しながら彼のことを見ていました。牧師も彼らも、このことを全く自覚していなかったのです。そしてまた、新約聖書では、主ご自身を除いて誰も「自分の」会衆(民)という見方をしていなかったと、この本は主張しています。
繰り返しますが、聖職者の価値観は私たちの多くが想像する以上に根深いのです。(これは誇張表現でしょうか?)
このような価値観を打破する方法の一つは、真理を潔く、しかし妥協や希釈をせずに述べることだと思います。そうすれば当然、誇張している、高慢だ、傲慢だ、などと非難される可能性が出てきます。しかし、重要なのは「言葉が誇張されているかどうか」ではなく、「著者が自分の発言を理性と研究で裏付け、正当なものとしているかどうか?」だと私は考えます。
私たちがこの本で行なっていることの大部分は、有能で評判の良い歴史家・学者・神学者が語った多くの「誇張表現」を、その発言を裏付ける彼らの研究とともにまとめることであることを心に留めておいてください。
以下はその一部です。これらが「大げさな誇張表現」であるかどうか、ご自身で考えてみてください。文字通りに受け取るなら、私には確かにそのように見えます。
「『一般信徒(laity)』という言葉は、宗教の語彙の中で最悪のものの一つであり、キリスト教の用語から排除されるべきだ」(誇張表現では?)
カール・バルト
「聖職者と一般信徒を区別する伝統は、他のどの異端的な教えよりも新約聖書の権威を損ねてきた」(誇張表現では?)
ジェームズ D.G. ダン
新約聖書にある「エクレシア」、イエス・キリストにある交わりとは、人同士の純粋な共同体であって、制度が持つ特徴とは無関係である。したがって歴史的に発展した教会(それらはすべて制度的な性格を持っている)の中のどれか一つを真のキリスト教の交わりであると特定することは、誤解を招くことになるだろう。」(ひどい誇張では?「したがって」から後の部分をもう一度読んでください。)エミール・ブルンナー
「私はまた、それらの『サポートグループ』で行われていることは、現在教会で行われていることよりも、キリストがご自身の教会に意図していたものにはるかに近いと信じています。これらのグループには、建物も公的なリーダーシップもお金もありません。彼らには、慈善バザーも聖餐台も戸別訪問もありません。説教者も聖歌隊も、礼拝式も不動産もありません。信条もなく、プログラムもありません。彼らは、多くの教会にとって最善のことは、その建物を焼き払いすべてのお金を失うことではないか、と思わせます。そうすれば、人々に残されるのは神とお互いだけになるのですから。」(とんでもない誇張表現では?)
フレデリック・ビューチナー
「聖職者と一般信者の二元論は、宗教改革前のローマ・カトリックから直接引き継いだものであり、旧約聖書の祭司制度に逆戻りしている。これは、教会が今日効果的に神の王国の代理人となるための、主要な障害の一つである。なぜならそれは、「聖なる人々」つまり按手礼を受けた牧師だけが、リーダーシップと重要な奉仕の資格と責任があるという誤った考えを生み出しているからだ。新約聖書では、さまざまな種類の奉仕の間に機能的な区別は存在するが、聖職者と一般信者の間に階層的な隔てはない。」(これも誇張表現では?)
ハワード・スナイダー
「ますます多くの人々が、新たな理由で制度的な教会を離れています。彼らが信仰を失ったからではありません。彼らは信仰を保つために教会を離れているのです。」(誇張表現?)
レジー・マクニール
私には、「教会のすべての問題の解決策は、すべての牧師を撃って、すべての教会の建物を焼き払うことだ」と言うのが好きな友人がいます。それこそ私が「誇張表現の極み」と呼ぶものです。そしてもちろん、私はそれに同意しません。それは不適切な冗談です。
『異教まみれのキリスト教?』の潜在的な読者であるあなたへの、私のアドバイスはシンプルです。もしあなたがイエスを愛しているけれど制度化された教会を離れた人なら(または今その途上にいるのなら)、自分自身でこの本を読み、提示された議論と向き合い、注記を見て自分自身でそれらを調べてみてください。そして、私たちがしていることは誇張した表現で膨らませたものなのか、それとも確かな歴史的証拠によって裏付けられたことを言っているのかを判断してください。
ついでですが、『異教まみれのキリスト教?』の全体的な主旨を捉えた物語を詳しくお話しさせてください。それは基本的には、解決策を提供することを求めていない、教会の慣習と思考に挑戦する批判的・解体的な作品です。(解決策は、建設的な続編である『Reimagining Church』で提示します。)
母親と娘が一緒に、キッチンでイースターのディナーの準備をしていました。母親は毎年の習慣で、冷蔵庫からハムを取り出し、まな板に置きました。そして、ハムの両端を約1インチ切り落とすのです。母親がこうしたとたん、娘が止めて言いました。「お母さん、なぜハムの両端を切り落としたの?」
母親は手を止め、その質問について考えました。これまで誰もなぜそうするのかを尋ねたことなどなかったので、彼女は困惑していました。彼女は覚えている限り、常にそのようにしてきたのです。
母親は答えて言いました。「うーん、私も知らないわ。あなたのおばあちゃんはいつもハムの端を切り落としていたから、私もいつも同じようにしてきたの。私は一度も、どうしてか尋ねたことがなかったわ。おばあちゃんに電話して、なぜハムの端を切るのか聞いてみましょう。」
そこで彼女たちは受話器を取り、おばあさんに電話をかけました。母親は自分の母親に、なぜハムの端を切り落としてから鍋に入れるのかを知っているか尋ねました。おばあさんは沈黙しました。彼女はそれについて考えたことがなかったからです。彼女はただ「それは私の母がいつもそうしていたからよ。なぜそうするのか、おばあちゃんに電話して聞いてみてはどうかしら?」と言いました。
彼女は電話を切り、少女の曾祖母に電話をかけ、質問しました。「なぜハムの両端を切り落としてから調理したのですか?」曾祖母はすぐに答えました。「それは、ハムを入れるのに十分な大きさの鍋が手に入らなかったからよ。だから、それがおさまるように両端を切り落としたの。」
この話は、私たちが毎週日曜日に「教会」のために行なっている多くの慣習に当てはめることができます。(この時点で、私はかすかに誰かが反論する声が聞こえます…「こんな話をするなんてお前はけしからん。キリスト教徒は豚肉を食べるべきではないはずだ!」)
そして、議論は続きます。🙂
「一部の制度は、それを廃止するという発想自体がとんでもなく冒とく的だと言われるほどに、古くて由緒あるものに成長することが許されている」と言ったF.F. ブルースは正しかったようです。
Q20. 制度化や組織化の問題に関して:
あなたは教会の制度化や組織化に反対しているにもかかわらず、キリスト教出版社のようなものに関してはそれを受け入れているという非難に対してどう答えますか?
