■自由人=神の奴隷

天:神の奴隷となる自由

ペテロが晩年書いた手紙の中に、「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(第1ペテロ2:16)という言葉があります。

前半の「自由人として行動する」という部分だけに注目すると、「我は行く 心の命ずるままに(谷村新司作「昴(すばる)」の歌詞)」などと口ずさみながら、誰にも何にも縛られずに信念を通すという独立独歩のイメージを受け取ります。しかし、後半には「神の奴隷」という言葉が出てきます。奴隷は、自由人の対極です。この箇所をどう解釈すればよいのでしょう。

キリストの弟子である私たちは自由人ですが、ではいったい何から自由にされたのでしょうか。イエスさまは、「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネ8:34)とおっしゃっています。ということは、救われて罪と戦う私たちは「罪から」自由にされたということです。パウロは、私たちはみな以前は「欲情と快楽の奴隷」(テトス3:3)になっていたと解説しています。これはさらに具体的です。

パウロがエペソ人に書いた手紙の中では、「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」(エペソ2:1-3)と記しています。また、ヘブル人への手紙では、キリストの死が、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放」(ヘブル2:15)した、とあります。