■鬱からの回復
燃えつきと鬱から回復した友人の話を紹介する。著者自身のブログで公開されたものだが、著者の許可を得て、編集して載録することにする。この友人は過労により燃えつきた。回復の鍵は、神との語らいだった。
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心療カウンセラーは、過度のストレスが原因だと診断した。そして、次のように勧めてくれた。「自分の考え方次第で、ストレスが良いものにも悪いものにもなる。だから、前向きに考えられるように、自分の思考パターンを修正していきましょう。」
しかし、問題はもっと違う次元のものだと思った。目の前のストレスをどう解釈するか、という対処療法では済まないと思った。人生の意味を問うような、高所からの見地にかかわることだと感じた。
人が生きるためには、家族があり、仕事があり、着るものがあり、住むところがあれば事足りるわけではない。生きる目的が必要だ。自分が何のために生きているのかがわからなくなってしまった私は、何もかもが虚しいと思うようになった。
身体の疲労が回復してきた頃、自分が歩んできた道について客観的に振り返ることができるようになった。虚しい人生を送っていたな、と思って悲しくなった。人生には目的があるはずだと信じてきたが、それがわからず方向性を見失っていた。
忙しく仕事をしていた時には、会社や周囲の人に必要とされていると思っていた。けれども、必要とされていたのは、「サラリーマンとしての私」であって、「1人の人間としての私」ではなかった。
会社の要望に添うことが人生の意味か。肩書きを取り除いた私は、いったい何者なのか。人生の目的は、大きな仕事をして人に褒められることなのか。たとえ成果を誇ることができたとしても、自分自身がそういう生き方に本当に満足するだろうか。
そんなことを悶々と考えていたとき、神様が語ってくださった。「あなたは誰ですか。」私は、「キリストの弟子です」と答えた。すると、神はさらに聞かれた。「キリストの弟子とはどういう人たちのことですか。」
「キリストの言葉を実行する人、すなわち、キリストに従う人です。霊とまことをもって礼拝し、自分を生きた聖い供え物として捧げる者です。」神様は重ねて聞かれた。「あなたはそのように生きていますか。」
その質問にお答えすることはできなかった。それまで、聖書を読み、祈ってもいたが、それをする動機は、「自分が好きなように生きるため」だということに気づかされたからだ。すると神様は、「私に従いなさい」とおっしゃった。
私は利己的な動機を持っていたことを悔い改めて祈った。「神様、ごめんなさい。どうかあなたが望むライフスタイルを選ぶことができるようにさせてください。正しい動機で従わせてください。」
すると元気になった。希望に満ちてきた。これは奇跡だと思う。
ヨハネの福音書8章12節
「わたしは世の光です。わたしに従って来る人は、決して暗闇の生活をすることがなく、命の光を持つことができます。」