これは誤った解釈です。教会に関しての問題は 「組織化されているかどうか」ではありません。
問題は「その組織の源は何か 」ということです。その形態や構造が有機的なものなのか制度的なものなのかで、大きな違いがあります。私の体には形があり、高度に組織化されています。しかし、その組織は有機的なものであり、生命から湧き出るものです。
教会は人であると同時に神聖なものであると私は信じています。教会は生きていて、呼吸している存在なのです。それは信心ぶった慣用表現ではありません。現実です。この点については、『FROM ETERNITY TO HERE』という本で詳しく説明しています。
つまり、正しく考えられ実践される教会は、人間の制度ではなく生きた生命体なのです。
一方で、キリスト教出版社は、病院・学校・大学などと同じように、世の中のために用いられる組織・機関です。
神の民がその一員であるかもしれませんが、それは生ける神のエクレシアではありませんし、そのようなものと同一視すべきではありません。両者は全く別の存在です。少なくとも、そうあるべきだと思います。だからといって、クリスチャンがそのビジネスにおいてノンクリスチャンのように振る舞うべきだということではもちろんありません。単に二つの組織の構造が違うということです。
クリスチャンの組織には正当に社長や副社長などがいるかもしれませんが、イエス・キリストの教会には主権者は一人しかいません。主イエス・キリストご自身が言われたように、メンバーは「みな兄弟」なのです。
これらのことはすべて、『REIMAGINING CHURCH』の中で探究されています。
Q21. 多くの牧師たちを怒らせていることに関して:
フランクさん、この本は何人もの牧師たちを怒らせ、自己防衛的にさせ、非難がましくさせてしまいました。あなたとジョージさんが彼らを狂わせてしまったようです。でも、あなたたちは決して牧師を攻撃したわけではなかったはずです。あなたは単に現代の牧会職のルーツをたどっているだけであり、その論拠は揺るぎません。
その通りです。私たちは決して牧師を攻撃しません。前にも述べましたが、(2010年以降に出版した数多くの本の)読者の多くは牧師です。そして、私は神の国を前進させるために、彼らの多くと協力してきました。
神の国の指導者向けのhigh-level Mastermind(※英語のみ)も含めて。
私を勇気づけてくれることの一つに、昔、友人が話してくれた話があります。彼は飢え渇きを持ったクリスチャンで、主をもっと知りたいと願っていました。ある人が彼にウォッチマン・ニーの名著『霊の人(The Spiritual Man)』を渡しました。彼はそれを読むと、怒りのあまり壁に投げつけ、もう二度と開かないと心に決めました。
主がその友人を人生におけるさまざまな経験、中には非常に困難な経験へと導かれたとき、彼は再びその本を手に取りました。けれども今回は、全く別の新しい本として受け取ることができました。同じ言葉、同じメッセージ、同じ本。しかし彼は今、そのメッセージを受け取ることができる別の場所に立つようになったのです。
この30年間、この人はその本に書かれている霊的真理を説いています。
これと同じことが、『異教まみれのキリスト教?』を読んだ人たちにも起こっています。ある指導者は、私に謝罪の手紙をくれました。彼はその本が嫌いで、その本に反対する嘘を信じていたと言いました。その後、彼は教会や生活の中でいくつかの経験をし、その本を読み直しました。それは彼にとって全く新しいもので、大きな助けになったそうです。
これはよくあるパターンです。当初はこの本に対して否定的な反応を示す人もいましたが、何年にもわたって私たちが受け取ってきた圧倒的な反応は、信じられないほど肯定的で励みになるものでした。私はこのことに感謝しています。それは、私たちが本の中でこう言っているとおりです。「私たちがそれを書いた理由はシンプルです。 私たちは、主イエス・キリストが彼の教会のかしらとして完全に機能する場所を作るために、多くのがらくたを取り除くことを求めているのです。」
事実、何百万人ものクリスチャンが、自分たちの心が切望しているものを見つけるために、組織的な教会を去りつつあります。彼らの多くは、イエス・キリストとのより深い関係とエクレシアの「経験」を切望しているのです。アメリカには500万人から2000万人のクリスチャンがおり、その数は増え続けています。
最近の研究によると、アメリカでは毎年100万人のクリスチャンが組織的な教会から去っているとのことです。レジー・マクニールはこう言っています。「彼らは信仰を失ったから教会を去ったのではありません。信仰を守るために教会を去っているのです。」
私たちの本はこのような人々の多くに、彼らの決断の歴史的根拠だけでなく、彼らがなぜこのように感じるのかをも伝える言葉を提供しています。
Q22. 教会のリーダーシップに関して:
あなたは、教会にはリーダーシップがない方がいいと思っているのですか? 聖書はリーダーシップについて教えていないのですか?
