■自分中心から神中心へ
イエス様を信じる人たちは、たいてい利己的な動機で新しい世界の扉を開く。動機は2つに分類される。
1つは、彼岸での安寧、つまり、永遠の生命である。実際に自分の死に直面して、死を恐れない人はいないだろう。
もう1つは、此岸での幸福や充実である。これは、3つに分類することができる。
第1に、霊的力の獲得。第2に、受容・支持してくれる交わりへの希求。第3に、生き甲斐や生きる目的を持つことである。
イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11章28節)と呼びかけておられる。
だから、何がきっかけでイエス様を求めてもかまわない。答えは、創造主であられるイエス様にあるのだから。イエス様が、すべての問題の最終的な答えだ。
1人ひとりの人生を導き、1人ひとりに異なる計画を持っておられる神様は、その人が救いを求めるための「ふさわしい入口」を用意しておられる。
福音を紹介する者たちは、それらの入口を見分け、彼らのニーズを満たすことを通して、神の愛を証しするべきだ。
さて、伝道する者がうまく人々のニーズを見分けて福音を提示することができ、ある人がイエス様を信じたい、と思ったとする。その次のステップは何だろう。
神、罪、裁き、救いについて、その人が理解して、それを自分で告白できるように教えることだろうか。
以前、小学生の洗礼式に立ち会ったときのことを思い出す。洗礼槽の中で、洗礼を受ける前に、小学生が「自作(?)」の文章を朗読していた。聞いていた私は、「それは先生の作文でしょ」と、思わずつっこみたくなった。
正しいステートメントに同意すれば、それで万事OKなのだろうか。真理に対して、どれだけ正直に人格的かかわっているか、ということの方が大切ではないか。
確かに、何が正しいのかを教える必要もある。しかし特殊な場合を除いて、信じて洗礼を受ける時点では、それを全部理解できるわけではない。洗礼は「あがり」ではなく、「ふりだし」だからだ。
僕は結婚して数十年たつが、今はっきりわかることは、結婚する前は、妻のことをほとんど理解していなかった、ということだ。
結婚する前に、相手を理解しようとする努力を軽視してはならない。しかし、一緒に暮らしてみて、「こんな人だったんだ」と思うことはままあることだ。
極端に言うなら、結婚は、日々新しい発見の連続である。いわんや、キリストとの交わりにおいては、その神秘のレベルは格段に上がるはずだ。
信じて洗礼を受ける人に対して、第1コリント15章3-8節などに明示されている、福音のシンプルな内容を理解させる努力はしなければならない。
しかし、それは、全生涯をかけて、その深みを理解していくための最初のステップだという理解が必須だ。
問題は、様々な入口を通ってきて、イエス様を信じて洗礼を受けたい、という人たちに、誤解を植え付けないように注意することだ。
誤解というのは、あるステートメントを暗唱し、儀式を受けると、願いがかなうという嘘のストーリーだ。
さもないと、その人は、ずっと利己的なニーズの満たしを優先しながら、いわゆる「信仰生活」を送っていくことになる。
ギリシャ語の「信じる」という言葉は、「従う」という意味を含んでいる。あえて造語を作って表現すると、「信従する」とでも言わなければならない。
だから、まず信者になり、その後弟子になる、というのは誤謬である。「従わない信者」という、聖書にはない段階を勝手に創作することで、新しい信者の将来は致命的に損なわれる。
人は、最初から弟子として、つまり従う者として生まれる。そして、弟子として成長していくのである。
だから、信じて洗礼を受けたいという人に対しては、初めからキリストに従うという決心を確認すべきだ。そして、その最初の従順のステップが洗礼なのである。
洗礼は、利己的な私がキリストとともに死に、復活のキリストと結び合わされることにより、「キリストに従って生きる私が生まれた」ことを確認する手段である。
もちろん、現実生活においては、従えないときもある。その現実を認めつつ、失敗したときや妥協したときには、「それでも従いたいです」と言って、何度でも仕切り直せばいい、と教えなさい。
従おうとする者を、神が必ず助けてくださることも教えなければならない。
また、従うことが救いの交換条件ではなく、救ってくださった神を愛する表現として従うという原理も教えるべきだ。
そして、洗礼を受けた人たちが、なるべく早く、最初の利己的な動機から脱却することを助ける必要がある。
つまり、神を「王」として敬い従うという関係自体が、かけがえのない祝福であること、それが永遠の重みを持つものであることを、「真摯なとりなし」と「模範を示す」ことを通して、悟ることができるように導くことが大切である。
マタイ13章44節
天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。