■恵みのみ

ルターは修道院で、神の怒りとそれに起因する死の恐れから逃れて、神と和解し、魄の安らぎを得ることを求めていた。しかし、いくら学んでも修業しても、救いの確信を得ることができなかった。

中世の教会は、天国に行くための道を3つ示した。

第1の道は、注がれた恵みに応答し、それに協力し、自分で頑張って善行を積むことだ。
自分の意志や努力で救いを得ようという自力本願の姿勢である。

しかし、問題なのは、どれほど善行を積めば十分なのかがはっきりしない、という点である。ルターはこの不確かさに絶望した。

2つ目の道は、清貧・貞潔・服従の誓いを立てて修道院で修業する「聖人」が積んだ余剰 の功績を、秘跡と呼ばれる恵みを与える儀式を通して分与してもらう道だ。

ミサの「聖体拝領」(パンとぶどう酒を受ける)とそれに先立つ「赦しの秘跡」(悔い改めと罪の告白と司祭による赦罪の宣言)が恵みを受ける主なチャンスとなる。

この場合の問題点は、本当に自分の罪を知ることができるか、という点である。むしろ罪の本質は、罪を知りえないことにある、とルターは考えた。

そうだとすれば、知らない罪は悔悛できないことになり、告解から赦罪への道は閉ざされてしまう。

第3の道は、神秘思想である。神と人とが神秘的陶酔において合一する。自分を明渡すときに、あたかも大海の中の一滴のように、人は神に吸収され、弱さも汚れも覆い包まれてしまう。

ここでもなお残る疑念は、罪深い被造物である人間に、聖なる全能の創造主との「合一」が可能か、という点である。ルターはここでも救いの確かさを獲得できなかった。

こうしてルターは、罪人を罰する義なる神を憎むようになる。苦悩の果てに、彼は「塔の体験」と呼ばれる福音再発見の経験に導かれた。

罪人が義とされるのは、善行によって蓄える功績によるのではなく、ただイエス・キリストへの信仰による、という真理理解である。

人間は罪人であり、常に罪人であり続けるが、神はこのような人間をも、あたかも義であるかのごとく「みなし」、義と宣言される。

それは、神からの一方的な恵みのわざであり、意志や努力という人の側の働きにまったく依存しない。これに信頼するときに、はじめて救いの確かさが保証される。

ルターは、「塔の体験」を、後に次のように振り返っている。「こうして私はまったく生まれ変わり、門が開かれて楽園の中に入った感じがした。」

このルターの発見、つまり「恵みのみ、信仰のみ」によって救われるという真理を味わい、そこに留まり続けることが、僕たちの活動の基礎である。

ローマ人への手紙4章3-8節
聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされ た。」とあります。働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものと みなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、 その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認 められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸 いである。主が罪を認めない人は幸いである。」