■HowとWhy
ここ1ヶ月ほどの間、宗教改革に関する本を読んでいる。今朝、読んだところは、カトリック聖職者の独身主義のことが扱われていて興味深かった。
中世の教会では、聖職者のセックススキャンダルが大きな問題となっていたそうだ。指導者たちは、どうすればこのような倫理的退廃から抜け出すことができるか、という「How」の問いに頭を悩ましていた。
しかし、改革者であるルターは、もっと根本的に、聖職者の独身という教理が、聖書から支持されるか、と問うた。彼は、「How」ではなく「Why」と問うたのである。
ルターがここで聖書に立ち戻って、根本的な「Why」の課題に取り組んでくれたおかげで、「家庭のあり方そのものを通して、リーダーが家族とともに福音の豊かさを証しする」という道が、少なくとも理論的には開かれたのである。
僕も、「Why」の質問に対する答えが明白でないまま、「How」の質問に答えようとしているときがあるんじゃないかな、と思った。
ルカの福音書12章13-15節
群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」