王子にキスをしてもらいましょう:2

中間層に注目したアプローチ

それで、私どもRACネットワークでは、すでに日本人の世界観に存在する「中間層」に注目したアプローチを提唱しています。
日本人に欠落している上層からのアプローチをいつまで続けても、「糠に釘」状態が改善されることはありません。
これは、上層の説明をずっとしないでおくという話ではありません。
最初に上層を説明することはあきらめて、日本人が親しみやすい中間層で神を経験するように導いた後に創造主について説明するというように、順番を変えようという提案です。
日本人の世界観の深部にも「永遠への思い」(伝道者3:11)はあるので、いきなり飛び道具で天守閣を落とそうとしないで、外堀を埋めてから本丸を攻めるという戦略を取ればよいのです。

幸いなことに、日本人は霊的世界からのメッセージを受け取りながら生きています。
それは、中間層が排除された西洋人には気持ちが悪いことでしょうが、見方を変えると、日本宣教における大いなるアドバンテージ(優位な点)であり、宣教の接触点なのです。

ピンとくる、腑に落ちる、気配を感じる、鼻が利く、虫の知らせを受け取る、胸騒ぎがする、第六感が働くなどの言葉は、霊的世界との直感的な交流を表しています。
霊なるイエス様は、このように霊的感受性が高い日本人に、論理的説得ではない「霊的ガイダンス(指導・導き)」を与えることがおできになるはずです。
日本人は、そのガイダンスを知的に理解しなくても、それが真実だと肌で感じ取るのです。

すでにこのことは始まっています。
2011年3月11日の津波被害の後に、被災地の日本人が夢や幻や奇跡やいやしを通して直接イエス様に出会ったという話をたくさん聞きました。

「迫り来る津波に呑み込まれて目の前が真っ黒になった時に、この神が私を引き上げて助けてくださいました。」と語る東北のおじいさんの手には十字架のネックレスがありました。ある朝、クリスチャンのボランティアのところに、地元の老人が訪ねて来ました。そして、「イエス様のことを教えてほしい」と頼みました。
彼はその前夜、夢でイエス様と出会ったからです。
イエス様は「翌朝、〇〇のところに行って私のことを尋ねよ」とおっしゃったそうです。
その他、幻で十字架を見た人、イエス様と話した人、奇跡的に癒された人など、同様の顕現の事例は枚挙にいとまがありません。

ところが、「排除された中間層神学」で訓練された西洋の宣教師とその同調者は、すんなりとこの新しい現象に対応することができません。
彼らは霊的メッセージを日常生活の中で受け取るなどということには慣れていないのです。

霊なるイエス様と交流し始めた日本人の多くが、(少なくとも初期の段階ではまだ)他の霊的なメッセージも受け取っているという話を聞くと、彼らの頭には多くの「?マーク」が出てきます。
イエス様の声も聞くが、ホトケや観音やコックリの声も聞くというのでは、イエス様の独自性はどうなるのでしょうか。
それでは混淆主義であって、イエス様は、よくて「神々の一人」ということになってしまいます。

確かに、その段階に留まるなら危険です。
しかし、霊的な声を聞くこと自体を禁じて、今まで通り日本人を教室に閉じ込めようとするなら、せっかく与えられたチャンスを無にすることになってしまいます。
日本宗教の本質は、教室や講義棟で本質についての知識を注入する類のものではなく、「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という西行の言葉にあるように、「感じてしまう」ものなのです。

いつもリスクはあるのですが、ここはあえてリスクを取るべきです。
なぜなら、日本人に語りかけておられる方は、日本人の花婿なるお方だからです。
もしイエス様が、シュラムの女を愛するソロモンのように日本人を求めて声をかけておられるのなら、花嫁である日本人に対して、「危ないから声を聞くのをやめなさい」と誰が言うことができるでしょうか。

むしろ、パウロがコリント人たちに対して、「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです」(2コリント11:2)と書き送ったように、クリスチャンの働き手は、日本人がキリストとの対話の場に導き入れられることを応援する必要があるのです。

日本人の大多数は、数ある霊的なメッセージの中から、真実な声が何なのかを聞き分けることができるのだと私は信じています。
キリスト以外の霊的なアプローチは、日本人を奴隷にするハニートラップのようなものです。

週刊誌やテレビの占いコーナーや占い師の言葉やおみくじが、どんなに浅薄で当てにならず、責任を負わないものなのかを、日本人はよく知っています。
だから、誠実なキリストの語りかけを通して本当の神との愛の関係に入っていく人は多いのです。

「収穫は多い」という宣言は、今の日本を描写した言葉です。
実は、ずっと前から収穫の季節ではあったのですが、刈り取るためのアプローチが「上層を前提とした説得」だったために、十分に刈り取れなかったのだと思います。
中間層を通して語られるキリストご自身の声を一緒に聞くという「直感を入り口にするアプローチ」により、信じられないほど多くの人が神の国に導き入れられるのです。

