■適材適所
先日、東南アジアの小さな島で、漁業支援をしているクリスチャンの事業を見させていただいた。
海上の養殖場を視察した後、島に上陸して車でジャングルを進んだ。しばらくすると、猿のパーフォーマンスを見せる老人に会った。
老人が何やら指示すると、猿はするするとヤシの木のてっぺんまで登り、器用にヤシの実をねじって下に落とした。見事な技術だ。
僕はそれを見て、変な事を考えた。魚にこの仕事をさせるわけにはいかない。やれと言ってもできないし、やれと言うべきでもない。
逆に、猿に向かって「魚のように泳げ」と命ずることもできない。無理強いするなら、溺れてしまうだろう。それぞれ、造られた目的に従って生きるべきだ。
「頑張ればなんとかなる」とか言ったり、言われたりして、賜物の領域でないことを始めたり、勧めたりしてしまうことはないだろうか。
好きな事だけしていればよいという訳では決してない。しかし、人生の主要な時間を、「創造の目的」に適わない活動のために使い切るのは、御心ではないと思う。
パウロは、教会を「キリストのからだ」にたとえている。何から何まで自分でしないで、各器官がふさわしい責任を引き受けるようになることを目指すべきだ。
まるで「からだ」のように、相互に依存する関係がないなら、本人も、周囲の人たちも、神の国のリソースを無駄遣いすることになってしまう。
第1コリント12章27節
あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。