■自由の子
徳川家康は、「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し – 急ぐべからず」と説いたそうだ。確かに、人生には悲しみと悩みがある(伝道者2章23節)。しかし、イエス様は、重荷を負うすべての人に究極的な解決策を与えられる。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11章28-30節)。
無条件に、すべての人が、「キリストのところ」に招かれている。そこには、神が与えてくださる休みがある。しかし、その休みは、何もしないという意味の休みではない。ビーチで寝ころんで、トロピカルドリンクを飲む類いのそれではない。
それどころか、休めると思って行くと、くびきを負うように命じられる。くびきとは、車を引く牛馬の頸の後ろにかける横木であって、自由を束縛する比喩としても用いられる。 魂の安らぎは、自分の権利を神に明渡すことを通して与えられる。
「信じると苦しみがなくなる」と嘘をついてはならない。他ならぬイエス様ご自身が、「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16章33節)とおっしゃっている。
熱心だとさらに苦しみが増す。「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」(第2テモテ3章12節)。イエス様は司令官のように、権威を持って「狼の中に小羊を送り出」(ルカ10章3節)される方だ。
しかし、この司令官は、同時に、心優しく、へりくだった方でもある。無理やり何かをさせようとはなさらない。私たちを、神の呼びかけに応答することができる「人格」として扱い、私たちが自分の意志で、喜んで従うことを求められるからだ。
黙示録3章20節には、戸の外に立ってたたくイエス様が描かれている。教会が自らの主を閉め出している図だ。神の御姿なのに、「ご自分を無にして、仕える者の姿」(ピリピ2 章7節)となられたイエス様が、あくまでへりくだって教会を導かれる。
主に従って出て行くなら、安らぎが与えられる。そして、くびきが負いやすく、荷が軽いことを、経験を通して知るようになる。雄牛のように力強い主は、羊のように弱い私たちを、私たちの意志を尊重しながら、やさしく導かれる。
では、主が一緒に担おうと招いてくださっている重荷は何だろう。それは、私たちがイエス様のくびきを負うときに経験する自由を、まず、初穂である人間が、続いて、被造世界全体が得るようになることである(ローマ8章19-22節参照)。
この自由は、自分がしたいようにする自由ではない。「神の願いが私の願いとなる」という自由。私にとって最善の選択肢である神の御心を行なうことができる自由である。この自由を得させるという大いなる務めを自覚して、パウロは身を震わせた。
「神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放って」(第2コリント2章14節)くださる。神の導きに従うときにはいつも、共に歩んでおられる主が明らかにされる。
日々私たちを招き、日々私たちを導かれる主と、くびきを共にして出て行くなら、イエス様がなさったことと同じことが、私たちの行くところで起こる。なぜ、ペテロやパウロやピリポやアガポが取り去られたのか。それは、私たちのゆえである。
ルカ4章18、19節
わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知 らせるために。