いいえ、エクレシアにはリーダーシップがあることを聖書は教えています。私の友人であるハル・ミラーが言っているように、「リーダーシップは存在する。良いものも悪いものもあるが、リーダーシップは常に存在する」のです。
問題は、それがどのようなリーダーシップかということにあります。私たちがこの本で論じているのは、職務的でトップダウンの、序列的なリーダーシップです。例えば、現代の牧会者の役割の起源をたどるとき、私たちはその役職を新約聖書の羊飼い・長老・監督という概念と対照的に扱っていますが、私たちの見解では両者は全く異なるものなのです。
『REIMAGINING CHURCH』では、教会におけるリーダーシップについて詳しく説明しています。また、「カバーリング」「アカウンタビリティ」「権威」「服従 」の問題についても論じています。これらの問題については、カトリックとプロテスタントの両方の世界で一般的に教えられていることとは全く異なる見解を示しています。
Q23. 異教からのものを全て否定しているという評価について:
ある書評でこのように書かれていました。「彼らの概ねの結論は、もしある方法が1世紀の教会で使われておらず、キリスト教信者でない誰かによって考案されたものであるなら、それは今日の地域教会のミニストリーにはふさわしくないということだ。」
私はこの本を読みましたが、この書評には全く同意できませんでした。コメントをお願いします。
その通り、私たちはそんなことは言っていませんし、信じていません。私たちの主張は、聖書の教えと不調和であり、教会の本質と矛盾し、イエスの主権性に合致しない異教的慣習だけを再検討し、多くの場合、破棄すべきだということです。
この本の中で、異教の文化で発明されたカレンダーや、カーペットやイスを擁護しています。その書評で書かれていることは、「かかし論法 」として知られているものです。ある人はこの本を読んでいないから、ある人は誠実さの欠如から、このようなインチキな議論をします。他の人が読まないようにと、意図的に本の内容を偽っているのです。
Q24. ハウス・チャーチ・ムーブメントの関連性について:
ある書評家は、あなたとジョージさんが「ハウス・チャーチ・ムーブメントを推し進めて、信者を集めるためにこの本を利用した」と述べています。それは、あなたたちがこの本の中で行なっていることですか?
全く違います。まず、私は「ホーム・チャーチ・ムーブメント」が存在すると思っていないことを公言しています。(詳しくは、「House Church vs. Organic Expression」[※英語のみ]をご覧ください。)
第二に、私はハウス・チャーチ(あるいはホーム・チャーチ)の擁護者ではありません。私が提唱するのは教会の有機的(オーガニック)な表現であり、ハウス・チャーチとは違います。(ほとんどの 「ハウス・チャーチ 」は有機的ではありません。実際、私たちはこの本の中でそう述べています。)
私はよく、誰かに「ハウス・チャーチ」について説明するよう求めるのは、誰かに植物について説明するよう求めるようなものだと言ってきました。それほど多様なのです。
要するに、私は「ハウス・チャーチ」を何かの解決策として提案したことはないのです。本当は、もし私が家の教会と制度的な教会のどちらかを選ばなければならないとしたら、すぐにでも制度的な教会を選びます。しかし繰り返しますが、それは問題ではありません。重要な論点は、新約聖書が教会に何を求めているか? 神の教会観はどのようなものか? イエスの考える教会とは? にあるのです。
Q25.「歴史を否定するのか」という問いかけに関して:
ある人が、あなたとジョージさんは 「歴史が嫌い」で、歴史的な教会は使徒の時代以降何も良いことをしていないと信じている、と書いているのを見ました。どう思いますか?
繰り返しますが、本当にこの本を読んだ人はそのような感想を持つとは思えません。私たちは、たとえ彼らの教会論に異論があったとしても、使徒後時代以降のクリスチャンを繰り返し評価しています。
ジョージと私はこの本の中で、私たちの救いとバプテスマは制度的な教会で受けていると公言しています。ですから問題は、神が制度的な教会を用いることができるか、あるいは用いているかどうかではないということです。私たちは、神が制度的な教会を用いてこられ、また用いておられることを繰り返し認めています。しかし、良いことはしばしば最も良いことの敵です。また、神が祝福を与えていることは、神が全面的に承認していることと同じではありません。
キリストの体(※教会)は過去2000年間存在し、多くの分野でキリストの豊かさを世に現してきました。
たとえば私は、キリストに関する神学や洞察において、初期キリスト教の作家たちから多くを学んできました。教派となった多くのムーブメントも同様です。
私の考えでは、使徒時代以降のクリスチャンの多くは霊的に偉大な人々であり、私は彼らに大きな敬意を払っていています。しかしだからといって、彼らがすべての領域で完璧に物事を見通していたわけではありません。また、彼らの教会論が正しかったということでもありません。
制度的な教会の外側に立つクリスチャンたちは常にいました。彼らは急進的宗教改革者、血のわだち、巡礼者たちの教会、宗教改革の左翼などと呼ばれてきました。(※本書265ページ5.参照。)
偉大な神学者ユルゲン・モルトマンは、「教会の未来は宗教改革の左翼にある」と言いました。私たちの著書は、それが現実となる前触れとして見ることができます。ジョージと私は急進改革者たちと共に立っています。忘れ去られ、失われてしまった彼らの物語。そして、無視されてきたのが彼らの教会論なのです。『異教まみれのキリスト教?』『Reimagining Church』『From Eternity to Here』『Finding Organic Church』(the ReChurch Series)はすべて、その教会論を前面に押し出したものです。
Q26. 異教から来た慣習はすべて捨て去るべき?:
あなたの本は、異教に由来する慣習は邪悪であり捨て去られるべきだという立場を取っている、と思い込んでいる人もいます。私はこの本を読み、あなたが言っていることがそうではないことを知っています。何か明確になるような言葉を頂けますか?
実はこの本の早い段階で、これは私たちの主張ではないと書いています。カーペットや椅子・カレンダーを例に挙げ、これらの発明は異教に由来するものであるにもかかわらず、それを理由に破棄すべきではないと主張しているのです。
この本では、同じ理由でクリスマスやイースターも扱わないとしています。(それについては次の質問を参照してください。)
この本の第一の主張は、 「継承されている 」教会で今日私たちが行なっていることのほとんどは、イエスや使徒たちや神の直接の言葉から来ているのではなく、異教の伝統から来ているのだから、それを 「聖書的」と呼んだり神聖なものであるかのように扱ったりするのはやめましょう、というものです。(多くのクリスチャンは、これらのことが神の指で書かれたかのように振る舞っています。)
この本の第二の論点は、これらの慣習の多くが(すべてではありませんが)教会のDNAを壊し、イエス・キリストの主権性を妨げ、キリストの体の働きを抑制しているということです。また、万人祭司など、新約聖書の核となる教えの多くとも矛盾しています。
私たちの最終的な目標は、主イエス・キリストの中心性・至高性・卓越性・主権性を教会に再び回復させることであり、これこそ私たちが繰り返し述べていることなのです。
Q27. クリスマスやイースターに関して:
『異教まみれのキリスト教?』では、現代の教会を形成している異教の伝統の多くを取り上げていますね。しかし、クリスマスやイースターのようないわゆる 「キリスト教的 」祝祭日については、異教的なルーツがあるにもかかわらず、全く触れていないのはなぜですか?
