■躾について考えた
『国家の品格』で、藤原正彦は、会津藩の日新館という藩校の「什の掟」を引用して、本当に重要なことは幼いうちから押し付けるようにと勧めている。
たとえば、掟の中には、「弱いものをいじめてはなりませぬ」などの項目があるが、なぜそうするかは説明されていない。「ならぬことはならぬ」と押し付けている。
「どこの誰とセックスしようが、誰にも迷惑をかけてないじゃん」という女子高校生に、河合隼雄が「援助交際は魂に悪いから」と説明したことを思い出した。
子どもが成長していく過程で、「健全に」権威を行使する年長者がいることは大切なことだ。後になって反発するにせよ、まずは土台になる価値観を与える必要がある。
対立も葛藤もないフラットな「友だち親子」の関係においては、何が自分の意志で何が親の希望なのかを、子どもが判断する機会が限定され、本当の親子の絆を結ぶ道が閉ざされ、 子どもの自立が妨げられてしまう。
また、権威に信頼して服従することを学んだ子どもは、親子関係から基本的信頼を獲得し、まわりの事象や、世に出て出会う人々への信頼が培われ、社会生活を自信をもって営むことができる。
ただし、当然のことだが、親は権威を「健全に」行使しなければならない。高圧的に子どもを叱ったり、八つ当たりをしたり、放置したりするのは、単なる「弱い者いじめ」であって、権威の濫用である。
躾ける親にまず、神の権威に服従し、自分のわがままと戦い、喜んで神とともに生きるという実質が伴うときに、その躾に説得力が生まれる。
子どもの自立の時期に、そのような敬虔な親がいるなら、親の権威が子どもの羅針盤として機能し、親の世代のコミットメントや価値観や仮定が、継承されたり、参照されたりする。
子どもを居丈高に叱っても、親自身が神の教えに従って生活しようとしていないなら、子どもは親の権威を疑うようになり、不安定になって、反抗するようになりかねない。
パウロは、まず自分がキリストを見ならって生きた。そして、その自分の生き様を模範にするようにと、コリントの教会の聖徒たちに大胆に勧めた。
親も、読んで字のごとく「木の上に立って見ている」だけではなく、「親の背中を見て育つ」という原則に立ち、子に見本を示すという、率直で前向きな態度が必要なのかな、と思った。
第1コリント11章1節
私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。