■生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

 

神は人間を創造された後、彼らを祝福して言われた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1章28節)

神のみこころは、ご自身のかたちに創造された人間が、地を満たすほどに子孫を増やし、神の支配を代行することだった。しかし、罪を犯した人間は、使命を遂行することができなくなった。

出ていって増え広がり、御心を行なうという「分散の御心」が確認された事件が、創世記11章に記されている。人々はシヌアルという平地に集結して言った。

「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

彼らは、神の名誉ではなく、自分の名を上げようとした。また、神の支配を現実化するという使命を捨てて、自分の保身を優先し、「散らされないように」努力した。

主は、人間の建てた町と塔をご覧になり、言葉を混乱させ、地の全面に散らされた。人間が使命を自覚して外向きに出て行かないと、神が強制的に分散させられることがある。

これと似たことが、新約聖書の中にも出てくる。復活の主は、天に昇られる前に、弟子たちにこう言われた。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き1章8節)

しかし、弟子たちは、いつまでもエルサレムから出て行こうとしなかった。それで、神は、ステパノに由来する迫害を通して、彼らを言わば強制的に分散させられた。

「散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」(8章4節)このときに出て行ったのは、使徒ではなく、住み家を追われ、財産を奪われた名もない信者たちだった。

しばらくして彼らが、後に世界宣教の拠点となるアンテオケ教会を形成するようになる。使徒たちは、バルナバの報告を通して、既成事実を追認しただけだった。

使徒たちは、15章の「エルサレム使徒会議」の時点でも、まだエルサレムに留まっていた。成功体験や安定した立場は、リスクが伴う決断を鈍らせてしまう。

さて、僕たちはどうか。心地よい場所に留まろうとしてはいないか。散らそうとするのではなく、集めようとしているのではないか。

キリストに結びつけられた者は、新しく創造された者だ。霊的な子孫を次々に生み出し、神の支配を被造世界にもたらすという命令を受けている。

 

マタイ28章18-20節
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」