この本が範囲とするのは、キリストの体の機能を妨げ、キリストの主権を抑圧する教会の慣習を扱うことです。
そのため、私たちが日常的に使っている西洋の暦(※Januaryなど月の呼び方や曜日の名称は、異教の神話から来ています)については取り上げていません。また、教会の礼拝でよく使われるカーペットや椅子も、異教の文化で生まれたものですが扱っていません。私たちがこれらを取り上げないのは、単にそれらがキリストの体の機能や主権の妨げになるとは思わないからです。
クリスチャンがキリストの誕生と復活を祝うようになった背景の歴史は知っていますが、それを聞くたびに、私はあくびをしてしまいます。私たちの霊的な祖先は、異教徒の隣人によって伝統的に神聖に保たれてきた特定の日をイエス・キリストのために買い取ることで、異教徒と張り合うことを選びました。
クリスチャンたちは、異教徒の祝いに付き合うのではなく、自分たちの主をたたえるために同じ日を選んだことは歴史上明確です。それは異教に対する証であり、「日を贖う」方法でした。
私はこのことに何の問題も感じません。(もちろん、サンタクロースやイースター・バニーを宣伝することが、イエスの誕生と復活を祝うことだと言っているわけではありません。それらはキリスト教のクリスマスやイースターの意味とは何の関係もありません。私が言っているのは、この二つの祝日をイエスが栄光を受けるべきイベントとして祝うということです。)
これは、マルティン・ルターやウィリアム・ブースが、異教徒によって作られたメロディーにキリスト教的な歌詞をつけることによって救いを与えたのと似ています。私たちクリスチャンが日常的に歌っている古典的な賛美歌の多くが、もともとは異教の曲だったことをご存知でしょうか? 繰り返しますが、私個人はこのことに何の問題もないと思っています。
従って、ある特定の日や曲調に儀式的な邪悪さがあると考えるのは、よく言っても迷信的です。さらに言えば、実はそのような考え方こそが異教的なのです。
神の民がイエス・キリストの誕生・死・復活を、なぜ・いつ・どのように覚え祝うかは、個人の良心の問題です(ローマ14:1-6)。ですから、私はこれらのことを取り上げる重荷を感じたことはありません。私は、非律法主義者であったパウロが、特定の日を守ることに関して下した結論に賛同します。 「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。」
クリスマスの問題については、「Should Christians Celebrate Christmas?(クリスチャンはクリスマスを祝うべきか?)」(※英語のみ)という記事をお勧めします。
Q28. 文化への適応は認められないのかということに関して:
ある人が、この本の欠点は、背景となる文化の記述が不十分で、何が適切な聖書の適用に反して文化への迎合となっているのかがわからないことだと指摘しています。これは公平な評価でしょうか?
私たちはこの本の中でこの問題を取り上げています。繰り返しになりますが、私は特定の異教的慣習を福音化することには大賛成です。
しかし、福音化することのできない慣習もあります。それは福音の核心を破壊し、三位一体の神から流れ出る教会の有機的性質に反するものだからです。
この点に関しては、F.F.ブルースの言葉が適切です。
「福音を新しく表現し直すことは、新しい言語への翻訳と同じくらいどの時代にも必要なことです。しかし福音の再表現と称してあまりにも多くのことが行われると、福音そのものが消え去り、その結果、パウロが「実際にはまったく福音ではない別の福音」(ガラテヤ1:6~ ※NIVからの翻訳)と呼んだようなものが生み出されます。キリスト教のメッセージが、この世の価値観に迎合し、この世の価値観の表現の一つとなったとき、それはもはやキリスト教のメッセージではなくなります。」
疑問:なぜ、プロテスタントやカトリックの神学に疑問を持つのは良いのに、プロテスタントやカトリックの教会論に疑問を持つのは異端と呼ばれるのでしょうか?
Q29. するべきことが具体的に書かれていない理由について:
この本を読んでもいない人たちが、あなたとバーナは人々に何をすべきかを説いていると言っているのを読みました。私はこの本を読みましたが、そのようなことは書かれていませんでしたし、正直なところ、具体的な指示がなかったので少しいら立ったくらいです。何か見落としていたのでしょうか?
いいえ、何も見逃していませんよ。あなたは確かにこの本を読んでくださったのですね。😉 読んでもいない本についていろいろと判断するのは簡単ですが、文脈に即した具体的な指摘に対して実際に対話するのはもう少し骨が折れます。
その点に関して、最近友人が『異教まみれのキリスト教?』に関する二つのブログの書評を読んだと言っていました。彼らがしていたのは、他の一人か二人のレビュアーが書いたのと全く同じ分析をただ繰り返すことでした。彼らはこの本を完全に誤って受け取っており、そしてその誤った情報に対して反論していました。
これを哲学の世界の言葉で 「かかし論法 」と呼びます。
ある本が気に入らないとしましょう。その本を読んでいる間、あなたはとても動揺し、両耳から吹き出す湯気のために、すべての点に注意を払うことが難しくなります。その後、あなたはその本の書評(レビュー)を書きますが、著者の主張を誤って伝えてしまいます。そこであなたは、この本にはさまざまな問題があると指摘します(著者自身は書いていないことに対する指摘です)。
そして、あなたは聴衆の目の前でその問題を論破していくのです。自分で本を読んでいない人は、あなたが著者の議論を論破したと思うでしょう。しかし実際には、あなたはそのように見せかけただけだったのです。
これは意図的に行われることもあります。また、人々が不注意に作品を読み、故意にせよ無意識にせよ、要点を見落とした結果起こることもあります。
『異教まみれのキリスト教?』を書いたとき、私たちは人々に「何をするべきか」を教えないと決めました。その代わりに、彼ら自身に決断してもらいたいと考えたのです。
もう一つ、考えておくべきことがあります。私たち西洋のクリスチャンは、早くて簡単な解決策を求めています。「電子レンジの”強”で3分、水を加えてかき混ぜる」というのが私たちの考え方です。しかし、問題を完全に理解していなければ、有効な解決策を導き出すことはできません。
現在の教会の問題を扱うとき、次に進むべき道を理解するには、マンモス級のパラダイム・シフトが必要です。今、私たちがはまっている教会の現在のパラダイムは深く、その考え方は手ごわいのです。私たちが今日教会で行なっていることに疑問を投げかけるだけで、一部の人々が敵対的な反応を示すのは、それがいかに根深いものであるかを証明しています。
Q30. 神の主権に逆らっているのではないか?
