2:ステパノの迫害後の初代教会
ヒトデ型教会のススメー現代日本教会の閉塞感を打破する試みとしてー
『福音主義神学』(第38号)より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男
2:ステパノの迫害後の初代教会
分権型の組織が攻撃を受けて、それまで以上に開かれた状態になり、権限をそれまで以上に分散させ、つぶしにくい組織に強化されていくという話は、新約聖書にも見られる。
復活の主イエスは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)と弟子たちに語られた。
エルサレムで始まった証言の働きが、地理的・文化的・民族的境界を超えて、まずは近接地域に拡大し、さらに地中海世界全体、そして、最終的に「地の果て」に到達することが、イエスが思い描いておられたことであった。
ところが、弟子たちはなかなかエルサレムから出て行かなかった。
使徒たちの関心事は、神の民を戦略的に派遣することではなく、共同体内部の食料分配に関する争い事の解決と、急激に増加した信徒たちの牧会的ニーズを満たすことに向けられていた(cf. 使徒6:1-6)。
そうこうしているうちに、迫害が起こった。
ステパノの殉教の日、「エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。」(使徒8:1)
そして、「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(使徒8:4)
初代教会の場合も、アパッチ族と同様、分散型組織である教会に対する攻撃は、さらなる分散を引き起こし、迫害者にとってさらに管理しにくい体質に変貌していったのである。
迫害の後、エルサレムに留まっていた使徒たちに、遠くアンテオケから知らせが入った。
迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロスまでも進んで行って福音を伝えたが、アンテオケに達したときに、ギリシャ人にも福音を伝えるようになった。
異邦人宣教の拠点となるアンテオケ教会は、使徒たちが創設したのではなかった。
財産を没収され所払いにされた名も無き人たちによって開拓されたのである。
「遣わされた者」という名称を与えられた使徒たちが、分散の使命を脇において、1つの所に留まり続けた結果、神は迫害を用いて、彼ら以外の無数の「遣わされた者」たちを起こされたと考えることができよう。
しかし、別の角度から見るなら、エルサレムの信者たちの群れに分散のDNAを与えたのは、他ならぬ使徒たちだったとも言える。
使徒たちを育成したイエスご自身は、父によって遣わされた方だった。
そのイエスが、今度は十二使徒を2人1組(計6組)に編成しなおして、弟子派遣の第1段階として、イスラエルの町々に送り出された。
派遣の第2段階は、ルカ10章に記されている。
ここで、12人のほかに72人(あるいは70人)の弟子が登場する。
この72人の新しい弟子たちは、2人1組に分けられた6組の十二弟子が、各組12人ずつ育てることによって起こされたと考えられる(12人×6組=72人)。
イエスと十二使徒たちは、2人を2人1組に再編成し、計36チーム派遣した(ルカ10:1)。
ここでも、1チームが遣わされた所で、それぞれ12人の弟子を育成したと考えると、復活のイエスに会った500人以上の人たち(cf. 1コリント15:6)は、72人と、72人によって育成された人たちだったと考えることができる(72人+12人×36チーム>500人)。
500人、つまり2人1組で構成される250組の弟子育成チームがすでに存在していたからこそ、ペンテコステの日に3,000人がバプテスマを受けても、彼らを育成することができたと考えられる(12人×250チーム=3,000人)#6。
このように、弟子たちはさらに広範囲に分散することを通して、力を得るようになった。
そのきっかけは、多くの場合、権限分散型の組織から脅威を受けた中央集権型の組織からの攻撃だった。
『福音主義神学』(第38号)より転載:宣教戦略シンクタンク「RACネットワーク」福田充男