■ある日の葛藤

 

誘惑に負けて、「わかっちゃいるけどやってしまった」と思うことがある。「神様赦してください」とは祈るが、「それほど悪いことでもないか」という不真面目な思いも起こっている。

第1ヨハネ1章9節には、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」とある。十字架のイエス様は、私の「現在、過去、未来」のすべての罪をすでに背負い、代わりに罰を受けてくださった。

だから、罪を言い表した私は、その時点で赦しを受け取ったことになる。その「事実」を愚直に信じることが大切だ。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ書1章18節)と語ってくださる神に感謝すべきだ。

しかし、一方で、その告白がどれだけ真実なものか、という問いが、告白する私自身の中に起こってくる。その証拠に、またぞろ同じことを繰り返したじゃないか、と思ってしまう。

心の中は複雑で、それでも、「去年よりはましか」という思いもある。「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変え」(第2コリント3章18節)てくださる御霊なる主が、確かに私の中にも働いておられるのだ。

この整理のつきにくいモヤッとした状態を、自分の悟りや力で抜け出すことはできない。パウロもまた自分の内面の葛藤を正直に認めて、「私は、ほんとうにみじめな人間です。」(ローマ7章24節)と嘆いている。

だが、こういう悶々とした状態に留まること自体が、世に対する証の力を奪うことだ。だから、やり直そうと思い直した。神との交わりの祭壇を築き直して、罪の誘惑に断固立ち向かう決意を固めた。

昔、信仰の先輩が教えてくれた。罪を犯すと、「神様申し訳ない。私は駄目な奴です。」と言って、思わず胸をたたくことがある。でも、それは1回にしておきなさい。振り上げた手に、もう一方の手を添えてひざの上に置き、神を礼拝し始めなさい。

罪を犯してしまう私のありのままを知って、受け入れてくださっている主を称えることにしよう。自分の裁判の裁判官席に座ることはできない。正しい裁判官が、「それでいい」と言ってくださっているのなら、それ以上何ができるというのか。

神様ごめんなさい。神様ありがとう。あなたは、私を作りかえて、紆余曲折があっても、ついには真心からあなたを愛する姿に変えてくださると信じます。

 

ローマ人への手紙8章1節
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。