マリッジ・トランスフォーメーション・グループ 1
夫婦だからこそできること
LTGのセミナーを開くと、夫婦で参加されている方々から、しばしば「夫婦でLTGはできないのか」と聞かれることがあります。
これまではその質問に対して、「夫婦それぞれが同性のパートナーを祈り求めるように」とお勧めしてきました。 なぜなら、LTGは男性特有の問題、女性特有の問題を扱いやすいように、男女を混合しないで組むのが基本だからです。 また、夫婦はLTGで扱う課題の当事者となることが多く、告白することで関係が悪化することも考えられます。
しかし、そう答えながらも釈然としない思いが残っていました。 特に、遠隔地で夫婦で協力しながらハウスチャーチをスタートさせようとしておられるご夫婦に対して、「夫婦でLTGはしない方がよい」と答えるときには、複雑な思いになりました。
そこでここでは、「MTG」というLTGの夫婦バージョンを紹介します。MTGの「M」は「Marriage(結婚)」で、直訳すると「結婚が変わるグループ」となります。
家庭は神の国のショーウィンドー
1世紀の初め、最初のキリスト教会の誕生以来200年ぐらいの間は、礼拝堂が1つも建設されなかったことが発掘調査でわかっています。
と言うことは、ざっと10世代近くもの間、クリスチャンたちは礼拝専用の建物なしで教会増殖を繰り返したことになります。
初代教会では、もっぱら信者の家で礼拝をしていました。
たしかに、ステパノの迫害までの短い期間は、エルサレムの神殿に集まっていたこともありました。 しかし、その期間でさえ、家を中心とした普段の生活が、神の国の価値観を実践する場であったのです。
だから、教職者が礼拝堂で教えたり儀式をしたりすることが教会活動だと理解している多くの現代のクリスチャンが、もしその時代にタイムスリップしたなら、相当なカルチャーショックを経験すると思われます。
当時の一般的な家の大きさを考えると、10~15人の人々を収容することができる家は稀だったことがわかります。 そうすると、1つひとつの教会がどのくらいのサイズだったかが想像できるでしょう。
たとえばピリピに、500人規模の教会が1つあったという考え方は成り立ちません。 ルディアの家の教会、看守の家の教会、ユウオデアの家の教会、クレメンスの家の教会等のハウスチャーチのネットワークがあったのです。
家で教会活動をすることの利点は、クリスチャンの生き様が伝わりやすいことです。 たとえば、週に1度数時間の講演会型の礼拝なら、たとえ夫婦げんかをした後でも礼拝堂でにこにこして挨拶することができなくはありません。
しかし、自分の家が教会になるなら、そういうごまかしは通用しません。 そこは生活の場なので、夫婦は本当に仲が良いのか、子どものしつけは健全に行なわれているかどうか等、家人のライフスタイルがそこを訪れる人々の前に明らかにされてしまいます。
初代教会の強さはそこにありました。「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(詩篇127篇1節)という言葉の通り、だれも自分の力や知恵で「神に仕える家庭」(ヨシュア記24章15節)や、「祝福された家庭」(詩篇128篇3節)を築くことはできません。
だからこそ、復活の主によって守られ祝された家庭生活があるなら、ジムソンさんが言うように、その存在自体が、隣人に対する神の国のショーウィンドーの役割を果たすのです。
夫婦関係の健全化なしに世界宣教なし
ルカによる福音書第10章には、イエス様が弟子たちを派遣された記事が記されています。
ここでは、「平安の子」と呼ばれる人が登場します。ある地域や言語集団の中で神の国が拡大していくために用いられたのは、この平安の子が含まれていた家庭であったことがわかります。 平安の子の例としては、使徒の働き第10章のコルネリオや、第16章のリディアや看守が挙げられます。
イエス様によって派遣された弟子たちは、1つの家庭を見つけたならそこに留まり、そこで平安を祈り、食事をし、病人をいやし、「神の国が近づいた」と語りました。
