■くちびるだけじゃなく
クリスチャンになって30年がたった。その間、どれだけ賛美歌を歌ってきたことだろう。もともと歌が好きなこともあって、楽しみながら、賛美を歌ってきた。
ヘブル人への手紙13章15節では、「私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」と勧められている。
イエス様も、最後の晩餐のときに、「賛美の歌を歌って」(マルコ14章26節)から、ゲッセマネの園に向かわれた。
詩篇150篇を読むと、様々な楽器で神をほめたたえる喜びや躍動感が伝わってくる。
賛美を歌うこと、また奏でることは、神の民の特権であり、神を愛する喜びの表現だ。僕たちの歌声や演奏を、神は喜んで受け入れてくださる。
しかし、自戒を込めて言うのだが、時には、賛美が自分を慰めたり、自分を楽しませたりするものとなってしまうことがある。
イエス様も、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」と注意しておられる。
賛美を歌うことは、あくまで「くちびるの果実」である。それは、神の言葉に従う弟子たちに対して、「神がご自分の言葉の真実性をいかに証明されたかという証言」の凝縮した表現である。
皆で集まって賛美を歌うときだけ、誠実を装うことはできない。霊とまことによって礼拝するためには、霊とまことによって生きることが前提となるのである。
「どういう心の態度で賛美歌を歌うか」と問う前に、「生活の場で、神にどのように誠実に従ってきたか」と問う必要があるだろう。
パウロは、いわゆる「賛美礼拝」の枠組みを超えた礼拝について言及している。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ローマ12章1節)
「からだをささげる」という言葉には、存在の全部をささげる、という意味が含まれている。では、果たして、僕たちの存在は、完全な神へのささげものとして、ふさわしいものだろうか。
もともと人は、美しさの極みである神にかたどって造られたものだ。神ご自身がご覧になり、「非常によかった」(創世記1章31節)と言われた。
詩篇148篇の、被造物の大コーラスの「大取り」に、諸国民の賛美が配置されているのは、人間が「創造の冠」だからだ。
僕たちが赤ちゃんの笑顔を見てニコニコするように、神は僕たちをご覧になって、ニコニコしておられる。イエス様が、十字架の苦難を通して、僕たちの罪を洗い流し、失われた神のかたちを回復してくださったからだ。
神の恵みにより、すでに神の心を喜ばせるものとなっている僕たちが、神の愛に応答して懸命に生きる姿こそが、神が喜んで受け入れられるささげものなのである。
たとえ、礼拝で賛美を歌わなくても、日常生活の中で、神のまなざしを感じながら、神を愛して生きること自体が礼拝だよな、と最近思い始めている。
ローマ15章16節
私は神の福音をもって、祭司の務めを果たしています。それは異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。