■神の声を聞く3つのチャンネル(その1)

神の声を聞く3つのチャンネルがある。1つは、神との一対一の交わりの中で、聖書から御心を受け取るチャンネルだ。

「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(第2テモテ3章16節)

聖書は、キリストに従う者たちに、生き方の原則を提供する。また、具体的な指針を与える。神は聖書を通して、信者個人に向かって語ってくださる。

一般に「おみくじ読み」と呼ばれている読み方がある。まず目を閉じて、一気に聖書を開き、開くと同時に、適当に指さす。その箇所に書かれていることを「お告げ」だとみなす。

その聖書箇所がピンと来なければ、しっくり来るまで繰り返す。こういう読み方をする人は、自分が選ぶ道をすでに決めている。その上で、それを支持する聖書の箇所を探している。

このような読み方を繰り返しても、神の声を聞くことはできない。自分が聞きたい声を聞くだけだ。利己的な動機で、神聖な神の言葉を利用しようとする人の「気休め」に、神が付き合われることはない。

聖書はまんべんなく何回も読むものだ。また、「おっしゃることは何でもします」という心構えで読むものだ。

わからないところがあれば、どうすればいいだろう。そのときは、まず祈る。それでもわからない場合は、取り急ぎ置いておいて、読み進む。

僕は、これを「聖なる読み飛ばし」と呼んでいる。祈りつつ読み進んでいくと、前にわからなかったところがわかることもある。また、2回目読んだときにわかることもある。

聖書の2%は、聖書学者が何千年も議論してもはっきりとはわからない。だから、無理に解釈してはいけない。わからない所は神に委ねて、次に進むという「踏ん切り」が大切だ。

聖書を読むときには、2つの祈りをするようにお勧めする。

まず、「理解させてください」と祈る。次に、理解したことを「実行させてください」と祈る。神の言葉を聞いて行なうために、聖書は読まれるべきだ。聞いても行なわないと、従わない癖がついてしまう。

学んでばかりで従わないクリスチャンは、目的なく身体を鍛え、鏡に自分の姿を映しだして自己陶酔している人のようだ。

また、いくら学んでも、実際に従わないと真理は理解できない仕組みになっている。

言葉をくださった神に信頼して、未知の世界に踏みだすという勇気ある行動なしに、何かを理解できると思ってはならない。

それをしないなら、自分の頭で理解できる範囲の神を承認するという行為を、無為に繰り返すだけである。それを何年しても、自らの成長にとっても、神の国の進展にとっても、ほとんど時間の無駄である。

聖書を読んで教えられたことを、家族や友人と分かち合うことも大切だ。聞いたことを行なうために、決心したことを、なるべく具体的に口に出して言ってみることをお勧めする。

「明日から、早速やってみようと思うんだ」と、口に出して言うことで、決意が固まる。それを聞いていた人も、とりなすことができる。

また逆に、相手が話してくれたことで教えられることもあるし、相手が従う決意を表明するなら、その戦いに祈りを通して参戦することもできる。

仲間と一緒に聖書を読む方法として、「LTG」というやり方がある。下のURLに詳述されている。

http://homepage3.nifty.com/rac/aco_ltg_top.html

 

詩篇119篇105節
あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。