1:教会に「野生の生命力」を回復する

2012年8〜11月号の「風知一筆」より転載

 

先日、沖縄県北部にあるカナンファームという農場を見学させていただいた。この農場では、牛豚の生産と農作物生産を併せて行なう有畜農業を営んでいる。代表者である依田啓示さんは、第一世代の若手専業農家だ。依田さんとの会話から、神の国にかかわる大切な原則を学ばせていただいた。

 

カナンファームでは沖縄の農家ではほとんど見られない風景が見られる。それは、畑に雑草が茂っていることだ。農作物が雑草と一緒に育っている。たとえばススキは、沖縄の農業では敵対視されてきたのだが、ススキの根元を掘るとミミズが非常に多く見つかるそうだ。そのミミズが畑を耕してくれる。ススキがあることで、元々の山の土に戻っていくのだ。ススキのおかげで、肥料に頼らなくても安定的な収穫が見込める土に返っていく。

 

除草をすると、雑草が吸収した栄養分も捨ててしまうことになる。雑草はやがて枯れるので、そのままにしておくことで栄養分も土中に留まるというわけだ。そもそも、除草剤の多用は何も良い結果を生み出さない。土壌だけでなく、作物のパイナップル自体も弱らせてしまうからだ。

 

既存農業では、その代償として大量の化学肥料を投入する。しかし、カナンファームでは除草剤、殺菌剤、殺虫剤などは一切使用せず、雑草を刈らずに生え放題にしている。化学肥料の投入も最小限にしている。そのことによって、株が本来持っている耐病性や高糖度果実の生産性を最大限に生かしているのだ。

 

もちろん、雑草が茂り過ぎて農産物に陽が当たらなくなっては困るので、年に2回は草刈り作業をするそうだ。刈ったススキは牛や豚の飼料になる。家畜には雑草だけでなく、出荷できずに捨ててきた未利用資源や生ゴミを飼料として与えているので、飼料代を従来の三分の一に減らすことができた。さらに、家畜の排泄物から良い堆肥、厩肥ができ、それをまた土に返すという循環が成り立っている。

自然の営みにはバランスがあり、循環がある。雑草や家畜の排泄物さえも固有の役割があるのだ。人間が手を加えて自然のバランスを崩し、循環を途絶させるとき、自然が本来持っている生命力を抑制してしまう。だから神が造られた自然をコントロールしようとするのではなく、自然と寄り添って生きる道を選ぶときに、神が「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(創世記1・28)と命じられた神の生産活動の一部になっていくのだ。

 

カナンファームではまた、神戸牛として知られる黒毛和牛(但馬牛)を自然環境の中で完全放牧し、豚も放し飼いにしている。コンクリート製の豚舎から解放し、土や草に直に触れさせ、穴を掘らせ、日向ぼっこをさせている。豚はもともとイノシシなので、当然と言えば当然なのだが、嵐のときも、冬の寒い時期にも、戸外で飼っていて病気になることはほとんどない。

 

野生の動物を家畜化することで、生命力が萎え衰える。その上、効率化を図るために多い頭数を入れるいわゆる「過密飼い」をしたりすると、免疫力が低下して病気にかかりやすくなる。ストレスにさらされ、無理矢理ブヨブヨに太らされた豚は、体力が落ち、菌が入りやすくなるのだ。実際、農場によっては最悪30パーセント以上の豚が流行性伝染病で出荷前に死ぬと言われている。

 

また、家の中で飼う小型犬も、週に一度ぐらいは野山を散歩させ、自然の匂いを嗅がせるだけで野生が呼び戻されて強くなるとのこと。カナンファームでは、家畜を野生の状態に最大限に戻す努力をすることで、その生命力を強化する方策を取っていた。

 

守り過ぎたり、ケアし過ぎたりすることが結局は生命力を弱らせるというのは、自然の原則だ。水族館しかり、動物園しかり、花壇しかり、ペットしかり。

教会もまた「安価な恵み」のメッセージで甘やかされ、手厚く牧会されることで、いわば家畜化されてしまい、本来神が与えておられる「野生の生命力」を喪失してしまっているのかもしれない。だから、教会もまた、人々を宣教の野に放って、神がもともと意図されたナチュラルな状態に戻す必要があるのではないだろうか。

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