■詩篇23篇を成長の視点で読む

詩篇23篇は、「主は私の羊飼い。私には乏しいことがない」という言葉から始まります。無力で無防備な割には、頑固で迷いやすい羊のような私を、主がお世話して導いてくださる。その上、良いものに何一つ欠けることのないようにもてなしをし、ご馳走を用意し、食後には緑の牧場で、ゆっくりと昼寝までさせてくださる。

1節と2節だけを読むと、「怠け放題の子どもを甘やかす親」のようですが、そんなに無責任でよいのでしょうか。この詩には、人が成長して自らを律するようになり、自分を捨てて神の使命を引き受けて生きるというような要素はまったく含まれていないのでしょうか。

果たして3節になると様子が変わります。「たましいを生き返らせる」と述べることで、2節と3節の間に、死にかけるような事件があったことが示唆されています。4節には「死の陰の谷」、5節には「敵」が出てきます。どうも、休んでばかりはいられないようです。

そこで、この詩を四つの部分に分け、それぞれが、ヨハネの第1の手紙2章の「子どもたち(幼年期)」、「子どもたち(少年期)」、「若い者たち(青年期)」、「父たち(壮年期)」という各成長段階の描写だと仮定して読み直してみることにしました。

・恵みによって赦しを受ける 子どもたち(幼年期)(v.1, v.2)

第1ヨハネ2章12節には、「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです」と記されています。どんな人も自分の罪を自分で償うことはできません、罪を赦して受け入れてくださる方なしには、生きていくことさえできません。この点において、人は救い主であられる神にまったく依存しています。

ペテロの第1の手紙2章25節には、「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです」とあります。羊のようにさまよっていた私を、羊飼いであられるイエスさま(cf. ヨハネ10:14, 15)が引き受けてくださったという例えは、信仰に入って間もない「子どもたち」の状態をよく表わしています。

為せば成るとか、念ずれば通ずとか、継続は力なり、というような勇ましい言葉に鼓舞されて、頑張れば道が拓くと信じてきた者が、自力で生きることを諦めて神の手に自分を全面的に委ねるためには、緑の牧場のような環境で、愛着を形成することが不可欠です。この段階で、変わらない神の愛による無条件の受容を経験することで、安定し、やがて自立に向かう冒険にも進んでいくことができます。また、主に結び付けられて「足るを知る」ことが、貪りを抑制します。

・主と一緒に歩き始める 子どもたち(少年期)(v.3, v.4)

第1ヨハネ2章14節には、「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです」とあります。父親は小さい者たちとどのように交わり、何を身につけさせるのでしょうか。

申命記8章5、6節では、「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。」と書かれています。主の命令という規範を身につけ、それを自律的に実行できるように訓練することが、無条件の受容と並ぶ、子どもたちに対するもう一つの養育です。

ところが、義の道に導こうとされる神を無視して、人は心に自分の道を思い巡らします(cf. 箴言16:9)。そのときに経験するのは絶望であり魂の渇きです。けれども、試練の中で悔い改めて神に救いを求めるときに、神は御名のゆえに、ご自分の名誉にかけて、子どもたちを罪から救い出し、神の命令に従う歩みを確かなものにしていかれます(cf. 詩篇119:133)。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)という呼びかけは、幼少期の子どもたちへの約束ですが、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:29, 30)は、休む段階を経て訓練の段階に進んだ少年期の子どもたちに対する勧めです。

あわれみ深く謙遜な神は、ただ「正しい道に歩め」と言い放ち、その後は腕を組んで観察だけするような方ではなく、くびきを共にしながら、子どもたちが自分の足で、自分を律して正しい道を選び、堅実に歩むことができるように助けてくださる方です。

そして、十分に主の訓練を受けた者たちは、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません」(詩篇23:4)と告白できるようになります。神の手にあるむちと杖によって、自分は必ず守られ、すべてを支配しておられる神が最善を準備なさっていることを理解するようになるからです。

・敵との戦い 若い者たち(青年期)(v.5, v.6a)

第1ヨハネ2章13節と14節には、若い者たちが「悪い者に打ち勝った」こと、つまり、彼らが敵との戦いにすでに勝利したことが繰り返し述べられています。子どもたちの戦いの多くは、自分の罪との戦いであり、成長して自立するためには必要な試練でした。しかし、若い者たちの戦いは、王の軍隊として、王国の陣地を取り戻す戦いです。

