■ラブソング
「君」と「私」と「喜び」と「存在」という4語を使って文章を2つ作ってみた。「君の存在が私の喜び」と、「私を喜ばせるために君が存在する」の2つだ。言葉の並べ方の違いで、似て非なるものとなる。
前者の「君の存在が私の喜び」では、君が私に何かをしてもしなくても、私は君の存在そのものを喜んでいる。たとえ、私が君のために自分を犠牲にするようなことがあっても、事前に君から受けた奉仕に対する報酬として自分を投げ出すのではない。
ところが、後者の「私を喜ばせるために君が存在する」では、君は、私を喜ばせるという目的を達するための都合のよい手段に過ぎなくなる。だから、君を愛すると言うことがあっても、その前提として、私を喜ばせる君の行為が必要となる。
先日妻とライブに行った。数曲聞いて変な気持ちになった。愛すること自体を喜びとするモチーフと、自分の喜びのために相手を利用するというモチーフが混合していることに違和感を持ったからだと思う。
君を愛すると言いながら、愛しているのは実は「拡張された私」じゃない、と突っ込みたくなった。それと同時に、以前はよく、自分を慰めるためにラブソングを歌っていたことを思い出した。
ラブソングは、現実を反映しているからこそ大衆の共感を得る、という点から見ると、この混合こそが人間生活の実態だとも言える。それをありのままに認めるところから始める必要があるのかな、とも思う。
一方、もし神の愛を知らないと、無条件の愛を受け取って喜ぶ代わりに、神から愛を受けるために努力するという、まったく的外れの努力をしてしまうことになる。クリスチャンが神に向ける愛の実際もまた混合しているときがある。
まだ何も始めていないイエス様に、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3章17節)と語られた父が、自分にも同じ言葉をかけてくださっているという自覚が、混合から抜け出す道となる。
雅歌4章9節
私の妹、花嫁よ。あなたは私の心を奪った。あなたのただ一度のまなざしと、あなたの首飾りのただ一つの宝石で、私の心を奪ってしまった。