■どうなれば「満開」だと言えるか

先日、母のお伴で花見に行った。車いすを押しながら、ひらひらと舞い散る桜並木を進んだ。そのときに、しみじみとした情感に浸った。今が盛りと咲き誇る勢いとともに、落花の「いじらしさ」のようなものが心に迫ってきた。

当然のことだが、桜が満開だと言っても、すべての花が100%開花しているということはない。蕾があれば、7分咲きもある。満開の花もあれば、すでに若葉が出ている枝もある。1つの木に、様々な状態の花が共存している。

花見の客は、1本の木に咲いた1つひとつの花が、つぼみから花、花から若葉へと移るプロセスを複眼的に見、さらに林を構成する多くの花を1つの動画のように眺めて、「今日は満開だった」と振り返る。

満開という状態は、複雑にからみあった生命の営みの諸要素が、絶えず変化していく「ある段階」を評価したものであって、静的に表現することはできない。人間の右脳は、数値化しにくい風景を、包括的に判断して「満開だ」と理解する。

桜に限らず、「右脳的」に、「風景を眺めるように」見るときに、全体像が見えてくる事象がある。個別の花の盛衰、いびつな枝ぶり、強風で飛ばされる花びらに注目し過ぎると、いつになっても、「満開の桜を見た」という感慨を得ることができない。

青島刑事じゃないけれど、事件は会議室ではなく現場で起きている。生きて動いているものを、紙やフィルムやプロジェクターの画面だけで表現すると、一面的な「きれい事」の議論になってしまう。

「左脳的」な論理的枠組みや、数値化された基準は、物事の特徴を分析したり、それを他者に伝えたり、知識を積み上げて普遍的なモデルを作ったりするために必要だ。けれども、カメラを引いて景色全体をボーッと眺めるときもあった方がいい。

固定化した概念や理想的なイメージに固執するあまり、自然な流れを見ていないことがあるんじゃないかなあ。杓子定規に、「こうなるべきだ」と思い込んで、目を三角にしていることってないかなあ。もっと自由に、余裕を持って生きたいなあ。

 

伝道者の書3章11節
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。