4:子どもをおこらさないで育てる

エペソ人への手紙6章4節には、「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」と記されている。父たる者がなすべきことは2つある。

 

第1に、主からいただいた権威により、主イエスが弟子たちをしつけ諭されたように子どもを育てることだ。第2は、その際に子どもを苛立たせないことだ。

 

ある親は、子どもをしつけないで、まるで対等な立場に立つ友だちのように扱ってしまう。けれどもそれでは、親が様々な経験を通して学んだ真理や知恵を子どもに引き継がせることができない。家庭を荒波を越えて進む船にたとえるなら、子どもは最近乗り込んできた見習い水夫のような存在だ。経験不足の新人に操舵を任せるのは自殺行為である。

 

見習い水夫は、やがて一人前の船乗りになって、自分を育ててくれた親の船を降り、新しいパートナーと一緒に自分自身の船で出帆するときが来る。そのうち、若いカップルの船にも、さらに若い見習い水夫が乗り込んでくるだろう。そのときには、この次世代の船でも、かつて親が操縦する船で育ててもらったように、今度は自分たちの船に与えられた見習い水夫を育てるようになる。

 

だから、見習い水夫が一人前の船乗りになって巣立つまでは、友だちのように対等に扱ってはならない。そんなことをするなら、見習い水夫は大切な操縦の知識やスキルや心構えを学び損なうだけではなく、乗員全員の生命を危険に晒してしまうことになる。

子どもに何かを指示した後、「言うことを聞いてくれてありがとう」などと言って子どものご機嫌をとる親がいる。そういう親は、子どもを育成するために神が親に与えられた権威をもっと意識すべきだと思う。親に従うことが自分を守ることだし、従うことで自分が育てられるのだということを子どもに教え、子としての分をわきまえさせるべきだ。

 

ただ、このような従順は、自然には身に付かない。従順は、多くの関わりと苦しみを通して学ぶものだ。「ならぬ事はなりませぬ」と言っていれば自動的に育つというような単純な話ではない。

 

イエスの公生涯は、弟子たちが父なる神に従い続けるための訓練のために捧げられたし、そのキリストさえも「御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学」(ヘブル5・8)ばれた。

 

いつも頭ごなしに叱りつけるならば、子どもの心に怒りや恨みが蓄積されていき、子どもは苛立ったり萎縮したりするので、指示も愛情も伝わりにくい。子どもに媚びるのではなく、「親切で、塩味のきいた」(コロサイ4・6)言葉で語りかける必要がある。

 

山本五十六の、「やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」という言葉は的を射ている。人が従順を学ぶためには、模範を見せ、相手が分かる言葉で指示し、責任を与えて実践させ、失敗したときには励まし、上手くできたときには承認するという、きめ細かな対応が求められる。

では、いったい子どもがどう動くようにチャレンジすればよいのか。ひと言で言えば、子どもが親の介入なしに自立的に神の導きを受け取り、自分を制して、周囲の人々を愛しながら生きるようになることが子育ての目標だ。人間は、自立していて周囲の人々と愛の関係を保っていればたいてい幸せなのだ。

 

人材育成においても、権威を尊重することは、組織に蓄積された知識やスキルや心構えを被育成者が継承するために不可欠な行為だ。しかし時代は移り変わるので、組織はかつて経験しなかった状況の中で生き延び、発展していく必要に迫られる。

 

そのためには、次世代のリーダーたちに、伝統を創造的かつ柔軟に継承させなければならない。ここに年長者の謙遜が求められる。組織の共有財産である知識やスキルや心構えを権威をもって伝える一方、被育成者が自立的に新しい状況に対応する能力を身につけていくように育てる必要があるのだ。

 

被育成者が萎縮しないで、「先輩、そこは違う角度から考えて対応した方がいいんじゃないでしょうか。」などと自由に発言できる組織には、未来があるのだと思う。

2012年12月〜2013年3月号の「風知一筆」より転載