あなたとジョージさんが教会の慣習の歴史にチャレンジすることが神の主権に逆らっているという非難に対して、あなたは何と答えますか?
その主張は本当に理解できません。ルターやメランヒトンが当時の教会に異議を唱えたとき、神の主権に逆らったり否定したりしていたのでしょうか?
ディートリッヒ・ボンヘッファーが当時の教会で起こっていたことに異議を唱えたとき、神の主権に逆らったり否定したりしましたか? イザヤ、エレミヤ、ゼカリヤ、エゼキエル、ダニエルが、イスラエルが今歩んでいる道について預言したとき、神の主権に逆らったり否定したりしたのでしょうか?
(ここでポイントを外さないでください。私は、ジョージや私がこれらの人々に匹敵する存在だと言っているのではありません。私はただ、彼らが神の主権的な計画の中で活動していたことを示しているだけなのです。)
私は神の主権を固く信じています。しかし、その主権には、神の民が神の思想から外れてしまったときに、神の思想に立ち返らせようとする預言者の声も含まれます。(それが預言的ミニストリーの本質です。)
ですから、教会に異議を唱えたり、長年の伝統に修正をもたらそうとする人を見ても、私はそれを神の主権に対する挑戦とは見なしません。私は、その声が主のものであり、聖書に沿ったものであるかどうかを判断します。そしてもしそうであれば、それはこの世界における神の主権の働きの一部なのです。
Q31. 紀元1世紀の教会を美化している?:
紀元1世紀の教会を美化して描いているという意見に関してどう答えますか? 初代教会も多くの問題を抱えていたはずでは?
私の答えは、そのような結論を下す前に、私の著作をちゃんと読んでほしいということです。私は1世紀の教会の問題点についてもかなり書いてきました。それらは、今日、本物のオーガニック・チャーチが直面しているのと同じ問題です。
新約聖書の大部分は、第一級の危機にある教会に向けて使徒的働き人(教会開拓者)が書いたもので構成されている、と私は(一度だけでなく何度も)公言してきました。それは初代教会を美化しているとはとても言えません。
Q32. コンスタンティヌス帝についての記述が足りない?
教会と国家を結びつけたコンスタンティヌスが、教会の政治的展望に与えた影響について、なぜもっと踏み込まなかったのですか?
簡単に触れていますが、理由の一つはスペースです。この本はすでに300ページを超えています(※英語版。日本語版は脚注や付録をサイトで公開することにしたため、短くなっています)。
もう一つの、より重要な理由は、他の人たちがこの問題を適切に扱ってきたからです。スチュアート・マレーや急進的な正統派というような人々は、コンスタンティヌス帝が教会の政治に及ぼした影響について強力な主張を展開しています。
ジョージと私が『異教まみれのキリスト教?』で行なったのは、この議論をさらに一歩進めて、この同じ影響が私たちの教会論の多くにどのように及んでいるかを示すことでした。
どういうわけか、マレーが書いたことに賛同する人たちの中には、ポイント同士を結び付けてさらに一歩進めるということが難しく感じる人たちもいるようです。
Q33. 紀元1世紀の教会を復活させようとしている?
あなたが、紀元1世紀の教会を現代に復活させようとしていると考えている人たちもいます。それはあなたとジョージさんが主張していることですか?
全く違います。私たちはこの本の中で、そうではないことを明らかにしています。アレクサンダー・キャンベルのリバイバル・ムーブメント(現代の「キリストの教会」)とプリマス・ブレザレンは、どちらも19世紀半ばに誕生し、まさにそれを試みました。そしてどちらのムーブメントも、結局無数の派閥に分裂することになったのです。
新約聖書の教会をもう一度生み出すことは、私たちが目指しているところでは全くありません。その代わりに私たちは、この本の建設的な続編の中で十分に探究されている教会の有機的(オーガニック)な性質について、簡単に説明しています。
Q34. 注記に関して:
今回の改訂版でも脚注(※日本語版はサイトにて注記を公開)を残してくれて本当にうれしいです。歴史は本当に魅力的です。ただ、脚注に記したいくつかの項目は本文の方に入れてほしかったですね。脚注を残すことについて、ティンダル社から苦言を呈されませんでしたか? 今日、ほとんどの出版社は著者に巻末注を使うよう求めますから。でも、私はあまり好きではありません。
このような本では、脚注は力強いだけでなく、あなたがおっしゃるように魅力的だと思ったからです。
ティンダル社が承諾してくれてよかったです。歴史がお好きなら、ルター、カルヴァン、ウェスレー、初期の教父たちなど、過去の偉大な指導者たちの多くについて、脚注は驚くべき情報を提供してくれます。
Q35. 分裂を生み出しているという非難に対して:
あなたやジョージさんが神の国の分裂を作り出していると非難する人もいるでしょう。それに対してどう答えますか?
