■疑いのステージ
イエス様との出会いは衝撃的だった。世界中のすべての人が否定しても、「あるものはある」としか言いようがない経験。
それなのに、しばらくすると疑うようになった。あの経験は本物だったのだろうか。天国があると言っても、見た人がいるのか。他の宗教の人はまったく別のことを主張しているのはなぜだ。
「宗教は学んでも凝ったらあかん」と親父も言っていたしなあ。こういうことに人生をかけていって、後で「そら見たことか」と言われるのは悔しいしなあ。
「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」(ガラテヤ3章1節)パウロも、 人々の心変わりの早さに接し、驚きを隠せなかった。
「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミ ヤ17章9節、新共同訳)
どんなに鮮やかな経験をした後でも、疑いは必ずやってくる。「少しも疑わずに、信じて願いなさい。」(ヤコブ1章6節)と命じられているのは、逆に言うと、人間が疑いやすいからである。
イエス様を信じた後に、疑いのステージが来るのはお決まりのコースだということを自覚していると、「予測どおりに来たか」とゆったり受け止めることができるかな。
自分のことを振り返って、どうして信じ続けることができたかを考えてみた。
1つは、何といっても、私がよそ見をしていても、イエス様の方が手を離されなかったということでしょう。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘ ブル13章5節)
もう1つは、交わりがあったことだと思う。僕の場合は特に、地に足を着けて社会生活を営んでいる「理性的な大人たち」が、大まじめで神に従い、誠実に隣人に愛を示し、落ち着いて子どもを育てておられる姿を見て、安心した。
最後は、僕がすぐに他の人に自分の経験を分かち合うように導かれたからだと思う。真理が人を自由にしていく様子を、自分自身が目撃するようになった。
このように考えてくると、バックスライドを防ぐ決め手になるのは2つ。「生きた証し人の交わり」と、「早めの外向き転換」だ。
信じた人がいるなら、できるだけ早く時間を割いて、その人に寄り添ってあげてください。 人が疑いのプロセスを通るときに、「ちょっと分からなくなっちゃったんですよ」と言って、相談できる友人がいる人は幸いです。その人は、あなたの中に注がれている神の愛を見ることで、自分の経験を確認するようになるでしょう。
互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。
ヨハネの福音書13章35節