■教会の存在理由

教会は何のために存在するのか。聖書を学ぶためか、相互に仕え合うためか、それとも、奇跡を見るためか。

2千年前に、父である神は、子であるイエス様を世界に「派遣」された。それは、十字架を通して罪を清められた人が、ご自身との「愛し合う交わり」に入る道を開くためだった。

復活されたイエス様が天に昇られた後、今度は父と子が、「キリストのからだ」である教会を、世界に「派遣」された。

それは、イエス様が世の光であったように、ご自身との交わりを保つ者たち、つまり教会もまた、光として世を照らすためである。

光として世を照らすというのは、立派な行ないをすることである。つまり、利己心を捨てて、神が望まれるように、正義と公平とあわれみの原則に生きることだ。

神の呼びかけに応答し、神に従って歩み始めた人々の生き様は、それ自体が神からのメッセージである。

人々は、彼らの立派な行ないを見て、人をそのように変えられる神をあがめ、自分も同じように変わりたいと願うようになる。

教会は、神が世界に「派遣」された者たちの群れである。教会は、言葉と行ないを通して、父の偉大さを明らかにするために存在している。

神は、滅びるばかりだった僕たちを無条件で受け止め、正しく生きることができるようにしてくださった。それだけではなく、神の国の使節としての光栄ある務めに就かせてくださった。

このご配慮を思うとき、意気に感ぜずにはおれない。キリストの兵卒として、自分を喜ばせず、派遣してくださった方の思いを遂げることに専念したいと思う。

神は、ご自身の正義と公平とあわれみ、つまりご自分の支配を、地上で現わそうとしておられる。

「派遣」された者たちとして、神の国(すなわち、神の支配)を第一に求めないなら、教会は自らの存在理由を見失っていると言わざるをえない。

 

マタイ6章33節
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。