そのような非難は、現状に異議を唱える人やグループに対してなされるものだと思います。
私たちが言っていることが正当で、聖書的にも霊的にも歴史的にも理にかなっているかどうか、また、私たちが分裂の精神を持っているかどうかについては、人々が自分でこの本を読み、自身で判断してほしいというのが私の願いです。
その一方で、この本が親切な口調と精神で書かれていることについて、多くの人々が私たちを称賛してくれていることに励まされています。
実際、ある大手クリスチャン出版社(この本の出版社ではありません)のトップ編集者は、この本が「牧会的」であり、人々の手を取り、親切な心で議論しつつ歩んでいると感じたと個人的に語ってくれました。しかしそれは、キリストを中心とした預言的な側面は保っていました。
私たちはこの本の初めと終わりで、分裂を引き起こすためにこの本を使わないようにと警告しています。
Q36.「辛辣すぎる」という意見に対して:
最近、あなたとバーナが「プライドが高く」「辛辣で」「怒りっぽい 」という非難を読みました。この人はあなたの他の本を読んでいません。しかし、『異教まみれのキリスト教?』にも、あなたたちが書いた他の本にも、プライドや辛辣さは見当たりませんでした。私にとって、この本と他の数冊は、A.W.トーザーの本のように直接的で預言的に書かれたものでした。あなたのコメントが聞きたいです。
私の唯一の疑問は、私たちの心にこの邪悪な動機を植え付けたこの人物は、カタログにある私の他の本と同様に、この本全体を実際に読んだことがあるのだろうか、ということです。
もし私たちが高慢な精神で書いたのだとしたら、神さまはそれを許されないでしょう。神は高慢な者を退け、謙遜な者に恵みをお与えになることを、私は痛感しています。しかし、高慢と伝統に挑戦することを同列に扱うのはどうかと思います。高慢は心の動機です。人は何かに対して大胆に挑みかかり、その一方で謙遜であることができます。トーザー/Tozerはその好例です。ウォッチマン・ニー/Watchman Neeや、T. オースティン=スパークス/T. Austin-Sparksもそうです。
『異教まみれのキリスト教?』が古い預言文学のスタイルで書かれているという点で、あなたは正しいでしょう。トーザー/Tozer、レイヴンヒル/Ravenhill、ウィルカーソン/Wilkersonなどもその例です。預言者的なスタイルを理解しない人々は、彼らに対しても恨みと怒りの動機を向けました。おそらく私たちも同じ目に遭っているのでしょう。
皮肉なことに、ある読者たちは、私たちが弱気すぎると言いました。訳がわかりませんね。
私は、制度的な教会で何年も過ごしましたが、その多くが退屈であっただけで、私を傷つけたり、恨みや怒りを引き起こすようなことはありませんでした。
要するに、今の教会を楽しんでいて、何も変える必要がないと感じている人は、この本を読むべきではないということです。
これは彼らのために書かれた本ではありません。繰り返し言いますが、私たちはこの本を、牧師や典型的な日曜礼拝を楽しむ人々のためには書いていません。彼らはこの本の読者ではないのです。
この本には1000以上の脚注があります。私たちは読者に、私たちがいい加減なことを言っているわけでも、机上の空論を述べているわけでもないことを知ってほしかったのです。
ティンダルの編集者はスタッフとともに、すべての脚注に目を通し、それらが一致し、妥当であることを確認しました。これは大変な作業でしたが、とても役に立ちました。注記は私たちの結論を裏付けるだけでなく、議論にさらなる光を当てるものですから。
この本は、著名な学者や歴史家たちからも支持されています。ロバート・バンクス/Robert Banks、ハワード・スナイダー/Howard Snyder、ジョン・ゼンス/Jon Zensなどです。
Q38. この本を出版したことで起こった迫害について:
この本を書いたあなたたちの勇気に拍手を送ります。あなたもジョージさんも、本当によくここまでやって来られましたね。決断は難しかったですか? 多くの批判を浴びることはわかっていましたか?
私は人気者になるために生まれてきたわけではありません。ええ、この本が不当に攻撃されることはわかっていましたし、人々が読まないように説得しようとする人がいることもわかっていました。すべては神さまの御手の中にあります。神さまは、私たちにただ忠実であるよう求めておられるのです。
宗教的伝統に挑む者は、無慈悲に反対する者にとっては格好の餌食です。そのような領域に足を踏み入れるのであれば、自分の血を見ることに慣れる必要があります。
これに関連して、この特別な著作を歴史的な観点から見ることは重要です。もし同じ本が500年前に出版されていたら、私たちは串焼きにされるか、オリーブオイルで茹でられるか、あるいはもっと残酷な運命をたどったことでしょう。
だからこそ、この本は、神の家で人間の伝統に屈することを拒否したために命をささげた、恐れを知らぬ魂たちにささげます。私は誇りをもって、彼らの系譜に立ちます。
ちょうど、ピーター・フーバー/Peter Hoover著『The Secret of the Strength(強さの秘密)』を読みました。アナバプテストの物語です。私たちは、彼らの系譜に立ちます。
ある意味、ティンダル社がこの本を出版することを選んだのはふさわしいことです。ウィリアム・ティンダル/William Tyndaleに何が起こったかを読めば、そのコメントが理解できるでしょう。
ティンダルは 「異端者 」として糾弾されました。彼は絞殺され、その遺体は神の名のもとに火あぶりにされました。すべては、彼が主の目から見て正しく真実であると信じたことのために、評判の悪い立場をとったからです。(勇気を持って私たちの本を出版してくださったティンダル・ハウス出版に、私は感謝しています。)
私には、キリストの体における指導者でありながら、教会論の問題で意見が合わない友人たちがいます。そのうちの何人かは牧師や福音派の学者であり、何人かは聖公会の主教や学者です。私は、彼らが信仰の様々な分野で行なっていることに強い関心を持っています。彼らの教会論に対する私の意見の相違は、私たちの友情にも、彼らに対する私の尊敬にも影響しません。神の国は、私たちの教会論的見解よりもはるかに大きいのです。また、キリストの体も同様です。
私は、互いに意見の異なるクリスチャンには、敬意と慈愛を持って、公平に意見の相違を表明してほしいと願っています。確かにそうです。彼らのような人たちが増えますように!
このことについては、『ReGRACE』という本に詳しく書きました。
おそらく、神の民の多くが、恵みと平和の精神をもって意見の相違を認める日が来ることでしょう。
Q39. 教会にリーダーが必要か?
