■誰の前で奏でるか

 

天才少年ピアニストがコンサートを開いた。その希有な才能に、観衆はスタンディングオベーションで応えた。演奏が終わってしばらくしても、アンコールの拍手は鳴り止まなかった。

司会者が少年に言った。「アンコールに答えて、もう一曲弾いてくれないかな。」少年は黙ってうつむいていた。そこで司会者が、「みんな立ち上がって君を待っているよ」と促した。

少年は「みんなじゃありません。ほら、2階席のあの男の人が座ったままです。」と答えた。司会者は言った。「何言ってるの、たった1人じゃない。それにあの男の人は、足が悪くて立てないのかもしれない。さあ、行きなさい。」

少年は一歩も動かないでつぶやいた。「あの人は僕のピアノの先生なんだ。」

このエピソードの場合は、群衆は少年の味方だったが、ステパノの場合は逆だった。説教を聞いた人々は、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。そのときに、ただ1人の方だけが、彼の説教を最高に評価しておられた。

ステパノは言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した(使徒の働き7章56-58節)。

人から拒絶されたり無視されたりすることは悲しいことだ。しかし、普段は父の右に座しておられるイエス様が、私のために立ち上がってくださるのを見るなら、私の心は満足するのだと思う。

 

詩篇27篇10節
私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。