イエス様は神の国の王として地上に来られ、ご自身でも「神の指によって悪霊どもを追い出」(ルカ11:20)されました。彼はご自分だけで神の国の働きをなさろうとしたのではなく、弟子たちにも、出かけて行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えるようにと命じ、「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出」」(マタイ10:8)すことを求められました。

悪霊を追い出すとは一体どのようなことでしょう。文字通り、人々を縛っている霊的存在に退去を命じて解放することを迫られる場合もあるでしょう。しかし、より根本的には、神と共に被造物を支配する使命を回復させられた神の民による、神の支配の確立に関する活動の一部だと考えられます。

詩篇23篇5節では、若者たちが国王主催の宴会に招かれています。敵は近くにいるのですが、すでに王によって打ち負かされているので、若い者たちは、頭に注がれる歓迎の徴である香油や、溢れる杯を楽しむことができました。若い者たちが宴会の後にすることは、ヨシュアの世代のように、約束の地に入って行って、王国の支配を取り戻すことでした。

重要なのは、「敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」(第1ペテロ5:8)ような状況下でも、「へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授け」(ルカ10:19a)られているために、自分たちに「害をおよぼす者はまったく無い」(ルカ10:19b)ことを理解して、堂々と戦い、遣わされた地に神の国を打ち立て、御心を実現することです。

そのような戦いを繰り返すうちに、「生きるかぎりは必ず恵みといくつしみとか伴う」(詩篇23:6a)ことを経験していきます。そして、「私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」(ローマ8:37)と告白するに至るのです。

・主の宮に住む 父たち(壮年期)(v.6b)

ヨハネの第1の手紙2章の13節と14節では、父たちについて、「あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです」という言葉が2回繰り返されています。初めからおられる方がなさったことは、世界を創造し、ご自分に似せて造った人に被造物の支配を命じたということです

最初の人アダムは、神の前にあるエデンで、地を耕すという務めを果たし、被造物に名をつけることができたのですが、堕罪によって被造物支配の権威を失ってしまいました。ところがイエスさまが十字架の死によってその権威を回復させてくださったので、オリジナルの父の命令、つまり「地を従わせよ」という命令を、人はキリストとともに実行することができるようになりました。「初めからおられる方を知った」というのは、父の心を地に行なう権威を取り戻し、父と一体となって地を治める使命を自覚したという意味だと思います。

それは、「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」(エペソ2:6)という言葉を真正面から受け取って、実際にキリストと共なる「座」から支配するようになった父たちの仕事です。彼らは、自分たちが「王である祭司」(第1ペテロ2:9)とされたことを自覚しています。

そして、その働きは永遠に継続します。パウロは、地上にいながら主の宮で主と共に地を支配する状態を次のように言い表しています。「もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:22)イエスさまの地上における働きと同じです。自分が進んで行くところ、どこででも豊かな働きの実りがあるのは自明の事実なのです。王であるキリストと王とされた自分が共に行くからです。

この段階では、もはや「若い者たち」のような戦いはある意味凌駕されています。「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」(ピリピ1:20)だけを一心に求める父たちの祈りに、神が答えられるからです。

ダビデが詩篇23篇を書いたときに、「主の宮に住む」ことの意味を、そこまで積極的に理解していたかは不明です。「わたしは一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私はいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために」(詩篇27:4)とあるように、ダビデには少なくとも主の臨在に対する強いあこがれはあったと考えられます。

しかし、詩篇8篇5節で、「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました」と告白しているところから、主の臨在が満ちる主の宮に入るときに、ただ思いにふけるだけではなく、そこで被造物を治める使命が遂行されると理解することは、それほど難しくなかったのではないかと想像しています。

詩篇103篇20節から22節では、ダビデが御使いたちに向かって、また全被造物に向かって、命令を発しています。そこから、「王とされた人」が天使たちを含む万物を治めることを、ダビデが理解していたことが伺えます。「主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」

神は、幼年期や少年期の「子どもたち」も、「若い者たちも」等しく愛しておられますが、やがてすべての聖徒たちが、「父たち」のステージにまで成長し、自覚的にキリストと共に被造物を治めるようになることを、待ち望んでおられるのだと思いました。

福田充男

RAC通信プラス】 – 2020.08.04号…【有料版】第223号 福田充男