■共依存から逃れる道(1) 「世話焼きのジレンマ」
3回シリーズで、「共依存から逃れる道」という記事を掲載する。友人に書いてもらった体験談を、了承を得た上で編集した。第1回目は、「世話焼きのジレンマ」と題して、「自分の力を確認するために、人の世話をする」というメカニズムを描写する。
●世話焼きのジレンマ
クリスマスにプレゼントを頂いた。天然木で作った手作りボールペンだった。作ってくださった方の奥様が言われた。「彼は、1人工房にこもって創るのが趣味なのよ。1人でいるときに、一番神様と話すことができるものね。」
ドキッとした。そうなのだ。神との対話がもっとも進むのは1人でいるときだ。それは喜びをもたらす楽しいひと時だ。この「1人でいられる力」、「1人を楽しむ力」は素晴らしい。クリスチャンになる前の私には、これが決定的に欠けていた。
以前は、1人でいることは、「誰にも認められず愛されない私」そして、「関心をもってもらえない私」を体験する機会でしかなかった。1人ぼっちは、心きしむ血を吐くような経験だった。「孤独という名の地獄」を意識することだった。
ひょっとしたら、そこから一生出られないのではないかと思うと怖かった。パニックになった。そんな時、私は大急ぎで人の世話に没頭した。いつも人のごたごたにつき合った。自分を犠牲にして、目茶苦茶に自分をいたぶったりした。
すると、ジェットコースターに乗っているかのようなハラハラした感覚がおこり、ひとりぼっちを忘れることができた。人の世話をして束の間の解決が得られると、私には「力」があるような気がした。
いつも「この私の力が、現状を変えるはず」というファンタジーの世界を生きてきた。夢見ていたことは、力を発揮する私に応えて完璧な愛を注いでくれる「愛の供給源との出会い」と、そういう出会いを経験した「勝利する私」だった。
しかし、現実の世界では、愛の供給源になってくれる人とは出会わなかった。こんなに頑張っているのに、誰も私を愛してくれないと思って怒りが湧いた。けれども、世話をやめることはできない。なぜなら、とても1人ではいられなかったから…。
孤独ゆえに世話をし、世話をしても愛を得ることができなくて絶望するという「出口のない悪循環」に陥った。「1人でいられる能力」に欠けた私は、何かに溺れるか、こだわるか、夢想するかしかなかったのだ。
詩篇27篇10節
父母はわたしを見捨てようとも/主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。