■遺産
「殉教」と聞くと、皆さんはどんなことを思い浮かべるでしょうか? ステパノ? 初代教会のクリスチャン? 江戸時代のキリシタン?
私は「殉教」と聞くと、数人の友の顔を思い出します。私が以前宣教の働きをしていた所にいた人たちの間では、必ずと言っていいほど皆「殉教」で友を失った経験がありましたし、自分たちにもその可能性があることを十分理解して日々の生活を送っていました。
日本に帰って来てからは、その人たちのことは、ほとんど語らなくなりました。何故かはよくわかりません。自分の生活の中では身近なことであった現実を珍しがられるのが嫌なのかもしれません。 あるいは、その事件が起こった国やその国の人々が裁かれ、恐れの目で見られるようになるのが嫌なのかもしれません。
あるいは、殉教した友と人生を共にした喜びと、彼らを失った悲しみの深さが入り混じった複雑な気持ちを理解してもらえないことに対する恐れかもしれません。
けれども、数週間前にまた友を殉教で失ったのをきっかけに、この人たちのことを語るように神様から促されているような気がしました。
今日のこの記事を読む時に、彼らが誰にどう殺されたかにはあまり注意を傾けないでください。むしろ、この人たちの生き方から何を学ぶことができるか考えてみてください。