■消費される教会
ある教会は百貨店のようだ。人々が求めるものは、パッケージとして一通り揃っている。通過儀礼もあるし、人生のあらゆる段階の多様なニーズを満たすプログラムが揃っている。まるで、人生が教会の敷地内で完結するような錯覚に陥る。
教会が供給するものをメンバーが消費する。教会に行けば、ほしい商品が大方揃い、求めるサービスもそこそこ受けられる。巨大モールに行くように、人々は教会に集う。教会も、いかに人々が求めるものを提供できるかということに敏感に反応する。
イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9章23節)と言われた。もっと変わった商品を揃えてください、と叫ぶ消費者たちは、ついていけるかなあ。
私たちのイエス様は、裸で十字架につかれた。何もお持ちではなかった。墓さえ借り物だった。しかし、「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものとも」(ヘブル12章2節)されなかった。
教会は本来、自分を捨て、日々十字架を負って、神に従う人たちの群れである。すべてをあきらめて従う祝福を経験した人は、畑に隠された宝を見つけた人のようだ(マタイ13章44節参照)。その人は喜びのあまり、全財産を売って畑を買った。
「主がやさしく導いてくださったので、イエス様に出会う前には大切だったものを、今はあきらめることができました。私を愛し、私のすべての必要を満たし、私の手を取って導かれる方を経験したからです。」という証が、教会の生命なのだと思う。
ルカの福音書9章58節 すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
ピリピ人への手紙3章7-11節
しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。