■狭き門
どうなったら、「余は満足じゃ」という気分になるだろうか。十分な給料か、生き甲斐のある仕事か、尊敬される立場か、良好な人間関係か、それとも神秘的な生命力との一体感か。
イエス様は、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4章13、14節)と言われた。
わたしが与える水を飲む、とはどういうことか。決して渇かなくなるというのはどういうことか。
ヒントは、別の聖書箇所にある。マザコンの兄弟が、「イエス様が支配者になったら、補佐官にしてください」とイエス様にお願いした。イエス様は彼らに次のように聞かれた。
「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」(マタイ20章22節)
イエス様が飲もうとしておられた杯とは、十字架の苦難のことだった。イエス様が逮捕の直前に、ゲッセマネの園で祈られた祈りから、それが理解できる。
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(26章42節)
大胆ではあるが的外れなお願いをした兄弟は、ヤコブとヨハネだった。前者は後に斬首され、後者は島流しにされる。彼らは、キリストの苦難という杯を飲んだのである。
イエス様が与える水を飲むというのは、「キリストのために苦しむ」(ピリピ1章29節) ことだ。
この水を飲む者、つまり、神の国のために自分を投げ出す道を歩む人は、決して渇かない。自分が満足するだけではなく、その存在が生命の泉となって人々を潤し、永遠の生命に至らせる祝福となる。
安価な恵みを説き、人々を楽しませる門は広くて滅びに至る。しかし、福音のために自分を失う道に続く門は狭いが、そこに進む者は、神を見て満足することができる。
マタイ7章13、14節
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。