フランクさん。ある書評を読んだのですが、その人は、皆が分かち合い、宣教し、クリスチャン同士が互いに配慮し合うような集まりを持つためには、教会にリーダーがいる必要があると主張していました。彼は、「バーナとヴィオラは、クリスチャンが何事にも献身するに違いないと過大評価している。羊飼いがいなければ、羊は死ぬだけだ」と言っています。あなたはどう答えますか?
このような考え方や思い込みが、この本を書いた理由の一つです。それは私たちが想像する以上に根深いものです。恐怖と無力感の上に成り立っている現代の聖職者のための雇用保障です。
私が初めてキリストの主権のもとで有機的(オーガニック)な集会を始めた1988年以来の私の経験や、教会の有機的な表現で集会をした数え切れないほどの友人たちの経験から言えることは、神の民は備えがあれば、キリストの主権のもとでキリストの体としてうまく機能できるということです。
『FINDING ORGANIC CHURCH』では、タルソのパウロがどのようにして教会を立ち上げ、パウロが不在の間、また地域教会の牧師がいなくても機能するように神の民を備えていったかをたどっています。このようなことは現代ではできないと言う人もいますが、経験はそのような主張を覆します。パウロの教会開拓の方法に倣う現代の使徒的働き人たちは、それを成し遂げているのです。
Q40. 「二次資料では信用できない」という意見に対して:
あなたの本は二次的な資料を使っているので、真に受けることはできないと言う人もいます。私が読む本のほとんどは二次資料を使っていますので、これは問題とは思いません。
その通りです。ソースが正確である限り、二次資料は完全に正当です。また、私たちが一次資料を使わないというのは間違いです。使うこともあります。しかし、二次的な情報は一次的な情報源についての説明を提供してくれるので、私たちはそれを使っています(ほとんどの出版された本がそうであるように)。また、それらの二次資料の説明には、しばしば一次資料が含まれています。
もし私たちが学者に向けて書いているのであれば、もっと多くの第一次資料を使ったでしょう。しかし、この本は学者のために書かれたものではなく、二次資料が役に立ちます。それゆえ、私たちはそれらを含めました。
特筆すべきは、この本が2008年に出版され、現在に至るまで誰も論破に成功していないことです。何人かは試しましたが、彼らの主張は否定されました。(その例として、リンクの中の公開討論[※このリンク先のページ中央にある「フランクとジョージへインタビュー」の項、英語のみ]をご覧ください。)
Q41. 教会のルーツはユダヤ教だと信じる人たちへ:
「今日の教会は異教からではなく、ユダヤ教からその習慣を受け継いだと信じている。つまり、この本の前提が間違っている」と言ってこの本を読まずに拒絶する人に、あなたは何と言いますか?
そうではないことが歴史的に証明されています。そのような人々への私のアドバイスは、著名な歴史家たちによって私たちが提示した証拠を見てみることです。単に「そんなわけがない、真剣には受け取れない」と言ってこの本を読まないなら議論にならず、私たちが提示している歴史的資料にも触れていない人の主張と同じです。
最近、私の友人が私に言いました。「フランク、この種の反応は、『事実によって混乱させないでくれ』と言っているようなものだ。 」
ジョージと私は、この本を読んだことがない人、あるいはその内容をひどく歪曲して伝えている人たちをまともに相手にしません。誰も相手にすべきではありません。
Q42. 「指導者に従いなさい」という聖書箇所に関して:
第一テモテとヘブル人への手紙にある、指導者に従うことについての聖句をどのように扱いますか?
これらの質問はこの本の中で扱われています。しかし、『REIMAGINING CHURCH』でも詳しく書かれています。その巻の最後には丸々1章分、反論とそれに対する私の回答があります。聖職者制度を正当化するために人々が通常使う箇所には、すべて回答しています。
Q43. 制度的な教会の牧師にこの本を読ませるべき?:
フランクさん、この本を読み、それに同意しながらも、制度的な教会の牧師やその会衆の人々にこの本を渡す人たちに、あなたは何と言いますか?
私は絶対に反対です。それはこの本の誤用です。この本の冒頭で、私たちは「反抗的な心」を持っている人たちに、教会で分裂を起こさないようにと注意しています。もし彼らが教会を去るなら、静かに去るべきで、誰も連れて行くべきではありません。
私たちが書いたことを発展させた私の記事「How (Not) to Leave a Church(教会を離れる[離れない]方法)」をご覧ください。
繰り返しになりますが、この本は決して牧師や教会という組織形態を楽しむ人々に向けて書かれたものではありません。そのような人たちに私たちの本を読ませることは、本の重大な乱用です。カントリー・ミュージックが好きな人にクラシック・ロックを聴かせようとするようなもので、間違った読者、間違った使い方なのです。
Q44. 教会が嫌いなのですか?:
あなたやジョージさんは教会が嫌いなのだと考える人たちに、何と言いますか?
私たちがこの本を書いたのは、教会を愛しているからです。私はエクレシアを愛し、その美しさを解き明かすことで国際的に知られている作家であり、講演者です。教会は世界で最も美しい女性であり、その内にある栄光は語り尽くせないほどです。
ちゃんと考えることができる人であれば、特に『FROM ETERNITY TO HERE』を読めば、誰もがこの結論に至るでしょう。
あるパネルディスカッションのために、さまざまな教派の牧師たちと一緒に座ったときのことです。その中に英国国教会の牧師がいました。彼は、ジョージと私が教会を嫌っていると聞いていました。しかし彼は『From Eternity to Here』を読み、その後には、牧師たち全員の前で「この人は本当に教会を愛している人だ!」と言ったのです。
私もその場にいたのですが、それは私にとっても絶大な励ましの言葉でした。
Q45. 日曜日に集まるのも異教の習慣では?:
クリスチャンが日曜日に集うことの異教的起源については話さないのですか? 初代クリスチャンもパウロもイエスも、律法が命じているように安息日に集会を開いていましたよね?
