■一目ぼれみたい
イエス様の最初の弟子たちは漁師たちだった。彼らはイエス様に出会った日に、彼に魅せられてしまう。単に興味を持ったというレベルのかかわりではなく、文字通り仕事と家族を捨ててイエス様に従った。
まるで、「一目ぼれ」みたいに心を鷲掴みにされた。なぜ彼らはそんなに大きな決断を、短い時間ですることができたのだろう。
1つの理由は、彼らが選ばれていたからだと思う。スカルの井戸の女にしても、ゲラサの狂人にしても、イエス様は、町でただ1人の人と会い、その人を通して、町全体、地域全 体を救いに導かれた。
福音を伝える者にとって、神が選ばれた人に会うことは、決定的に重要だ。神がそういう人を、それぞれの地域や文化集団に置いておられると考えることは、大きな励みになる。
もう1つの理由は、イエス様が彼らのニーズを見抜き、そのニーズを接触点として、ご自身を証しされたからだ。
ユダヤ人はたいてい超自然的な現象に関心を寄せる。だから、常識破りの霊的力の行使は、彼らの心をしっかり掴んだ。
それにしても、イエス様は、人生の転換点となる大切な決断を迫るのに、あまり説明をなさらなかった。
「人間をとる漁師にしてあげよう」という約束は、大漁の奇跡の後には、イメージしやすかっただろうが、それが具体的に何を意味するのかは、弟子たちにはわからなかったに違いない。
彼らはむしろ、奇跡を見て、直感的に「この人に一生ついていきます」と思ったのだと思う。彼らの経験の意味は、決断後に段階的に解き明かされていくことになる。
もし、十字架と復活について理解していなければ、イエス様について行けないというのなら、復活前の十二弟子は全員失格だ。
宣教の進展のためには、知的に説得する力だけではなく、不可思議な神の介入を求めるべ きだ。そのことを通して、イエス様に一目ぼれする多くの日本人が起こされていくのだと 思う。
マルコ16章20節
彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。