■誰がわたしのために行くだろうか

 

イザヤ書6章前半のイザヤが見た王座の幻はダイナミックだ。イザヤは、天の王座に座しておられるヤハウェ(神)と、天使たちを見た。

天使たちが叫ぶ声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。イザヤはそのヤハウェの清さと荘厳さに圧倒され、自分は滅ぼされると確信する。

「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(5節)

ところが、天使は、祭壇から取った炭をイザヤのくちびるに触れて宣言する。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」(7節)

すぐさま、ヤハウェが、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と呼びかけられる。

イザヤは、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と言った。「罪の赦しの宣言とその受容」と「派遣へのチャレンジとその応答」という礼拝の本質が、美しく表現されている。

この物語を読んで、2つの話を思い出した。

1つは、200年前のドイツのお話。 1人の青年が旅先でデュッセルドルフの美術館に立ち寄った。彼は、1枚の絵の前で身動きが取れなくなった。

それは、ドメニコ・フェッチ作、「エッケ・ホモ」と題された、茨を冠した十字架のイエス様の絵だった。彼の両眼は涙でいっぱいになった。その絵の下にはラテン語でこう書かれていた。「我は汝のためにかくなせり。汝は我がため何を為すや」と。

その言葉を自分への直接の語りかけとして聞いた瞬間、彼は「おお主よ、我がすべてをあなたに献げます。わが全身全霊を御支配下さい。十字架上のあなたこそが、我がすべてです。」と言って、召しに応じた。

ヘルンフート同胞教団の創立者であるツィンツェンドルフの、人生の転換点となったエピソードである。

もう1つは、現代のインドの教会開拓者派遣の話である。1996年に500人の青年たちが集まり、インドの福音化のために祈った。彼らは、インド全土に新しい教会を50万教会、開拓させてくださいと祈り求めた。

今年は、それから10年目に当たる。彼らは10年で、新しい教会を17万開拓したそうだ。それも未伝民族の90%が分布する宣教の困難なインド北部で、教会増殖ムーブメントが起こっているとのこと。

僕たちにも、十字架の主が語ってくださっている。

 

イザヤ書6章8節
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」