日本に文脈化された説教:2

3、日本宣教において説教が占める位置

説教というコミュニケーションのあり方には、他のコミュニケーションのアプローチと同様、限界と利点がある。
まず限界から簡単に論じることにする。
まず第一に、いくら優れた説教者であっても、講壇の上から語るだけでは、主に従って生きるお手本を示すことは困難である。
講壇でガウンを着て熱弁を振るっている人が、日常生活をどう営み、危機にどう対処するかに間近に接して初めて、受け手は語られたことを自分の具体的な生活に結びつけることを学ぶのである。
具体的な模範を示すことなしに、福音の素晴らしさを十分に伝えることはできないし、受け手が生き方を変えるための動機づけを与えることも容易ではない。

第二に、一人が語り、多くが聞くという講演会スタイルでは、聞き手の多様な状況に聖書の言葉をどう適用するかを指し示すというきめ細かい対応をすることはできない。
対話の中で新しい事実を共に発見する、というような作業は、ケアのできるリーダーが立てられた小グループに分割したり、上級者と初心者の一対一の組み合わせを作る等の方策を取らない限り不可能である。

さらに、言葉中心のアプローチが持つ限界を認識することも必要である。
非言語的メッセージの受け手に与えるインパクトを過小評価してはならない。
聖餐式・洗礼式のような儀礼に参加すること、一同で声を合わせて賛美したり密室で黙想したりすること、食事をしながら親しい交わりをすること、会堂の空間設計や飾りつけ、服装・音楽・香り・照明・プログラム進行の方法等のすべてが、言語的メッセージに優るとも劣らぬ有力なコミュニケーションの媒体となっているのである。

このようないくつかの限界があるにもかかわらず、説教はなおも日本宣教において欠くことのできないアプローチの一つである。
なぜなら、説教以外の方法では、短時間に多くの情報を伝えることが困難だからである。
短い人間の一生の間に、聖書に含まれる神の多種多様な知恵を受けとめるためには、多くの情報を受け取ることができる手段を確保していることが必要である。
イエスも一対一や小グループの特性を生かしたアプローチを取るだけでなく、大群衆に向かっても教えられた。

また、多くの日本人は、相当親しくならないと正直な自分の本音を他人の前に表すことをしないものだが、そのような日本人にとって、しばらくの間受け身でいさせてくれる説教の時間は、教会を観察する期間となる。
すでに教会の活動に積極的に参加している人々にとっても、新しい現実認識のあり方を受け入れるためには、その新しい立場に自主的に立つ前に、少し距離を置いて、情報収集をする時間がほしいと思うことがあるのではないだろうか。
説教は、保守的傾向のある人々にとっては、神が用意しておられる新しい段階に移行するための心の準備を促すものとなるのである。

4、日本人の心に沁みる説教のための三つの要件

1)オカゲイメージ

日本人は、存在するすべてのものの中に美と輝きを見いだすことのできる感性を持っている。
見田宗介は、それを<原恩意識>と呼び、ヘブル的な原罪の教えと対比している#3
日常生活の何気ないひとこまを「ありがたい」と感じ、生きていること、存在することの中にある美と幸福を認める感性を「オカゲ意識」と呼ぶ#4

そこで、このオカゲ意識を接点として「神の恵み」を証しすることを考えてみよう。
日本人にとっては、良い者の上にも悪い者の上にも太陽を昇らせ雨を降らせる神、空の鳥を養い野の草花を着飾らせる神は、イメージしやすいはずである。
「世界にはオカゲが満ちている」という「オカゲイメージ」とも言うべきものは、絶対的な主権をもった生命の源なる人格神から与えられる無償の「恵み」を伝達するための前段階として評価することができるであろう。
このオカゲイメージは、雨の多い日本においては、「水」に関する表現と結びついていることが多い。

そこで、説教においては、「注がれる」恵み、「満ちる」恵み、「溢れる」恵み、清め生かす「生命の流れ」としての恵み等のイメージを描くことが、真理の他の側面に受け手を導くための有効な導入路となるのである。

2)孤立の傷を癒す受け入れのメッセージ

現代日本文化においては、伝統的な地縁・血縁の共同体の崩壊に伴って生まれた核家族がさらに分解して、人間の個体化・孤立化がますます進んでいる。
特に青年たちは、画一化し閉塞した少子社会の中で競争主義の洗礼を受け、ファミコン・パソコン・ビデオ・テレビ等の高度情報機器に囲まれて、煩わしいコミュニケーションの努力を避けることのできる自分だけの密室に逃げ込んでいく傾向がますます強まっているように見受けられる#5

このように、「生きることの手ざわり」#6、つまり人間らしい実感の世界を喪失した青年たちが、新宗教に救いを求めるという構図がある。
日本の教会は、彼らのニーズに十分答えているとは言い難い。キリストの愛で結ばれた神の家族は、新宗教の細胞組織に勝って、青年たちの孤独を癒すことができるはずではないのだろうか。
宇宙のあらゆる生命活動を一身に集約しておられる創造主と一体となることは、超人願望の充足を売り物にするカルトに勝って、人々の無力感・焦燥感・閉塞意識を解消することができるはずではないのだろうか。
日本人キリスト者は、「現代の難民」と呼ばれている同胞の叫びと「慰めよ、我が民を慰めよ」#7と語られる神の御声を聞き分ける感受性を求める必要がある。

アイデンティティの危機に直面している現代日本人に対して、「ありのままの私が受け入れられている」というメッセージは、大きなインパクトを与えるものである。
学生の間は偏差値偏重の評価を受け続け、社会人になってもガンバリズムを至高の価値とする会社共同体に取り込まれる一般的日本人にとって、キリストの無条件の受容を納得させることは、一朝一夕でできることではないだろう。
しかし、このメッセージだけが、日本人を孤立化の縄目から解き放ち、神との新しい関係の中へと導き入れ、神の民としての新しい立場を与えるのである。

3)永遠の存在に自己を明け渡す

武田清子は、日本文化の深層には、非合理的なシャーマニズム、閉鎖的な集団主義などの要素とともに、永遠の超越的・普遍的価値を志向するような要素が内包されており、時代を貫いて日本人の思想と行動を特色づけてきた、と主張している#8

これは、神が人の心に永遠への思いを与えられた#9という聖書記者の人間観に根を下ろすものである。
日本人は、集団的無意識のふところの深みでは、自己を永遠の存在に明け渡したいという願いを持っている。
そこで、日本における福音伝達者は、「行者のはからいを捨てて、自然に随順する」#10、あるいは「私意を離れて、道と一つとなる」#11という場合の「自然」あるいは「道」が、宇宙を貫く根源的生命であるキリストへと相通じることを指し示すことができるのである。
もし、永遠の神がありのままの私を無条件で抱いてくださっている#12ことを言葉と行為で明確にアピールするなら、
多くの日本人が「行者のはからいを捨て」、「私意を離れて」キリストにすべてを委譲する、という可能性が残されているのである。

閉塞空間に埋没・逃避する青少年、労働中毒で帰宅拒否症に悩む企業戦士たちが、天地の主による無条件の受容というメッセージを受け取るとき、孤立の傷が癒され、アイデンティティの危機が克服され、キリストに生活を明け渡しながら生きることの新鮮さを発見していくことであろう。

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