■門よ。おまえたちのかしらを上げよ。
詩篇22篇には、イエスさまの受難に関連する言葉が含まれています。
たとえば、1節の「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」は、十字架上でイエスさまが語られた7つの言葉の1つです。8節の「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」という侮蔑の言葉を、イエスさまも、十字架の上で受けられました。18節の「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」ということが、実際に刑場でなされました。
ところが次の詩篇23篇になると、打って変わって恵みの言葉が並びます。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(1節)という現状に対する感謝と満足から始まり、最後は、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」(6節)という将来への明るい見通しで締めくくられています。
詩篇24篇では、まず、祝福と義を受ける人は、「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。」(4節)だという条件が設定されます。後半は、「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。栄光の王とは、だれか。強く、力ある主。戦いに力ある主。」(8節)というように、門に向かって発する宣言となっています。
詩篇22篇、23篇、24篇は、メシア的詩篇の「三部作」と言われています。22篇は、過去のキリストの受難、23篇は、現在の恵みの立場、24篇は、将来の王の再臨と解釈されます。22篇と23篇については、概ね異論はないのですが、24篇の解釈は、宣言の対象となっている門を何と解釈するかによって、全体の解釈が変わってきます。