そして、その家から「キリストによって変えられた生き様」が、「疫病のように」広がっていったのです。だから、1つの家庭が、その地域における神の国拡大の起点であり、教会の原型となる姿だったのです。
コロサイ人への手紙の中では、「信者の中におられるキリスト」という福音の奥義が明らかにされています。そして、その福音にふさわしく生きることを勧めるという文脈の中で、まず妻と夫の関係が扱われています。親子関係は夫婦関係の後に取り上げられます。
福音によって変えられた家庭、つまり平安の家が、宣教地における宣教の前哨基地となるという場合、まず取り扱われるべきなのは、妻と夫の関係なのです。
そこで、妻と夫の関係が清められ、その関係の中で神の国の素晴らしさが表現されるための枠組みが求められます。 マタイによる福音書18章20節に「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです」と記されているように、 夫婦は最小の共同体ですが、そこで、最大の約束であるイエス様ご自身を経験することができます。
誤解を恐れずに述べるなら、もし夫婦関係の中で神の国を味わうことができないなら、全世界に神の国を伝えることはおぼつきません。
夫と妻はキリストと教会の関係
エペソ人への手紙第5章には、「教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです」(24節)と語られ、夫に対しては、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい」(25節)と命じられています。 夫婦は、キリストと教会の関係を指し示しています(32節)。
健全なクリスチャンの夫婦は、その関係を通して、キリストの教会に対する御思いを経験することができます。 夫婦関係に注目することは、単に世界宣教を足許の「家」からとらえ直そうとする「宣教のパラダイム転換」だけではなく、キリストの心を知るという「より根本的な奥義の探求」に道を開くものなのです。
心のギプス
ご夫婦ともにそれぞれが熱心なクリスチャンであっても、「夫婦は空気みたいなものなので、あえて注意を向けなくてもよい」という世俗的な価値観に汚染されている方々に出会うことがあります。
日常的な夫婦関係の中で、神の国の喜びが経験され表現されることは、有機的な教会形成や教会開拓のためには、伝道集会の企画等よりも、はるかに優先順位の高いものです。
夫婦の関係を改めて見直すなら、「新婚の頃はあんなにロマンチックな気分だったのに」と、過ぎ去った日々を懐かしむ人たちも多いことでしょう。
冷めてしまった気持ちを再び高揚させるために、心理学の本からヒントを得て、日頃はしない特別なサービスをしたとしても、継続的な効果は期待できません。 気分ではなく関係の質が変わるためには、配偶者に対して愛と誠実を表現することが、日常生活の一部になる必要があります。 2人の間で優先する日課が変わると、相手を慕う気持ちは自然に回復し、成長していきます。
ダグラス・ワイスというカウンセラーは、壊れた関係が修復されることを、折れた骨が治っていく過程にたとえています。医者は患者の腫れや痛みに対処するより先に、レントゲンを撮って骨の構造がどのような損傷を受けたかを調べます。
そして、構造を修復するためにギプスをはめたり添え木をつけたりします。結婚という関係が健全な構造を回復するためには、湿布や痛み止めのような対症療法よりも、ギプスのような構造そのものを扱う治療が必要なのです。
MTGという関係作りの枠組みでは、夫婦で3つの日課を行ないます。ある方々はこれらの日課を不自然だとか作為的だとか思われるようです。 しかし、骨が折れているのにギプスをはめないなら、たとえ腫れが引き、痛みが去ったとしても、根本的な骨の構造は扱われません。「不自然」なのは、治療ではなく構造のダメージなのです。
デイビッド・シーモンズは、「愛が自動的に持続するという考え方は、結婚に関するもっとも未熟な誤解だ」と述べています。成熟した夫婦の愛は、日々の誠実なかかわりの果実です。 人は日々まくものを刈り取るようになるのです(ガラテヤ6:7-9)。