2:その人と何の関係があるか

ヨハネは福音書を「イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。」(ヨハネ21・25)という言葉で結んでいる。この言葉から、彼が挿話を厳選したことが伺われるが、最後に配置したのが、イエスとペテロが自分(ヨハネ)について語り合ったエピソードだった。

 

ペテロが復活されたイエスとの会話を終えて主と二人で歩き出したとき、ヨハネがついてくるのがわかった。それでペテロは、彼について尋ねた。「主よ。この人はどうですか。」共通の師であるイエスの昇天後、一番の友人であるヨハネがどう身を振ればよいかを心配するのは、ある意味自然なことだった。

 

だが、イエスは言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21・22)イエスは、友達を思いやることを否定されたわけではない。しかし、ペテロが彼自身に与えられた使命を実行することを優先すべきだとおっしゃりたかったのだろう。

 

ペテロとヨハネは、ある時にはチームで一緒に働いたが、いつもではなかった。人生の最後も別々だった。ペテロはローマで殉教し、ヨハネはパトモス島に流刑になったと伝えられている。互いに深い友情で結ばれていたことは想像に難くないが、その友情もまた、激しい迫害の中で主を愛して各自の使命に生きるという生き様への尊敬に基づくものだったと思われる。

 

ヨハネがこのエピソードを通して伝えたかったのは、永遠のいのちに至る生き方とはキリストとの一対一の主従関係が前提となっている、ということではなかったか。何よりも大切なことは、一人ひとりが自分の使命を知って、全力でその使命に生きることである。たとえ親友が困っていても、あえてかかわらずに神に委ね、自分の使命を遂行することに注意を向けなければならないときがあるのだ。

マタイの福音書第25章には、「タラントのたとえ」と呼ばれている寓話が記されている。それによると、私たち一人ひとりは主人である神の財産を預かって運用するようにと命じられた者だ。死んだ後、おのおのが主人の前に呼び出されて、財産をどう増やしたかが問われる。誰かと手を繋いで主人の前に出ることは許されないのだ。

 

清算のときに、「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と言われる者は幸せだ。「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得る」(ピリピ3・14 )ことは、犠牲を払い、生命をかけて、一心に走る価値のあることなのだ。

 

真の友情は、友が出場しているレースを代走してあげることではない。主が友に対して戦えと言われた戦いを、友が逃げないで勇敢に戦い、主が友に走りなさいと言われた馳せ場を友自身が走り終え、友のために主が用意された「義の栄冠」(Ⅱテモテ4・8)を友が自らの手で受け取れるようにと祈ることなのだ。自分の責任を自分が引き受けて生きることなしに、真の充実も究極的な勝利もない。

 

自分の責任範囲を超えて他の人に関わることで、自分も相手もコースアウトしてしまう。相手の人生を真実に導いておられるのは神ご自身だ。神に命じられてもいないのに相手の人生に干渉することは不従順だし、神固有のお働きを軽んじてその尊厳を汚すことにもなりかねない。援助された側も、神に頼らないで人に依存するようになり、自分の責任をないがしろにし、自立に背を向けて易きに流れる。

 

「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」と、イエスが私たちに語っておられる場面があるはずだ。本当に友を大切に思うからこそ、あえて手を貸さないで自分で戦うようにチャレンジするときもあるだろう。子育てでも、人材育成でも、各々の責任範囲に対する理解と自覚がなければ、指示待ち族は生み出せても、自立した人材を育てることはできない。

 

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2012年12月〜2013年3月号の「風知一筆」より転載