■神の声を聞く3つのチャンネル(その2)

 

神の声を聞く3つのチャンネルのうちの2つ目は、信者の交わりの中で、互いの証や告白を通して神の声を聞くチャンネルである。

ヨエルは預言した。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。」(使徒の働き2章17、18節)

終わりの日とは、2000年前のキリストの誕生から、将来約束されているキリストの2度目の来臨までの間のこと。つまり、今日も終わりの日ということになる。

それは、老若男女を問わずに、神の霊が注がれている時代。すべての信者が預言したり、幻や夢を見たりするようになる。王や預言者だけではなく、すべての信者が神の言葉を預かる。

パウロは、コロサイ人に、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」(3章16節)と勧めている。

キリストのことばを豊かに住まわせた人とは、単に聖書の言葉を暗記している人ではなく、言葉に従う経験を通して「言葉の確かさ」を知っている人である。

従順な人たちが、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒めることができる。教職者や教師だけではなく、神の偉大さを身をもって証しする人たちが相互に学ぶようになるのである。

たとえ如才なくすらすらと教えることができても、教える人の実際の戦いが、その人の教えに反映されていないなら力はない。

それは、独り芝居であるばかりか、偽善の疑いすらある。悪くすれば、教えと生き様のかい離した隙間から、異端が入り込んでくる。

たとえ言葉は拙くても、聖書の言葉に従い、自分の生き方を変えようと戦っている人の言葉には、たとえ、語る人は意図していなくても、他の人の生き方を変える迫力がある。そこに信仰歴は関係ない。

そして、そのような証し人のいる交わりでは、感謝にあふれて心から神に向かって歌う賛美の声が上がるのである。

神に従ったという証と、罪との戦いに真摯に取り組むゆえの告白、さらには、互いの重荷を負いあうためのとりなしがある場で、人々は互いに研ぎ合い、清められ、励まされる。また、キリストの弟子として生活の中で神に従い、隣人を愛するように導かれていく。

これが教会だ。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18章20節)そこに、大宣教命令の司令官である主が立っておられる。

このような「生き様に結びついた証」によって教え合う交わりを通してだけ、人は弟子として成長することができる。

そして、この証こそが宣教の力である。洗練された講演会や感動的なコンサートも用いられることがあるだろう。しかし、地域や国に弟子が満ちるためには、「従ったらこうなった」という生き生きとした証が、「普通の人たち」を介して伝染していく道しかないのである。

神の声を聞く第2のチャンネルは、従う弟子たちの証の交わりの中で、互いに学びあうという道である。

 

第1テサロニケ5章11節
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。