■キリスト直結(8)一日中同じ思いになる

放牧されている馬と接触したことがあるでしょうか。たとえ、柵があっても、馬が近づいてくると、初心者はたいてい、近くで見る馬の大きさに圧倒されて後ずさりしてしまいます。そうすると、その後に馬に乗ろうとしても、馬と良好な関係を築くことが難しくなります。

なぜなら、馬は元来、一頭のボス馬が集団を率いる「序列を重んじる動物」なので、自分と他者の関係を、「指示する側」と「従う側」というように上下関係で理解するからです。こちらが近づいて後ずさりするような人、つまり明確に指示を出すことができないような人を、馬は信頼することができません。馬が顔や首を近づけてくるのは、人間を試しているのです。

この最初のテストで、どちらが「動かす側」で、どちらが「動かされる側」かという順位が決まります。もし、馬が鼻先を近づけてきたときに、後ずさりするかわりに、馬に向かって半歩前に進み出て、軽く押し返すようにするならば、今度は馬が後ろに下がります。そうすると立場が逆転するのです。

「馬が動く」ことで「人が動かされる」か、あるいは、「人が動く」ことで「馬が動かされるか」で、その後の乗馬の質が決定づけられます。

そして、いよいよ馬の背に乗ったとします。良い乗り手は、絶えず馬に明確な指示を出します。初心者にとっては簡単なことではありません。なぜなら、乗り手は馬の四足走行の複雑な動きを身体で吸収しながら、一足ごとに指示しなければならないからです。

指示は、乗り手の脚(きゃく=脹脛と踵による圧迫)と体重移動と手綱と鞭によってなされます。脚で「進め」という指示を出しながら、手綱では逆に「止まれ」という指示を出したりすると、馬は混乱して苛立ちます。左右への進行や、スピード、走り方の種類など、乗り手が一貫した指示を出すことで、馬は安心して走ることができるのです。

また、馬はたいてい臆病なので、小さな音に反応して急に駆け出そううとしたり横飛びをしてしまったりします。そのときに、乗り手は馬に「大丈夫だからね」と言って声をかけたり、深く座りなおして乗り手の安定感を伝えたり、馬の首をたたいて落ち着かせたりします。また、馬の歩みが遅くなると励まし、指示に従ったら首を撫でてほめてあげます。

馬は良い主人を求めているのです。明確な一貫した指示を出さない乗り手のときには、馬は道草を食います。道草は馬にとっては楽しみという面もあるのですが、まっすぐな道から逸れていくので、結局、遠回りをしなければならなくなります。また、脇道や草むらには蛇がいたり、その先は崖になっていたりと、危険なことが待っているかもしれません。

馬を好き勝手にさせることの一番の問題点は、良い乗り手が経験する馬との親しいコミュニケーションを取ることができないことです。馬は体温が人間よりも高いので、触れていて気持ちがよいし、馬の大きな目に感情移入することによる「いやし効果」もありますが、馬と会話しながら人馬一体となって走るということに勝る喜びはありません。

また、馬術競技や競馬で好成績を収めることが乗馬の目的である場合は、賞与を得るときに、乗り手と馬は共に栄誉を受けます。どちらかだけが賞賛されるということはありません。良い乗り手ほど、自分についてきた愛馬をたたえ、馬もまた主人と共に戦えたことを誇らしく感じるのです。

馬とどう会話するかというテーマは、子育てや人材育成にもつながるのですが、今回は乗り手をイエスさまに、そして馬を「イエスさまに従う私たち」にたとえて、イエスさまとの関係について考えてまいりましょう。エルサレム入城のために用いられた小さなロバを想像してみてください。