■故郷の将来を想う人 – 南三陸の場合

今年の7月22日に天皇皇后両陛下が南三陸を訪問されたときに宿泊されたのが、「南三陸ホテル観洋」という老舗ホテルでした。

ひょんなことから、そのホテルの女将である阿部憲子さんと知り合うことができました。彼女は、311の津波の後、地元の人たちを助けたということで、多様なメディアで広く紹介されている方です。

先日ホテルを訪れたときに、短い時間でしたが、彼女がホテルの従業員たちと被災直後から現在に至るまで、どのように地元の人たちのために働いてきたかというお話をお聞きしました。

1 父から引き継いだ「人助けDNA」

「南三陸ホテル観洋」は、壊滅的な被害を受けた町の中心部と同じ志津川湾に面していたのですが、対岸だったため、2階の風呂場まで水が上がって一部被害を受けたものの、建物の構造自体は無事でした。

このように建物が助かったのは、女将の実父であられる阿部泰兒さまが、高台の堅い岩盤の上にホテルを建てるということにこだわっておられたからです。

彼は1960年のチリ地震のときに、南三陸で魚の行商をしていたのですが、津波で商売道具を流されてしまいました。その後、気仙沼に移り鮮魚仲買業から水産加工業へと事業を拡大し、1972年に故郷である南三陸に「南三陸ホテル観洋」を開業しました。

ホテルの建立のときに気をつけたことは2つのことでした。1つは高台に建てること、もう1つは堅い岩盤の上に建てることでした。それが、若いときにチリ地震に伴う津波で被害を受けた経験から得た教訓でした。彼は「南三陸ホテル観洋」以外に2つのホテルを所有していますが、同じ理由で、いずれも津波による壊滅的な損壊を免れています。

彼はその後、自宅を気仙沼市内の高台に建て、有事の際には近所の人たちも助かるようにと考えて、外部から3階建ての屋上まで続く螺旋階段を設置しました。それが、311の4年前でした。今回の津波のときに、その階段を昇って彼の自宅に避難した23名の方の命が助かりました。

女将は、この父上の「人助けDNA」を継承されたのだと思います。