王子にキスをしてもらいましょう:1
はじめに
日本のキリスト教会は高齢化が進み、ある主要な教団では70歳以上の会員が4割を占めるまでになっています。
高齢化は多少にかかわらず、ほとんどの教団・グループに見られる現象です。
前述の教団では、決心者・受洗者数グラフの減少曲線をそのまま延ばすと、多めに見積もっても2030年には、教会員の総計が現在の3割程度、つまり7割減になり、さらにそのまま進むと、15年後の2050年にはゼロになるという予想まであるぐらいです。
これは、日本社会の高齢化の波が教会にもやってきたというような悠長な話ではなく、絶滅危惧種の数をどう回復させるかというレベルの話です。
この驚くべき非生産性はどこから来るのでしょうか。
日本の教会はもう何をしても望みはないのでしょうか。
本小論では、日本という畑が主要な問題ではなく、むしろ収穫を刈り取るアプローチに問題があったということを明らかにしようとしています。
アプローチさえ変えれば、15年後ではなく、今日のうちに、日本が収穫の季節のただ中にあることを経験するようになります。
アプローチの話をする前に、まずその前提となる世界観の説明をすることにいたしましょう。
排除された中間層と欠落した上層
ポール・ヒーバートという宣教学者が、宗教システムを分析するための理論的枠組みを作りました。
その一部を簡単に説明いたします。
彼は、世界観の領域について、「目に見えない、経験を超えた超自然の領域」を上層、「目に見え、体験できる現実の領域」を下層、その間に位置する「この世にある超自然的領域」を中間層と、三層に分類しました。
たとえば、聖書の宗教では、「近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見ることのできない神」(1テモテ6:16参照)を礼拝します。これは、上層に分類されることです。
一方でイエス様は、花や鳥や人や神殿を指差して真理を説明されました。
聖書には、下層の現実世界も描かれているということです。
さらに、天使や悪霊、超自然的な癒しや預言、口寄せや呪いの言葉なども登場します。
これが上層と下層の間に位置する、中間層です。
では、インテリの西洋人の世界観はどうでしょうか。
上層はいわゆる「宗教」が説明します。
彼らの神は、見ることも触れることも感じることもできない、日常生活の彼方にいる方として描写されます。
下層は「科学」が論理的に説明します。
では、中間層はどうでしょうか。
ヒーバートは、西洋的な世界観は、このゾーンが排除されていると主張します。
彼らの世界観の領域は二層しかなく、この世で展開される超自然的な活動や作用を理解したり説明したりする枠組みがありません。
このように、中間層が排除された世界観を持つ人たちは、聖なる霊が日常生活の中で夢や幻や印象を通して人を具体的に導いてくださるということを当たり前のこととして受け取ることができません。
概念としてはそういうことが存在すると理解できるのですが、いざ「日々神の声を聞きましょう」などとチャレンジすると、「神の声を聞くとはどういうことか?」と考え始めるのです。
彼らにとっての宗教は、「日曜日の午前中の会堂の中」というような非日常的な宗教的装置の中で、浮世離れはしているが理路整然とした説教をプロの宗教家から聞くことです。
一方、日本を含む多くのアジア的な世界観は、聖書の世界観と同様に、中間層が豊かに存在します。
祖先の霊、八百万の神々、幽霊、それにホトケや観音、コックリなどのアニミズム的な現象が中間層に分類されます。
ところが、日本の世界観には、世界の外にある絶対的な領域、すなわち上層が欠落しています。
たとえば、日本の神話は神々の誕生から始まります。
つまり日本のカミは、自然を創った人格ではなく、自然から生まれた「自然に含まれる存在」です。
そのため、ほとんどの日本人は世界を超越し、世界から自立している「見ることも経験することもできない創造主」を想像することができません。
世界観に上層が存在する西洋人の宣教師は、まず世界を創造された絶対的な超越神について語ろうとします。
それは彼らにとっては当然のことです。
ところが、日本人には上層が欠けています。
それで、福音を伝える際のコミュニケーションにおけるボタンの掛け違いが起こるのです。
日本人の世界観には、西洋人が説明する上層を理解する枠組みがないのです。創造神について説明する宣教師は、野球でストレートを投げ続けて滅多打ちにされている投手のようです。創造神が理解されないと、創造神への反逆としての罪も理解されず、罪がわからなければ赦しもわかりません。「神→罪→救い」のすべての段階が理解できないということになります。
このようにして、歴史上もっとも多くの宣教資源が費やされてきた国が、宣教師の墓場だと形容されるようになりました。