■神の声を聞く3つのチャンネル(その3)

 

神との一対一の交わりの中で聖書から教えられ、証しする弟子たちの交わりの中で互いに学び合う、という2つのチャンネルが確保されないところでは、弟子として成長することは、ほとんど不可能である。

神の声を聞くもう1つのチャンネルがある。それは、日常生活の中で具体的な指示を受けとることだ。

マタイの福音書4章4節には、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」という有名なイエス様の言葉がある。

「神の口から出る」という言葉は、正確に表現すると、「神の口から絶えず出ている」と訳すことができる。

もしそうであるなら、僕たちは、そのほとんどを聞き落としていることになる。しかも、聞き落としている言葉は、「それによって生きる」と言われている生命の言葉なのだ。

神が私たちのことを思って、語り続けてくださっているのに、上の空で、他のことに気を取られているのだとすれば、それは無礼なことだし、申し訳ないことではないだろうか。

数年前、ヨーロッパのある空港で、地元の人と待ち合わせたことがある。別々の場所から来て、その空港のチェックインカウンターで合流し、一緒に飛行機に乗ってある所に行くつもりだった。

ところが、僕は間違って、同じ空港の別のターミナルでその人を待っていた。なかなか会えずに、時間だけが過ぎていった。搭乗手続きが終わろうとしたときに、僕は誤りに気付き、急いで正しい待ち合わせ場所に行った。

そうすると、彼は少しもあわてずに、「君が来ることを知っていた」と言った。神が予め語っておられたのだ。

さて、ここで考えていただきたい。神は僕には語られずに、友人にだけ語っておられたのだろうか。そのために、僕はやきもきし、彼は平然としていることができたのだろうか。

神はヨーロッパの人だけに語られるのか。あの日、神は僕にはわからない言葉で語っておられたのだろうか。

僕はそのときに、「神の声を聞くというのはこういうことか」と思った。神は日常生活の中で語っておられる。そして、僕もその友人のように、神の声を聞くことができるんだって…。

神の声を聞くときに、大切なことが2つある。

1つは、神が語っておられるという前提に立つことだ。意識すれば、語っておられることがわかってくる。

たとえば、ヒゲをはやすようになって、ヒゲをはやしている人が目に付くようになった。意識して見始めると、意識していなかったときには見過ごしていたことを発見するようになった。

「お話しください。しもべは聞いております。」(第1サムエル3章10節)と祈り、語り続けておられる方を意識するなら、聞き落とすことも少なくなるだろう。

もう1つは、聞く練習をすることだ。初めから上手に聞くことができる人はいない。1度も失敗しないで自転車に乗る人がいないのと同じだ。

人の心の中にはいつも多くの思いがある。詩篇の記者は、「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。」(139篇23節)と祈っている。

そこには、信頼もあれば、思い煩いもある。時には正反対の考えが交互に浮かび、迷う事もある。その場合は、気持ち悪いかもしれないが、「心というのはそういう仕組みなんだ」と割り切ることだ。

だから、否定的な思いが自分の心の中にあるということで、失望する必要はない。それが自然だ。正直にそれを認めればいいだけ。

しかし、「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる。」(ピリピ2章13節)

だから、神が与えてくださった志が何かを教えていただくように祈ればよい。「神様、あなたが与えてくださった思いにスポットライトを当ててください」と祈るのである。これが練習の最初のステップ。

練習の次のステップは、もし「これは神からの思いかもしれない」と思ったら、勇気を出して、それを自分への言葉として、一旦引き受けてみることだ。

しばらく、そのつもりになってみて、主がその思いを強めてくださるか、あるいは、その思いを捨てるように導いておられるかを、心を神に向けて「感じる」練習をするのである。

大胆に試行錯誤を繰り返していると、次第に「そうか!」と納得することが増えてくる。 そして、自転車に乗るときのように、だんだん感覚が磨かれ、より正確に聞くことができるようになっていくのだ。

もちろん、聞き間違えることがある。でも、失敗を恐れているなら、いつまでたっても聞くことはできない。

だから、勇気を出して、与えられたと思うことを受け取る練習を続けよう。間違ったらやり直せばいい。

練習の第3のステップは、「失敗しても失敗から学べばいいんだ」と思い、めげないで練習を続けることだ。

「良い物と悪い物とを見分ける感覚」(ヘブル5章14節)は、反復練習によってしか身につかないからだ。

神は、「戦いのために私の手を鍛え、私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる。」(詩篇18篇34節)肉体を鍛練するように、御心を受け取る感覚を鍛練する人は幸いである。

 

第1テモテ4章8節
肉体の鍛練もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。