■意見が違う人への対応
世界には、食物についてのタブーがある。2千年前の地中海周辺のキリスト教会の中では、偶像に供えられた肉についての議論が活発になされていた。
ある人たちは、市場で売られているものは、みな神様が造られたものなので、感謝して食べれば害になるものはないと主張した。
他の人たちは、屠殺場で家畜が「お祓い」を受けている以上、その肉は不浄であり、それを口にすることは、他宗教の行事に参加することだと考えた。
激しい論議が巻き起こった。興奮した人たちは、「陳腐な因習にこだわる人とは付き合えない」とか、「そんな気持ちの悪いものをよく食べるなあ」とか、言い合ったようだ。
パウロは、「食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。」(ローマ14章3節) と書き送っている。
彼は、自分の意見としては、「それ自体で汚れている物は何もない」という立場だったが、ある食物が汚れていると信じている人たちを、性急に説得しようとはしなかった。
むしろ、自分が食べるところを、その人たちが見て、つまづいたり、心を痛めたりする場合があるかもしれないと思い、異なる立場の人を愛するがゆえに、その食物を食べないという決心をした。
何をしても、意見の対立することはあるだろう。しかし、神が相手を受け入れてくださったように、その人を受け入れているか、と自問することが大切だ。
ローマ14章19節
そういうわけですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう。