■僕たちの歌
今年初めに、東南アジアにある1つの村落を視察する機会があった。そこで、地域のハウスチャーチのリーダーたちが集う集会に参加させていただいた。
西洋型の「洗練された」賛美礼拝に慣れていた僕は、それに出て面食らった。彼らは伝統的な楽器を改造し、新しい楽器を創作して演奏していた。賛美歌自体も輸入物ではなく、自前の歌だった。
礼拝というよりもカラオケ大会という感じ。賛美は、最初の歌と3番目の歌は、ひょっとして同じじゃないか、と思うほど素朴だった。
過疎の村なので、40代後半の「若手(?)」の女性がリードしていた。歌と歌の切れ目になると、雑談していた人たちが、やおら立ち上がり、しばらくすると盆踊り状態になった。
1人ひとりが喜んで歌い、踊っていた。もちろん、賛美なので、内容は聖書だが、音楽自体は、まぎれもなくその村の音楽だ。彼らは、生れたときから、この歌を聴き、この踊りを踊って育ったんだろうな、と思った。
深いしわが刻まれた年配の男女の笑顔がまぶしかった。これが、僕が夢見ていた光景だと思った。僕は、しばらくの間、涙が止まらなかった。深い静かな感動があった。
もちろん日本は、熱帯の農村とは環境が違うので、同じことはできない。しかし、英語圏で「はやった」歌を翻訳して歌う以上のことはできないのだろうか。
スウェーデンの宣教師が「輝く日を仰ぐとき」を歌うとき、米国人の宣教師が「アメイジング・グレイス」を歌うとき、彼らは自分たちの民謡を歌っている。
数年前、水害でバスが川に流された。乗客は年配の方ばかりだった。彼らはバスの天井の上によじ登り、水没しかけているバスの上で助けを待っていた。そのとき、「上を向いて歩こう」を歌って互いに励まし合ったとのこと。
それなら、教会でも「上を向いて歩こう」で賛美してもいいんじゃないかな。「さざえさん」の主題歌でも、あゆでもサザンでもひばりでも、「これは僕の歌だ」と思える歌で賛美できればいいなあ。
第1コリント9章20節
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりま した。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、♢♢私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、♢♢律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。私はすべてのことを、福音のためにしています。それは、私も福音の恵みをともに受ける者となるためなのです。