■戸をしめて祈る
マタイの福音書6章6節に、「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」とある。
この命令には約束がついている。「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」
父は遍く存在しておられるのだから、「隠れた所」にだけおられるわけではない。それにもかかわらず「隠れた所におられる父」とおっしゃっるのはなぜか。
それは、奥まった部屋に入るときに、放蕩息子のように「我に返り」(ルカ15章17節)、自分を見守っておられる永遠の父を意識する、という意味だと思う。
「この世の心づかいと富の惑わし」(マタイ13章22節)という雑念に煩わされているときには、神の語りかけは聞きとりにくい。
この「戸をしめる」ということを自ら選び取るときにはじめて、自己存在を支える神と、神に生かされている「本当の自分」を意識する。それが「報い」なのである。
逆説的だが、戸をしめて本当の自分を意識する者だけが、それを他者に分かち合うことができる。戸をしめるのは、自分を分かちあうための源に触れる旅でもある。
ルカの福音書 10章41、42節
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」