■行ってシロアムの池で洗いなさい

 

ヨハネの福音書第9章に、イエス様が、生まれつき目の見えない人をいやされた記事がある。イエス様は地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。「行ってシロアムの池で洗いなさい。」

シロアムとは「遣わされた者」という意味で、天の父に遣わされたイエス様を表わしていると思われる。しかし、それはそうなのだが、いやしの物語の舞台として、「遣わされた者」という名前の池が用いられたことに興味を持った。

いやされた人は、自分から直してくださいと頼んだわけではなかった。目が見えないのだから、されるがままだったのだろう。目に泥を塗られた彼が、手引きもなしに、なぜ言われた通りに池まで行って洗ったのか、聖書からは詳細が分からない。

「彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。」と記されているだけだ。いやされた後、指導者たちに対して、イエス様を預言者だと言っていることから、イエス様が神から来られた方だと信じて行動したと推測される。

イエス様に出会って、大胆に従った人がいやされたのは、「遣わされた者」という名の池だった。実際、いやされた後の彼の行動は、神に遣わされた者としてふさわしいものだった。直弟子たちでさえ、この時点では同じことはできなかっただろう。

糾弾する指導者たちに、自分が経験したいやしの恵みと、イエス様への信仰を、確信に満ちて証しした。物乞いの彼が、居並ぶ学者たちを前に「御心を行なう者の祈りは聞かれる」と大胆に宣言したのだ。彼は村八分にされることも恐れなかった。

人は、イエス様と出会ったその日でも、これだけのことができるということを、トレーナーは肝に銘じておくべきだ。遣わしてくださった神が、いやし、勇気づけ、語るべき言葉を与えて、ご自身のミッションを完遂される。宣教は神のものだ。

イエス様は弟子たちを訓練されたし、この出来事も訓練の一部と見ることもできる。けれども、訓練がなければ証しができない、というのは嘘だ。イエス様が命じられたら、未熟でも下手でも、つべこべ言わずに「行く」ことが信仰の基本である。

「行って、諸国を弟子とせよ」の「行け」は、「弟子とせよ」という主動詞にかかる分詞ではあるが、「弟子とせよ」の前に置かれるほど重要な命令なのだ。訓練を受けても、行かなければ、「遣わされた者」の素晴らしさを経験することはできない。

 

マタイ28章19節
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。