日本人のニーズに合った証言アプローチ:1

はじめに

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(第1ペテロ3章15節)

いわゆる「教職者」だけでなく、キリストのからだのすべての部分が「うちにある希望」について、喜びをもって大胆に証しし始めることが、この国を開く鍵である。

弁明をするときには、聞く人々の多様なニーズに合ったアプローチが求められる。
たとえば、パウロはアテネで、「知られない神に」と刻まれた祭壇があることに気づいた。
彼は「拝むリスト」から漏れた神々から攻撃されることを恐れた人々のニーズを見分け、ご自身の子孫を包み込む創造主こそ「知られない神」だと伝えたのである。

小稿では、日本人のニーズのタイプを分析し、それらのニーズに合ったアプローチの類型を示すことにより、「普通の人々」による弁明の枠組みを提案する。
つまり、ある共通項を持った人々が、「そういうイエス様なら信じて従っていきたい」と思うように説明するためのヒントを与えることを目指す。

日本人の三つのニーズ

日本人には、二つの比較的表面的なニーズと、一つのより深いニーズがあると思われる。

霊的な力の満たしへのニーズ

日本人の7〜8割がすると言われる厄除け祈願や、中絶の罪悪感からの免罪符として普及している水子供養は、現代の日本人がいかに「タタリ」を前提とした行動をとるかということの代表例である。
宮崎駿監督の「もものけ姫」に代表される日本製アニメの世界も、このテーマで席巻されているようだ。

「草葉の陰で見守る」という表現に見られるように、日本人の伝統的死生観では、あの世とこの世の間に明確な境界線がなく、死者の霊が生者に影響を及ぼすと考える。
そのため、祓いや禊などの多様な対抗儀礼が生活に根差している。また、「タタリ」に対抗するための霊的生命力の獲得が関心事となる。

霊的な力に満たされるための条件は、清らかであることだ。ユタやイタコなどの霊媒が未婚を通すのは、性的交渉が不浄であると考えられているからにほかならない。
占いやアニメで、「ツキ」を付けたり、「気」を取り込んだりしようとする行為にも、清めと霊的な力のとの間の相関関係が観察される。

温かい交わりへのニーズ

もう一つのニーズは、温かい共同体への希求である。日本のサラリーマンは高度成長の時代、いわば会社と結婚し、女たちは母子癒着になった。
不在がちで疲労困憊の父親と寂しい過干渉の母親に育てられた子どもたちは、存在の不安を抱え、将来に希望を抱けず、ありのままの自分を承認してくれる居場所を探し求めて漂流した。

漂流する人々の多くは自我の要塞にろう城している。
「何事もつきつめようとする」完璧主義に基礎づけられた否定的評価のシャワーは、人々のやる気と自信を奪う要因となった。
その結果、かなり多くの人々が自己表現を抑制し、対人関係を深めようとせず、傷つけられない要塞の中に自分をこもらせる傾向を持つようになった。

SMAPが歌って流行した「世界に一つだけの花」の、「NO.1にならなくてもいい、もともと特別なOnly one」という歌詞が広く共感を呼んだのは、非審判的な共同体の中で自由に振る舞いたいと願う日本人の叫びと解釈できる。
自我の要塞にこもる私に対して、「あなたにも価値がある」とやさしく語りかけてほしいのである。

生きる実感へのニーズ

野球が国民的スポーツと評される所以は、長い準備の期間を経て、一瞬の躍動に集中するという構造があるからだと思われる。
見どころの一つであるホームランは一瞬の出来事だ。
その他の部分は、スパークする前の充電のような位置づけとなる。
普段は礼儀正しい国民の内に、たましいを揺さぶる衝動が潜在している。

内心の衝動の爆発的解放は、「しかと」や「村八分」を恐れて周囲に同調する日常の中で、本音を確かめる瞬間となる。
「出る杭は打たれる」画一的な社会の中で、いわば「本当の自分となる」瞬間なのである。
それらの瞬間の日常生活への継続的反映が「生きる実感を持って生きること」だと考えられる。

生きる実感を求める人たちは、それを得ようとして「頑張る」ため、周囲の人たちからは生真面目な人という評価を得ることが多い。
しかし、元来スパークが日常性を持つはずもなく、それを経験できない自分に対する自責の念を持ちやすい。
またそこには、安心して自分を明け渡せる普遍的な対象を求める契機が含まれやすい。

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