初代教会が安息日に集会を開いたことを示す証拠は何もありません。
実際に、少なくともいくつかの初代教会の集まりは週の初めの日に行われており(使徒20:7、第一コリント16:2)、それはキリストがよみがえられた日です(マルコ16:9)。それにもかかわらず、パウロは安息日についての理解を明確にしています。
その理由は、初代クリスチャンが旧約聖書のイスラエルと神の関係を古い創造の一部と見なしていたからです。キリストにあって神は、ユダヤ人と異邦人を切り離していた敵意(律法)と隔ての壁を打ち砕き、彼らをひとりの新しい人…新しい人類…すべての肉体的な違いを超えた新しい人に造りかえてくださったのです(エペソ2:14-16)。
その結果、初期のクリスチャンたちは週の初めの日に集まり、自分たちが新しい創造の一部であることを示しました。新しい契約のもとでは、教会が集まるのに「間違った」日はありません。
パウロにとって、律法はイエス・キリストの影でした。ですから、安息日は私たちの安息であるキリストの姿だったのです。このような理由から、パウロはコロサイ教会に対して、毎年の祭日、毎月の新月、毎週の安息日を守ることについて、誰にも自分たちを裁くことを許さないように言いました。これらのものはすべて、イエス・キリストの影にすぎません(コロサイ2:16~)。キリストという現実がある今、影はもはや必要ないのです。
ヘブル人への手紙の著者も同じ意見です。律法には新しい契約の影がありました(ヘブル10:1)。そして安息日は、神の安息すなわちキリストご自身の影でした(ヘブル4:4-10)。ですからクリスチャンは、神殿に集って動物のいけにえをささげる必要がないように、安息日を守る義務はありません(文字通り)。これらの慣習は、キリストにおいて成就し実現した神の計画だったのです。その結果、クリスチャンはいつでも好きな日に自由に神に仕えることができます。地上の影を守らなければならないという束縛はありません。
この議論は、1世紀のとある教会でも存在していました。ローマの教会にはユダヤ人と異邦人がおり、異邦人は律法からの自由を知っていました。ですから、彼らには安息日を守る義務はありませんでした。しかし、ユダヤ人たちは安息日を守ることが必要だと感じていたのです。
このジレンマに対するパウロの答えは見事でした。「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである。」パウロは教会に、良心の自由がある人はどんな食べ物を食べてもいいし、すべての日を同じように考えなさいと言いました。ただ、特定の食べ物を食べ、特定の日を聖なる日としなければならないと考えている人を軽蔑してはならない、と。そして、特定の日を聖なるものとし、特定の食物を食べることを義務と感じている人たちに対しては、これらすべてのことに関して自由である人たちを裁かないようにと言いました(ローマ14:1-12)。もし私たちが皆、パウロの勧告に従うなら、キリストの家族に多くの平和がもたらされるでしょう。
詳しくは「Rethinking the Sabbath(安息日を再考する)」をご覧ください。
Q46. ヤハウェやイェシュアという言葉を使うべきでは?:
なぜあなたや他の聖書学者はヤハウェやイェシュアという名前を使わず、父(God)や御子(イエス)に与えられた異教的な名前を使うのですか?
なぜなら私たちは、新約聖書の著者自身が神の御子をイェシュアではなくイエソス(イエス)と呼んでいることに従っているからです。また、新約聖書では神は決してヤハウェと呼ばれていません。新約聖書の学者たちは、ギリシア語の名前が「異教的」であるという、あたかもそれが非ユダヤ人固有の宗教的色彩を帯びているかのような指摘はナンセンスであるという点で一致しています。新約聖書に登場するユダヤ人の中で、シモンやピリポ、ヨハネという名前を持つ人がどれほどいたかを考えてみてください。それらはヘブル人の名前ではありません。
このような考え方の根本的な間違いは、イエスの時代のユダヤ教がヘレニズム化(※ギリシア文化と融合)されていたことを理解していないことです。ですから、多くのユダヤ人、そしてクリスチャンはギリシア名を名乗ったのです。(新約聖書の著者たちは、ギリシア語で書いています。)これは悪いことではありませんし、宗教的に「異教的 」なことでもありません。
加えて、私たちの遺産のルーツは、イスラエルやアブラハムよりもさらにさかのぼります。それは、時間と創造以前の永遠の御子、神のキリストに根ざしています。神の子イエスの血統はそこに由来し、私たちの真のアイデンティティーはそこにあるのです。
私たちクリスチャンは、ユダヤ人でもギリシア人でもない新しい創造の一部であり、世界の基の置かれる前にキリストにあって選ばれた者です。ですから、私たちはヘブライ人でも異邦人でもありません(コロサイ人への手紙、エペソ人への手紙、ガラテヤ人への手紙を参照)。そして、イエスは肉においてユダヤ人でしたが、永遠の存在であり、ユダヤ人でもギリシア人でもない、新しい創造の最初の人であり、初期のクリスチャンたちが 「第三の民族」「新しい人類 」と呼んだものの始まりでした。この点についての詳細は、『JESUS: A THEOGRAPHY』の序章、および『FROM ETERNITY TO HERE』をご覧ください。
最後になりますが、他のリソースへのリンク(※このリンク先の下方にある「リソース」「フランクとジョージへインタビュー」などの項、英語のみ)と上記のFAQは、2008年の出版以来、『異教まみれのキリスト教?』と『Reimagining Church』に対するあらゆる批評と批判に答えてきました。
これらの本に対する異論はすべて否定され、一掃されてきました。
『異教まみれのキリスト教?』を読む勇気があるなら、あなたがこの本の正しい読者であるかどうか確認してください。すなわち、制度的な教会を離れ(あるいは離れつつあり)、イエスを愛し、クリスチャンの交わりを望んでいる人かどうかということです。この本はそうではない読者に向けて書かれたものではありません。
また、全体の主張を理解するためには、「the ReChurchシリーズ」の続刊を読むことが不可欠です。
とはいえ、フランクの最近の本はそれぞれ最高の力作であり、あらゆる教会形態のすべてのクリスチャンに向けられたものです。(※2024年現在日本語には翻訳されていませんので、英語で書籍を読むことができる方は)こちらでチェックしてください。また、同じトピックをさらに詳しく取り上げているYouTube チャンネルもチェックしてください。
フランクのブログには、教会の話題や彼の仕事で取り上げている他の話題に関する多くの質問に答えるFAQ が掲載されています。