創作「眠れる森の美女」

このことを、「眠れる森の美女」という童話に創作を加えたかたちで絵画的に説明してみましょう。
三種類の人たちが、寝ぼけまなこの少女に寄り添って、少女が目覚めるのを待っていると想像してください。

登場人物を順に紹介しましょう。
第一のキャラクターは妖精たちです。
彼らは少女の家族同様で、育ての親のような存在です。
彼らの声は少女の耳に親しみ深く響いています。

第二は王子です。
彼は少女の夫となる人です。

第三は医者です。
この人はオリジナルストーリーには登場しませんが、遠い国から少女を目覚めさせるというミッションを帯びて派遣されました。

医者は、妖精たちが少女に話しかけ、少女がそれに応答しようとしているのを見て、少女を指導しました。
「妖精の声を聞いてはなりません。それは幻聴で、本当は妖精なんていないのです。私が何とかしてあげるので、私の声だけに耳を傾けなさい。」
医者は少女を迷信から助け出そうとしています。
彼にとって妖精たちは、お伽話の架空の役柄に過ぎません。
医者は振り返って王子にも注意します。
「今はややこしいので、しばらくの間、部屋から出ていただけますか。おまじないのキスなんて必要ありませんから。今は科学の時代です。ここは経験を積んだ医者に任せてください。」
こうして彼は王子を追い出して、恋人同士の会話を妨げてしまいました。
少女が王子と話しさえすれば、彼女は彼こそが生涯共に歩む伴侶だということがわかったはずです。

さて、この創作物語を解説いたしましょう。
この少女は日本人。
王子がイエス様です。
妖精たちは日本人が交流している諸霊です。
そして医者は、「排除された中間層神学」の影響を受けているクリスチャンの働き人です。

医者の世界観には、妖精たちを認識する基準がないので、少女がどれほど妖精たちに親しみを持っているのかを理解することができません。
少女にとって、妖精たちとの会話はアイデンティティに直結する営みなので、「それは幻聴だ」と言われても、にわかには忠告を受け入れることができません。
その上、中間層を理解できない医者は、すでに花嫁の横に立っておられる王子こそが救い主だということを認識できませんでした。

では、医者はどうすればよかったのでしょうか。
妖精と少女との会話についてはしばらく放っておいて、むしろ、少女が王子と話しやすいように環境を整えるべきでした。
主役は王子と少女なのですから、医者は脇役に徹して口を挟むべきではなかったのです。
確かに、妖精との会話がいつまでも続くと混淆主義の危険があります。
しかし、王子はそのことを知らなかったのでしょうか。

もし王子がキスをして花嫁を起こそうとしておられるのなら、さっさとキスをしてもらいましょう。
少女が王子の声を聞くようになれば、彼女自身が誰と話すべきかを判断するでしょう。
また、王子自身が、花嫁がどう振る舞うべきかを教えてくださるはずです。
ここは花嫁と王子を信頼すべきです。
もしこの二人を信頼しないなら、少女が医者に不健全に依存して、いつまでたっても王子に向き合うことができなくなります。

医者が初期の段階で「妖精の声を聞くな」と言うことにより、少女は、中間層を舞台として語りかけられる「霊であられるキリスト」の声も聞かなくなってしまいます。
産湯と一緒に赤子を流すようなことをしてはなりません。
インテリの西洋人には想像できないかもしれませんが、日本人はわずかな例外を除いて、ほぼ全員が霊なるキリストのガイダンスを受け取るためのキャパシティを持っていると私は信じています。

確かに医者は、王子と少女が結びつくように遣わされたのです。
それなのに王子が少女にキスすることを妨げているようでは、医者自身が問題の一部になってしまいます。
花婿が花嫁と結びつくための道を備えることが医者のミッションなのです。

私には夢がある!

私は夢見ています。
終わりの日の二つの「J」、つまり「Jesus(イエス様)」と「Japan(日本)」の婚姻の場に出ることを……。
もちろん私自身が、花嫁である教会(キリストのからだ)の一部でもあるのですが、その婚姻の時に、もう一つの役割を果たすことができればと思うのです。
それは、花婿付添人としてのそれです。

バプテスマのヨハネは言いました。
「花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。
それで、私もその喜びで満たされているのです。」(ヨハネ3:29)
花嫁である日本を整えるために大いに犠牲を払ってくださった西洋人宣教師を含む多くの働き手とともに、花婿の友人としてこの婚姻を祝いたいと願っています。

白衣を脱いで、医者の立場を捨て、花婿付添人として花婿が花嫁に出会う道を準備しようではありませんか。

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